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今の広告は過剰説明なのだろうか

私自身も広告主側として扱う者として改めて考えさせられたことなのですが、ここ最近の広告表現は、多くを語りすぎてしまっているケースが多く、それが結果として受け手であるお客さま側の「考える余地・イメージする余地」を奪ってしまっているのではないかという懸念についてです。

■広告主側のあせり?
例えば、第1印象を与えるバナーやティザーなどのクリエイティブでは、その瞬間ですべてをアピールすることは物理的に難しいので、まずは興味喚起に集中、遷移先のコンテンツで改めて、という流れが一般的です。

しかしこの情報過多の現代においてそんな悠長なことをしていたら、対象に気づかれずに通り過ぎられてしまうという懸念からなのか、最初からアクセル全開で語り尽くそうとしているケースが多い印象です。まるでこの時とばかりに、緊張のあまり早口で好きな女の子に自己アピールをしてしまう男の子のように。

■お客さま側の理解度の低下?
一方で、別の角度からの見解を聞いたことがあります。それは、昭和に日本では美徳のひとつ(?)とされていた「以心伝心」のような言外のコミュニケーションが難しくなってきたことの結果、という見解です。

ここ10~20年前くらいから、年々子供たちの読書量の低下に伴い、日本語力が低下してきたことが少なからず関係しているのではないか、というものです。識字力や読解力、論理的思考能力やコミュニケーション能力など、多岐に影響を及ぼすとも言われています。

実際、バラエティ番組での過剰なテロップや「この後〇〇はスタッフで美味しくいただきました」などの注記掲出など、「画」だけでは伝わらなくなったどころか、クレームや問い合わせが増加したことで対応せざるを得なくなったという側面もあるようです。

洋画での吹替版が急増したのも、字幕版での字幕展開のスピードに追いつけない人が増え、映画館や配給会社にクレームが増えたことが原因のひとつとも言われていますし。日本語字幕のレギュレーションまで変わったというから驚きです(表示文字数制限など)。

話が少し逸れてしまいましたが、
1から10までしっかりきちんと説明しないと、その商品やサービスの良さや特徴が伝わらないから、お問い合わせやクレームが増えてしまうから、今の過剰説明とも言える広告を生み出してしまったという仮説は、あながちまったくの見当外れではないのではないかと感じています。

もちろん、薬機法や景表法などの観点から、お客さまに誤解を与えないよう、その広告表現には最大限配慮しなければいけませんし、その結果として説明過多になってしまうケースは十分にありますが。

■イメージする余白は必要なのか?
個人的にはですが、人々の価値観が多様化している現在において、1から10までしっかり説明してしまうことで、逆に商品やサービスの良さや特徴が伝わらなくなってしまう危険性が高まっていると考えています。

全員にすべてをこと細かに説明、つまり企業側の価値観を企業側の視点からで理解を強要することは、賛同者を得ることが難しくなるどころか、本来なら「お客さま」になってくれていたかも知れない潜在顧客の方までも失ってしまう危険性がある、ということです。

必要最低限の情報はもちろん提示する必要がありますが、すべては語らず、お客さま側にすこしは想像・イメージする余地を与える方が、かえってその商品やサービスの良さを伝えることができるのではないかと思うのです。結果として、お客さまとのコミュニケーションは双方向になり、より強い信頼関係にもつながっていくだと感じています。

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