2400年以上続く伝言ゲーム、「初期仏教」

日本人の葬式は仏教式が多いし、我々の生活の中でも「金輪際」とか「億劫」とか「如実に」とかの仏教由来の言葉をよく使うけれども、では実際に仏教についてどれほど知っているのかというと、かつての私のように「南無阿弥陀仏と唱えれば極楽に行けるという教義ですよ」という程度の知識しか持っていないというのが実情ではなかろうか。ただなんとなく仏様はありがたいとか、坊主はなんだか胡散臭いとか、そういう感じの認識であり、ましてや仏教成立当時の思想的背景など知る由もないという。
しかし、いざマインドフルネスや坐禅で自分の人生の問題を解決していこうとすると、そうも言ってはいられない。ジョン・カバットジンはマインドフルネスにおいて仏教的要素を抜いたという。では、その抜いたところにあるエッセンスは本当にどうでもいいものだったのか? 自分の症状が改善していかないのは、そこに何か大事なものがあったからじゃないか? そういった疑問を解消していくためには、その元になった禅を学び、仏教を学んでいく他なかろうと思う。
しかし、だからといって今さら神や仏を信じろといわれても無理があるし、仮にそれで健康を手に入れたとしても坊主の言いなりではなんとも悲しい(実際、救いを信仰に求めたことは以前あった。しかし、事実でないことを信念として維持しつつ、その団体を維持運営するために自分を存在させるというのは結構しんどいものがあり、納得できるものではなかった)。とまあ、そんなこんなで本屋や図書館でいろいろ探しているうちに出会ったのが本書というわけ。

それはブッダの言葉ではない

本書は、現存する僅かな資料から仏教の原初の姿、いわゆる「初期仏教」の思想を解明していこうというものである。聖典としての教典を読み込んでいくというより、「文献」が成立した歴史的背景を探っていこうという趣旨の本である。インド史というのは資料が少ないという話を聞いたことがあるが、インドにイスラム教が流入したときに仏教は事実上壊滅してしまったため、ただでさえ乏しい資料が更に乏しくなってしまった。というか、そもそもブッダ存命中の教団では書物として経典を編纂するということが行われておらず、初手から既に詰んでいるようなものである。というわけで、初期仏教の姿を探るにはチベットや東南アジア諸国などの周辺に散らばった翻訳写本を仕方なく読み込んでいって、それらの違いを注意深く精査していくという地道な作業を強いられることになる。
そこで足がかりになるのが、当時のインドで既に広まっていた他宗教の思想である。バラモン教や「六師外道」と呼ばれる諸派の宗教の教義とを比較検討することで、初期仏教の姿を推理しようというわけ。こうすると色んなことが見えてくる。

たとえば、初期の仏典「スッタニパータ」に収められている散文詩の多くは仏教独自のものではなく、他宗派の苦行者文学からの引用であるという。スッタニパータといえば岩波文庫で『ブッダのことば』という題名で本になっているが、それが実はブッダのことばではなかったというのは正直驚いた。まあブッダが出てくるエピソードも結構書いてあるんだが。


でもって前述したようにブッダ存命中には経典の編纂は行われておらず、公式にまとまった経典という形で成立したのはブッダの死後数百年経った後のことだという。それまでは全て口頭伝承である。「伝言ゲーム」と書いたのはこれが理由である(研究によればかなり正確に伝承されているっぽいんだが)。

こうなってくるともう始祖無謬説....つまり「仏陀は完璧であり、その教えは全て真理である」みたいな話は全て採用できなくなってくる。もはや誰が言ったのか、ゲーテやソクラテスどころの騒ぎではない。こうなると、初手で「研究」でなく「信仰」を選んでしまった人....つまり「何を言ったか」でなく「誰が言ったか」を拠り所にしている人はもう後戻りができなくなる。私が「信仰」を避けるのは概ねこういう理由がある。

それでもブッダはすごいと思う

誤解しないで頂きたいが、だからといって仏教の全てを否定するわけではないし、個人的にブッダはすごい人だなと思う。なぜなら、彼の教義(とされているもの)は実際に「効く」からだ。それはマインドフルネス瞑想の効果が科学の方法で証明されていることからも明らかである。2500年も前にここに到達していたのだというのだから尊敬するほかないと私は思う。
だからこそ、その実績は「おとぎ話」とは区別して語らねばならん。組織運営の都合とは区別して語らねばならん。そうしたことを確認する意味でも、本書はとても面白い。今回はそういう話でした。

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