散歩と雑学と読書ノート
今年のノーベル賞
10月はノーベル賞受賞者が次々と発表される月である。スウェーデン王立科学アカデミーによって発表された物理学賞と化学賞がともにAIに関連したものであったことをはじめ、今年のノーベル賞はいつにもまして、時代の風の動きを感じさせるものであった。
(以下の記述は主に北海道新聞の記事を参考にさせていただいた)
1 ノーベル生理学・医学賞
まず初めにノーベル生理学・医学賞が10月7日に発表された。遺伝子制御に関わる微小な生体分子「マイクロRNA」を発見した、アメリカのマサチューセッツ大学、ビクター・アンブロス教授(70)と、ハーバード大学、ゲイリー・ラブカン教授(72)に授与されることが発表された。
1993年に両氏は、体長約1ミリの線虫で「マイクロRNA」が遺伝子の働きを調節していることを発表した。その後「マイクロRNA」が生物の成長や発達に深く関与していること、また筋肉や神経などさまざまな細胞をつくることにも関与していること、さらに適切に働かないとがんや糖尿病などの病気につながることがわかり、がんの診断につなげる試みもなされている。
2 ノーベル物理学賞
8日には物理学賞の受賞者が発表された。今回はAIによる機械学習の基礎となる手法を開発した二名の学者に授与された。受賞の理由は「人工ニューラルネットワーク(神経回路)による機械学習を可能にする基礎的な発見と発明」とされている。受賞者はアメリカのプリンストン大学、ジョン・ホップフィールド教授(91)とカナダのトロント大学、ジェフリー・ヒントン教授
(76)である。
ジョン・ホップフィールド教授は1982年、脳の構造をヒントにして機械学習の原型となる手法を開発した。ジェフリー・ヒントン教授は1985年、AIがより深く学習したうえで、新たな答えを生み出す仕組みを提示した。チャットGPTなどの「生成AI」の先行例とされている。ヒントン教授は「私たちは自分たちより賢いものを手にした経験がない。起こり得る悪い結果、特に制御不能になる脅威を心配しなければならない」「やってはいけないことをやってしまったという後悔もある」と複雑な心境を吐露している。
3 ノーベル化学賞
9日には化学賞が発表されたが、化学賞も物理学賞と同様にAIに関連した受賞であった。タンパク質の立体構造を高精度に予測するAIを開発した、グーグル傘下のディープマインドのCEOであるデミス・ハサビス氏(48)、同じくディープマインドシニア・リサーチ・サイエンティスト、ジョン・ジャンバー氏(39)とアメリカワシントン大学のデービッド・ベーカー教授(62)の3氏が受賞した。
アミノ酸の配列からタンパク質の立体構造を予測するのは極めて困難なことで、「壮大な挑戦」とされていた。2003年にベーカー教授はコンピューターで自然界には存在しない新しいタンパク質を設計したと発表した。その応用研究が医薬品やワクチン開発に貢献している。
4 ノーベル文学賞
10日にノーベル文学賞が韓国の女性作家、ハン・ガンさん(53)に授与すると発表された。アジア人女性としては初となる文学賞の受賞である。
私はこの若い韓国の作家を全く知らないが、アジア人初の女性作家という記事を読んで、つい日本の「石牟礼道子」や「よしもとばなな」が受賞していたらよかったのにという思いにかられてしまった。それにしてもノーベル賞の発表というと、オリンピックの時と同じように日本人意識が動き出してしまうのはどうしたものだろうか。女性初といった表現も早く必要のない時代にならないものだろうか。
5 ノーベル平和賞
そして11日のノーベル平和賞の発表では、日本全国の被爆者らでつくられている日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に授与するという発表がなされた。私はこの発表を日本人として素直に喜ばしいことだし、誇らしいことだと受けとめた。同時にあらためて、難しい問題があるとしても、日本政治の核をめぐる動向を思い浮かべて深い失望を感じざるを得なかった。
6 ノーベル経済学賞
14日に、今年のノーベル経済学賞は、「社会制度の違いが国家の繁栄を左右することを解明する研究」によって、次の三人の学者に授与すると発表がなされた。アメリカのマサチューセッツ工科大学(MIT)、ダロン・アセモグル教授(57)と同じくサイモン・ジョンソン教授(63)そしてシカゴ大学のジェームズ・ロビンソン教授(66)の三人である。
三人は植民地時代に導入された社会制度の違いを調査して、それが現代の経済格差に決定的な影響を与えていることを示した。法の支配が乏しく、人々を搾取する収奪的制度を持つ権威主義的な国では、民主主義的な包括的制度を持つ国と比較すると経済成長や技術革新が阻害されるという理論を確立した。
アセモグラ教授とロビンソン教授は「国家はなぜ衰退するのか 権力・繁栄・貧困の起源」(早川書房、2023)という著書を出している。
彼らは現在のアメリカを含めた先進国で民主主義の支持がかってないほどに低下していることに警鐘を投げかけている。
読書ノート
1.「初めて語られた 科学と生命と言語の秘密」 (5)
松岡正剛X津田一郎 文芸新書、2023
第9章 意識は数式で書けるのか
前回とりあげた第8章『「逸れていくもの」への関心』の終わりのところで、「ディープラーニングは膨大な量のデータでやるんだから、もっとうまく使えばいいのにね。ビックデータ分析って、まだまだかったるい」という松岡の発言に対して津田は「使い方次第です。AIはそれ自体が知能を持っているわけではないので」と述べている。私は、津田の意見に賛成だが、AIの知能に関しては異論が出るかもしれない。
今回取り上げる第9章は、上記の発言を受けるかたちで、「これからいちばん課題になるのは、ビックデータがないときにどうするかです。ディープラーニングの効果が出るにはビックデータがないとだめで、……問題はデータが少数のときどうするか。たまにしか起きないまれな現象をわれわれは予測できるかというと、まだできない」「私は、そこに意識の問題に関係するものがあると睨んでいるのです」という津田の発言から始まる。AIが人間のような意識や知能に近ずくためには、少数のデータ、逸れていくもの、希少なもの、ちょっと先っぽのことをどう処理できるかにかかると言ってよいのかもしれない。しかしAIの成り立ちから見てそれは極めて難しいことではないかと私は思う。もちろん文字通り日進月歩のAIなので、研究者が今後どのような試みをするのか私には予想がつかない。楽しみであると同時に人間がAIの速度に追いついていけないのではないかという懸念がますます深まる。
今年のノーベル物理学賞と化学賞がAIに関連した業績の受賞であったことは、先にふれたが、私はAIに関した記事を次回に書くことができたらと思っている。
津田は意識のまれな現象を予測できる性質を数学的に定式化する試み(シュミレーション)をしてみているという。その概略は次のようなものである。
初期値を入れると軌道ができる状態空間をパソコン上に作成して、その空間のどこかに不安定領域があり、その近くを通るとすごいイベントが生じると設計する。通常は不安定領域の軌道を通る初期値集合はきわめて少ないので、イベントはまれな現象である。しかし、その現象が、小さくない有限のサイズの初期値で生じるとすると、イベントはまれでなくなる。その際の初期値集合を削っていって(マイナスしていって)メジャー・ゼロ(測度ゼロ)にしていくとする。そのプロセスが通常の意識活動を無意識のレベルに落とし込むプロセスである。残ったスカスカの状態が「意識のあらわれ」になる。
本当は削ったところ、つまり「A-B」(AマイナスB)の「ーB」こそが「意識」であるが、削った先に残った「A-B」も、ある種の意識と言える。すると最後に残ったぎりぎりの意識のところで感知できるのがまれな現象となる。
津田はこの「A-B」の式を人間の実際のニューロンの回路にあてはめて脳の活動を理解しようと試みている。津田と松岡二人によるこの章での対話はこの式をめぐって意識をどう考えるかというということ、さらに意識と関連させて神秘体験や宗教を科学的にどうとらえるかということへと展開されていく。
津田は、この「A-B」という数式を「心はすべて数学である」(文藝春秋、2015)という著書の中ですでに取りあげている。ここではそれを先に見ておきたい。
津田は「心はすべて数学である」のなかで、もともと意識とは外から、他者からきているのだとするとそれは閉じた形では書けないだろうと思うといい。意識を式で「書けた!」というのは、私はインチキだと思うとまでいいきる。そして例えばジュリオ・トノーニという実験神経学者が提示している式があるけれども。それによって本当に意識の働きが描かれているかというと、極めて疑問です。その内実はただの記号の羅列にも等しく、ほとんど「寿限無寿限無」といっているのと変わらない印象ですと述べている。そういいながら、津田は矛盾をものともせずに、自分も「意識の式」を論文に書いたことがあると、この「A-B」という式を提示している。
津田が厳しい批判を示したけれども私はトノーニの式に関心がある。また津田は触れていないが、フリストンの「脳機能は自由エネルギーを最小化するように設計されている」という自由エネルギー原理にもとずく、意識を含めた脳の数理的・情報科学的モデルにも関心がある。私の数学的理解を超えているのだが、自由エネルギ―原理は、津田が強く関心を示していた解析学の一分野である変分原理を使用しているものでもある。
さて津田はこの、「A-B」というシンプルな式の、Aという記号を、脳の中での心的表現を実現する興奮性細胞の活動状態にあてはめ、それを抑制する細胞の活動をBとみなす。興奮性細胞で多様な心的状態が作られるが、そこには余分なものがたくさん含まれているので、それを抑制性細胞で取り除く過程、「AーB」が存在する。津田はこの「ーB」で意識の問題を表現しようと考えている。この引き算によって脳の機能を表現できたとき、引かれた「B」こそが「意識」だといえる。「A-B」の結果は意識ではなく「意識の結果実現された脳の機能」だという。だから、「これが意識の方程式」だというものができるとすると、それはせいぜい「マイナスB」という表現でしか示せないと津田は述べている。
「心はすべて数学である」ではAを興奮性細胞の活動状態と記載していたが、本書での津田と松岡の対話に戻ると、Aは外から入ってきたある種の複雑な情報体で、自分に対する「他者」がAという感じですと津田はいう。やや混乱してしまいそうになるが、私は脳の興奮性細胞の活動以前に受容した活動のもとになる情報をAと捉えておくことにしたいと思う。津田は広い意味での自己意識に対する本来の他者性をAとしている。そこでの自己意識には他者とのコミュニケーションがあったうえで生じた自己意識も含められている。
ここでの「A」は自分以外のところから入ってきたという意味で、もっとナマの情報なので、それを送り返すために「A」を整えて情報にする必要がある。それが「ーB」つまり意識です。「B」自体は消えてしまうので、表にあらわれてこない。では、そこで何を引いたことになるのか。という津田の発言に、松岡は「でも、そこでカオス的遍歴が起こったということは、カオスのもとがきっかけになっているわけよね」と応じる。しかし、津田は次のように続ける。「そうですね、ただ、「A」だけだとカオスにならない。差っ引くことでカオスになるので、じゃあ何が引かれたのかというと、それは「非カオス」です」という。
津田はさらに数理モデルによって、興奮性細胞で記憶状態を作ってみたうえで、興奮性細胞同士のシナプス結合に抑制性細胞を入れて弱めると、記憶は壊れます。いわば忘れることができる。でも抑制性細胞の引き算に関するテクニックによっては、そうならないで連想の連鎖が表現されます。興奮性細胞の現在の状態をつねに抑制性細胞で差っ引くようにすると、連想がダイナミックになるのです。このことが実は、アトラクター間をカオスが遷移していくカオス的遍歴の現象を見つけるきっかけになったのです。と重要なことを述べている。
しかし私には「AーB」で引かれるものが「非カオス」であるということや、抑制性細胞の引き算の仕方の違いによって、記憶を壊す働きと連想をダイナミックにさせる働きという違いが生ずるという津田の説明を正確に理解できたとは言えないのが残念なところである。
ところで、「ーB」であらわした意識の「B」自体が消えてしまうと津田は述べているが、それが何らかの形で残らないと意識の働きを考えると困るのではないかという疑問が生じる。そこで松岡は情報はただのプログラムではなく、自分(自己意識)が次に行くための予見を内包しているということが必要になる。だから「マイナスB」ぶんが消えてしまうのではなく、意識としてちょっと機能できる形で外在化しているのではないかと言う。その可能性としてアントニオ・ダマシオがいう「ソマティック・マーカー」(外部からある情報を得ることで呼び起こされる身体的感情)として、脳と連動しながら(「B」が)残っているかもしれないという可能性に触れる。これは自己意識が脳の中で身体的なマーキングを伴っていて、脳の情報は身体の各所にマーキングされているのだという見方ですねという。以上のような松岡の意見に津田もその可能性はありますねと応じている。
対話のなかで松岡は、「B」という引かれる存在がなければ、決して脳の機能は表現されない、そういう類のものが「意識」だろうと津田が考えるようになったのはどうしてですかと尋ねている。
津田は、ノーベル物理学賞受賞者のブライアン・ジョセフソンの短い論文を読んだことがきっかけだという。二つの超伝導体をつなぐと起る超伝導現象であるジョセフソン効果でノーベル賞をもらったブライアン・ジョセフソンは受賞後に物理学から人工知能のほうに宗旨替えした。彼は瞑想のときに脳の構造がどうなっていて、それが自分の意識をどう変えていく行くかということを考察した短い論文を書いてその中で、「意識とは差っ引くものだ」と書かれていた。それを読んだ津田はその通りだと思ったというのがきっかけだという。
意識というものが引き算で取り出せるものだというこの認識はフランスの哲学者ベルクソンも述べていたことを最近になって私は知った。その点に少し触れておきたい。平井靖史が「世界は時間でできている ベルクソン時間哲学入門」(青土社、2022)という著書の中で意識の減算テーゼとしてふれている。なお思弁的唯物論を展開した、カンタン・メイヤスーもその点を指摘している。
平井によると、ベルクソンの減算テーゼとは、「意識というものは、物質について何か上乗せで追加されたものではなく、むしろそこから引き算で取り出せる種類のものである」ということである。このテーゼは時間の遅延テーゼと一体となって理解すべきものだと平井は述べている。遅延テーゼとは、たとえば人間の視覚にとっては20ミリ秒が下限の瞬間であるけれども、光の速さで相互作用していると言ってもよい物質にとっては人間の瞬間は永遠といいたくなるような長さになる。人間は時間を遅延させて物質にとってはとっくに過去になっているものを搔き集めて意識を作る素材としているのである。
ベルクソンは「引き算」の例として、無色の太陽光から青色を描き出すには、何かを付け加えるのではなく、他の波長域を引く(カットする)だけでいい。音波に関して同様のことがいえるという。
ところで、さきにふれたジョセフソンは東洋の神秘主義にもけっこう関心を持っていたという。松岡は意識や無意識のことを考えるならば、信仰という意識も無視できないし、オカルトやグノーシスとか密教とか神秘や神智学と呼ばれるものを意識の動向という面から脳科学や認知科学がそろそろ議論にのせるべきだろうと提案する。そしてその話題がこの章での二人の対話のたいせつな部分を占めている。
松岡は科学や数学のルーツは神秘主義のルーツと重なっているとピタゴラスの例を持ち出すなど、博識をフルに展開させて議論を誘導する。松岡の話は面白いし、いろいろと考えを刺激してくれる。しかし、ここでは字数の関係もあるので、松岡がまとめた意識をめぐる八つのアプローチを聞いて述べた津田の言葉を引用しておくにとどめておくことにする。
私は以前に神秘主義やオカルトに関する私の関心事をこのnoteに「精神科医は神秘体験者の夢を見るか」と題して書かせてもらったことがある。二人の刺激的な対話を受けとめながら、私は神秘体験に関してはもう少し見識を深めてから再度考えたことを書いてみたいものだという思いを深めている。
また意識をどう理解するかにかかわるアプローチに関してはまったく不十分な形でしかふれることができなかったが、私はこれまで、精神医学的な視点から意識の問題をずっと考え続けてきた。私は、せん妄やてんかん発作や酩酊や変性意識や解離や幻覚妄想状態や、睡眠障害等々で意識が障害(あるいは変容)された時のさまざまな様相を随分たくさん観察させていただいた。その経験をもとに意識に関して私なりに考えたことを書くことができたらと思っている。
津田はオカルトを自分は否定しないという。科学者たちは自然現象を知りたいと考えるている。だから今の理論に合わないと言ってわからないことを切り捨てていたら発展はない。科学者たるもの、オカルトにも興味を持つべきなのですという。わからないことへの果敢な挑戦をするのが科学者であることを意識している津田の言葉に私は感動を覚える。
わからないことに関連して、津田は数学が健全なのは不完全性定理があるからだという。それに対して松岡は、ヴィトゲンシュタインが「論理は私の近くでぼけている」と言ってくれたから、言語は面白くなった。「言語がすべてを表現している」なんて言ったら、そんなものはアテにならない、……言葉は曖昧な領域もっているからいいんです。と人間の認識における、わからないことや伏せられていることの重要さを指摘する。
そして松岡は「編集とは不足を強調することである」「編集とは引き算から始まる」という。
そのうえで、松岡は日本文化では西洋文化と異なって引き算が重視されるとして、藤原定家の「見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」という和歌を象徴的なものとして取り上げて解説している。
さらに松岡は、いまのネット社会は全部あけていて、伏せられたものがなさすぎる。もっと自分の思索のなかで「ないもの」をつくらないとダメでしょう。伏せられたり、マスキングされたり、×××になっているところを作らないと、本当の創発的な発想はできないと述べていて考えさせられる。
つづく
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