「答え」よりも「問い」が大事だ

 「哲学は答えよりも問いを立てる方が何倍も重要だ」みたいなことを耳にタコができるほど聞いた。全くそう思わない。答えが欲しい。

 ソクラテス 徳とは何か 
 プラトン 「~とは何か」に答えはないので、「イデア」をでっちあげる
 アリストテレスは分類学者みたいなもんだと思う

 デカルト 絶対に疑えない、形而上学の基礎とは何か
 スピノザ 近代における神との絶対幸福とは何か
 カント 理性はどこまで知りえるか
 ヘーゲル ヘーゲルはなぜ絶対精神なのか
 ニーチェ 形而上学、哲学とは何か
 フッサール 厳密なものとは何か
 ハイデガー 存在とは何か
 ウィトゲンシュタイン 哲学的な問いとは何か

 ソクラテスが「とは何か」という問いを提出して、連綿とその伝統が続いていると思うんだけど、全員失敗している。認識も存在もなんにも分からない。
 ニーチェとウィトゲンシュタインが卓越している。僕がマジでびっくりしたのは「なぜ真理を求めるのか?」「真理にどんな価値があるのか?」というニーチェの問いだった。僕は「真理」とは無条件に良いものだと思っていたから、度肝を抜かれた。「真理とは生きるために必要な誤謬である」とも言っている。
 ウィトゲンシュタインも「哲学的な衝動」を治療するために本を書いている。そして二人とも「哲学なんかより生や美のほうが大事だ」と言っている。僕もそう思う。二人とも東洋っぽいんだよな。

 とはいっても、やっぱり「なぜ無ではなく、何かがあるのか」みたいな問いは深淵なものに見える。ハイデガーはこれを等級からいって一番の問いと考えているが、そうかもしれないな、とは思う。苦境に立った時に「一体これはなんなんだ」「なぜ存在しているんだろう」と思う時はある。

 ということを考えながら散歩をしていたんだけれど、仏教はどうだろうと考えた。釈迦の問いはこうだ。「苦しみを減らすにはどうしたらいいか?」
 正直、仏教を学びたての頃は、なんか即物的で浅いな、と思った。苦しみという経験的なものではなくて、存在とか言語とか、そういう深淵なものを扱うほうが高級に見えた。ただ、今は第一等の問いなんじゃないかと思う。
 この問いの卓越した所は「幸福とは何か」という正面からの問いを避けているところだ。アリストテレスに言わせれば「徳に従った人生」カントに言わせれば「道徳法則を尊敬する人だけが幸福に値する」とかになるんだろうが、こんなのは絶対に異議が出る。僕は二人とも間違っていると思う。が、「苦しみを減らすこと」に異議が出ることはないんじゃないか。
 もちろん仏教は「苦しみは執着から生まれるので瞑想しましょう」という答えがあるんだけれど、それを抜きにしても「幸福になるにはどうしたらいいか」より「苦を減らすにはどうしたらいいか」のほうが具体性がある。

 全人類は苦しい。そして苦しみから逃れることを望んでいる。最も普遍的で、最も具体的な「苦についての問い」が、一番重要なんじゃないかと思った。

勉強したいのでお願いします