20200121 名前

 僕という肉塊に付随する呼び名というものは、霊長の類いの中で、僕を一個人と規定するための記号の一つに過ぎない。ある程度の利便性は持ち得るが、そこに然したる価値はない。

 とか宣ってみたくなったのだけれど、理系科目をまともに履修しなかったリテラル風ぽんこつ人間擬きの僕には、森羅万象が名称を持たなければまごついてしまうし、僕という存在は、免許証不携帯では証明ができない。ひょんなことがあれば、動物園の類人猿にまで身を窶す恐れがある。ラテラルシンキングばかりのニヒリズム気取りは、哲学も修めそびれたために、自己の見失いが趣味になりつつある。
 そして、こういった言い回しは頭を使うので、僕には到底できないらしい。

 記号ってそもそもなんなのさ。θとφはなんとか憶えている。読み方と出題単元だけだけれども。ただ、ωとΣはもう憶えちゃいない。僕は両手の指関節より多い数字は計算できない。スマートフォンの普及による顔文字文化衰退の趨勢に追いつけなかった彼らと同様に、僕自身の学習記憶も過去に置き去りになっているのだ。

 とかなんとか、そんなことは至極どうでもよい話。
 僕は「無様散太郎」というウルトラ・ハイパーにイルでナッティ・アンド・ナスティで、デカダンスへの傾向を隠せない固有名詞を冠している訳だけれど、この名に込められた僕の熱く迸るパトスについて語りたい。数行で終わる。
 メロスくらいに安直情でつけた名称には、「漢ならば無様に散るぐらいが最高にCHILLだろう」という意味が込められている。終わり。

 そして、僕の隠された真名についての話。
 僕の与えられた下の名には「勇」という字がついている。もうこの時点で名前の選択肢が狭まる訳だけれど。僕の将来の姿をイメージし、願いを込めてつけたであろうこの文字。「勇気」、「勇猛」、「蛮勇」、「勇者」となんでもかんでも力も意志も強い言葉が連想されてしまう。驚く程に僕とは乖離している。
 そして実のところ、画数を姓名判断の篩にかけて、どこぞの生臭坊主に付けられた名前である。

 大学生の頃に付き合っていた彼女は、連絡帳に僕の名前を「優」の字で登録していた。
「だって、ひ弱じゃん」
 と、彼女がにべもなく吐いた言葉が、僕の何よりの形容である。

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