【楽曲紹介】歌詞は「心象スケツチ」だ。きのこ帝国:春と修羅より
音楽は、詩の側面を持つ。
歌詞の「詞」という文字は、歌われる詩を指す。ミュージシャンの作詞という行為は「詩を綴る」、即ち心象を表現していると筆者は考える。
今回は心象を愚直に、直接的に、見方によっては攻撃的に表した楽曲として、きのこ帝国の「春と修羅」を挙げたい。
あいつをどうやって殺してやろうか
2009年春、どしゃぶりの夜に
そんなことばかり考えてた
きのこ帝国「春と修羅」
人間は詩に心象風景を載せて自己表現をしてきた。宮沢賢治は、自身の詩集「春と修羅」を「心象スケツチ」と呼称していた。
詩には多様な表現、解釈が存在することを承知で述べる。抽象的ではあるが、筆者は「現実世界に事実として存在する心象を、言語化して表現する事」が詩の目的の一つだと考える。
そもそも心象は抽象的だ。心象は他者の目には見えないが確かに個々に存在する。詩を記すことによって、形のない心象を言葉を用いて具現化できるのだ。淡白な例だが、形のない心象を「明るい」「暗い」といった明暗で表現したり、「温かい」「冷たい」といった温度を使ったり、「ブルー」や「ピンク」など色付けたりできる。
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾つばきし はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
宮沢賢治「春と修羅」(『春と修羅(mental sketch modified)』より)
宮沢賢治は怒りに「にがさ」や「青さ」を感じ、詩を通して言語化した。
前置きが長くなったが、この宮沢賢治の「春と修羅」は大衆は勿論のこと日本のミュージシャンに影響を与えた。
米津玄師の「恋と病熱」も春と修羅に収録された詩の一つからタイトルを引用している。また、ライブのMCで春と修羅の一節を暗唱している。
些細な嘘から炎症が起きた
ずっと微熱みたいに纏わりついて
愛していたいこと 愛されたいこと
棄てられないまま 赦しを請う
米津玄師「恋と病熱」
米津玄師の恋と病熱の一節を引用した。嘘から産まれる後ろめたさ、虚無感を「炎症」、「微熱」に喩える表現が大好きだ。
きのこ帝国のフロントマン、佐藤千亜妃も宮沢賢治の影響を受けたアーティストだ。「夜鷹」、「春と修羅」を聞けばピンと来る人もいるだろう。
今回は「春と修羅」を取り上げる。直接的に荒々しく心象を記す歌詞とサウンドは一聴の価値があるはずだ。
冒頭で記した、
「あいつをどうやって殺してやろうか
2009年春、どしゃぶりの夜に
そんなことばかり考えてた」という一節。
ギターを荒々しく歪ませた、所謂シューゲイズサウンドも共に耳に飛び込む。
万人共通だとは思わないが、苛立ちや敵意を心に抱えることは往々してあるだろう。その感情を具体性を持った時間、場面を通すことで現実味を持って体験できる。心象を追体験しているとも言える。
完全犯罪とかどうでもよくて
金属バットを振りぬく夢
悪意だけが真実の、春の夜の夢
きのこ帝国「春と修羅」
現実では出来ないことを心内(脳内)では実現できる。むしゃくしゃしてどうしようもない他者に向けた怒りは明確な殺意として心内で行動に移される。筆者にも経験はある。時に人間は心に闇を生み、心内の行動に移す。
心内の心象を生々しく表現している点が同曲の魅力的な点である。全体を通して常に怒りで満ちた曲ではない。心に「浮き」「沈み」があるように同曲でも一定ではない。メロディの流れからも感じ取れるだろう。まさしく、心象を歌詞にありのまま記した「心象スケツチ」と称すべき曲だ。
興味を持たれた方は是非一聴して欲しい。音楽を好きと思えるかはタイミング、自分の置かれた状況などに影響を受ける。しかし、如何にもならない瞬間やむしゃくしゃした時に、自分の心象を重ね合わせ昇華する手助けになるはずだ。
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