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散歩と雑学と読書ノート


千歳川


散歩の途上で出会う植物や昆虫などの小さな生き物たちは私の大切な友だちである


コスモスと蜂


ほうずき


読書ノート

1 光る君へ

私はこの数年、NHKの大河ドラマや、朝ドラのけっこう熱心な視聴者である。現在の大河ドラマ「光る君へ」や朝ドラの「虎に翼」の放送時間を私は楽しみにしている。「光る君へ」は紫式部と藤原道長を主人公にしたドラマであり、「虎に翼」は日本で初めて女性として法曹界に飛び込み、家庭裁判所設立や原爆裁判などに関与した三淵嘉子をモデルにしたドラマである。

普段はテレビを見て本を読んで散歩するくらいしかしていない自分に「喝」を入れてやりたい気がしているが、こうしてnoteに記事を書いているときは幾分かは自分をほめてやってもいいかなと思える時間帯である。

今回の「読書ノート」ではまず、平安時代に思いをはせながら、紫式部や源氏物語のことをすこし書かせてもらおうと考えている。

私は「源氏物語」を原文で読んでみたいと思って何度か試みたが長続きできず断念したままであった。しかし大河ドラマ「光る君へ」に刺激を与えてもらったのをきっかけに再度チャレンジしたいと思っている。原文にチャレンジする前に、私は紫式部や源氏物語をめぐる当時の状況をあまりよくは知らないので、準備を兼ねてもう少し知識を豊かにしておいた方がよさそうだと考えて、何冊かの本を手元に集めてみた。次のようなものである。

「新版 紫式部日記」、宮崎荘平著、講談社学術文庫、2023
「源氏物語入門」、高木和子著、岩波ジュニア新書,2023
「紫式部と藤原道長」、倉本一宏、講談社現代新書、2023
「源氏物語の時代を生きた女性たち」、服藤早苗、NHK出版新書、2023
「紫式部 女房たちの宮廷生活」、福家俊幸、平凡社新書、2023
「源氏と漱石」、松岡正剛、角川ソフィア文庫、2023
「100分de名著 ウェイリー版・源氏物語」、安田登、NHK出版、2024
「源氏物語」上下、瀬戸内寂聴、講談社(少年少女古典文学館)、1992

すべてをきちんと読んだわけではないが、以上の書物を参考に、ここでは、「紫式部と清少納言」の関係について、「源氏物語」の構成に関して、少し書かせていただこうと思う。

(1)紫式部と清少納言

紫式部と清少納言は大河ドラマが描いたようには直接の接触はなかっただろうと見られている。後ほど触れるが、紫式部は日記の中で清少納言にかんして極めて辛辣な評価を下している。ここでは、二人のことを中心に当時の状況に関して述べておきたい。

紫式部には「源氏物語」以外に「紫式部日記」「紫式部集」という和歌集がある。

「紫式部集」の初めに収録されている友人との別れを歌った和歌は「百人一首」にも収録されている。

 めぐり逢い 見しやそれとも わかぬ間に
  雲がくれにし 夜半(よは)の月かな

ちなみに清少納言の「百人一首」収録の和歌は次のものである。

 夜をこめて 鳥の空音(そらね)は はかるとも
  よに逢坂の 関(せき)はゆるさじ

紫式部と清少納言は平安時代(794~1192)中期の国風文化を代表する、女性貴族文学の書き手である。当時はすでに平仮名が定着していたが、彼らは漢文や漢文学にも精通していた。二人の名前はいわゆるあだ名であって本名はわかっていない。また生年月日も亡くなった年月日も不確かである。

清少納言は紫式部より少し年上(10歳近く年上という推定もある)である。966年ころに歌人である清原元輔を父として出生。993年ころ一条天皇の后である、中宮定子のもとに女房として出仕する。女房とは当時、宮中や貴族の家に仕えた女性のことを言う。「房」とは与えられた部屋のことである。

清少納言の「枕草子」は定子のサロンでの明るく楽しいかかわりを書きつずった機知にあふれるエッセイ集である。1000年に定子が第二皇女の出産時に急死、清少納言は失意のうちに宮廷を去る。その後の清少納言の消息に関してはほとんど分かっていない。

中宮定子の父は藤原道長の兄にあたる藤原道隆である。定子の同胞に、兄の伊周(これちか)と弟の隆家(たかいえ)がいる。道長は自分の兄たち(道隆、道兼)や、道隆の息子たちと当時の摂関政治をめぐって政敵の関係にあって反目しあっていた。しかし道長の兄たちは995年に蔓延した疫病で相次いで死去。定子の兄弟は996年の花山法王との間で起こした長徳の変で左遷され、定子は出家する。道長は左大臣となって政権の中枢を担うことになる。

紫式部は、970~978年ころに学者で歌人の藤原為時を父として出生した。幼いころから漢文をよむ才女だった。紫式部は26歳前後の998年ころ20歳以上も年上の藤原宣孝と結婚、一女(賢子)をもうける。1001年に宣孝が死去。その寂しさを紛らわすために「源氏物語」を書き始めたと見られている。この長編の物語は1013年ころに全巻が完成された。紫式部は1014年に死亡したという説があるが、1019年ころまで生存していたがその後は不明という説もある。

藤原道長は左大臣としての権力を安定させるために、999年に娘の彰子(しょうし)を一条天皇のもとに入内(じゅだい)させた。しかし、その同じ日の早朝に定子が第一皇子(敦康)を出産した。一条天皇の定子に対する寵愛は、彰子が中宮になり定子が皇后と称されるようになっても続いていた。定子は第三子を身ごもり出産後亡くなったことは先に述べたとおりである。

一条天皇が娘の彰子のもとにあまり訪れず子供を授からないことにやきもきしていた道長は、紫式部が「源氏物語」の初めの数巻でその文才が評判になっていることを聞き及んで、中宮彰子のもとに出仕させて物語の続きを書かせることで一条天皇の気をひこうと考えた。つまり道長は、物語好きな一条天皇が「源氏物語」のつづきを読むために彰子の御在所を頻繁に訪れ、その結果として皇子懐妊の日が近づくことを考えて紫式部に彰子のもとに出仕するように要請したものと見られている。道長は「源氏物語」を書き進めるために必要な紙を紫式部に与えたと言われている。当時紙はなかなか高価なものであった。大河ドラマでは道長と紫式部が男女の仲であったと描かれているが実際は不確かである。この週刊誌的な話題はなかなか興味深いエピソードだが、ここでは深入りはしないでおきたい。結局はやぶのなかなので。

紫式部がどの年に中宮彰子の後宮に出仕したのかも明らかではないが、1006年ころと言われている。彰子が敦成(あつひら)親王を出産したのは1008年である。

「紫式部日記」は1008年ごろから書き始められ、2010年1月の記事で終わっている。一条天皇の第二皇子であり、道長の初の外孫である、敦成(あつひら)親王の誕生と、その祝儀の模様を中心に描きだしている。これは女房の身分のものが主家(道長家、御堂関白家)の繁栄を賛美しことほぐためにかかれた女房日記とみられる。しかし、同時に紫式部は宮仕え生活に馴染めない心の苦しさや憂愁の思いを吐露していて、女房日記を基層にしながらもそれを超える要素も備えている。

日記文学は紀貫之の「土佐日記」から始まり、紫式部と同時代のものとしては、紫式部の先輩にあたる、藤原道綱母による「蜻蛉日記」が有名である。また藤原実資(さねすけ)の日記「小右記」は漢字で書かれているが、藤原道長、頼通の全盛期の社会、政治、宮廷の儀式、故実などの優れた記録がなされていて当時の様子を知る資料としても貴重なものである。またその日記には、道長に対する痛烈な批判も書かれている。その道長の日記に「御堂関白記」がある。そこにはでてこないが「小右記」に記載されて世に知られるようになった道長の和歌がある。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」である。この歌で読まれた道長の全盛期は、おそらく1016年に孫の敦成親王が後一条天皇として即位し、摂政に拝されて政治の全権を任された時からであると言ってよいだろう。

なお紫式部はこの「小右記」の作者で当時のすぐれた知識人である藤原実資と中宮彰子との間の取り次ぎ役を道長から命令されて長年その役を果たしている。

先にふれたように「紫式部日記」には清少納言に対する辛辣な批評が書かれている。そこでは、はじめに彰子サロンの同僚でもあった、優れた歌人の和泉式部と「栄花物語」(道長の時代を描いた歴史物語)で知られる赤染衛門の批評が書かれていてそのあとに清少納言評が続いている。

清少納言評について、宮崎荘平による現代語訳を引用しておくことにする。

清少納言は、まことに得意顔もはなはだしい人です。あれほど賢(かしこ)ぶって、漢字を書き散らしていますが、その程度もよく見ると、まだまだ不足な点がたくさんあります。このように、人に特別すぐれようとばかり思っている人は、やがてきっと見劣りがし、将来悪くなってばかりいくものですから、いつも思わせぶりに風流ぶっている人は、ひどく不風流でつまらない時でも、しみじみと感動しているように振舞い、ちょっとした情趣も見逃すまいととしているうちに、自然と、関心しない軽薄な態度のにもなるにちがいありません。そのように実意のない態度が身についてしまった人の行く末が、どうしてよいはずがありましょう。


「新版 紫式部日記」、宮崎荘平著、講談社学術文庫、2023

紫式部がなぜこれほど激しい清少納言批評をおこなったのか、いろいろ議論もなされているようだが、宮崎は次のように指摘している。

私的な遺恨などから発せられたものではなく、紫式部の人間理解・人生観に根差す次元のものとみられる。おそらく紫式部は「枕草子」を通じたり、清少納言と面識のあった他の女房たちから伝聞するなどして、彼女の人となりを把握していたのであろう。……おなじ宮仕え女性でありながら、清少納言は天性の女房のごとく振舞い、その生活に無上の喜びを覚えていたのに対して、紫式部は、この「日記」に吐露しているように,宮仕えを憂(う)きものと感じ、心なごまぬ日々を送っているのであるから、相容れないのは当然と言ってよい。……すでに当面の対抗相手ではなくても、どうしても痛撃を加えておかずにいられぬ代物であった。

宮崎が指摘する最後の点は、清少納言がすでに幕を下ろしていたとはいえ、中宮定子サロンを代表する文才豊かな女房であり、そのライバルとしての中宮彰子サロンの代表的女房である紫式部が女房日記の作者の役割として痛撃を加えたという解釈があることを念頭に置くとわかりやすいだろう。

確かに、二人の性格の違いには大きいものがあったのだろう。それにしても紫式部の批評は激しすぎる気がする。天才のもつ激情のせいだろうか、清少納言の紫式部評を読めないのが残念である。

(2)「源氏物語」の構成

ここでは、「源氏物語」の構成や構想を中心に見ておきたいと思う。

「源氏物語」は「伊勢物語」と同様に歌物語である。歌(和歌)は万葉の時代から人々が心を伝える重要なコミニケションのツールであった。豊かな情感が主に風景描写のなかに込められて伝えられていた。

また「源氏物語」は五十四帖(じょう)でできている長編物語で、そのなかにたくさんのエピソードやプロットが盛り込まれている。その全体は「生と死と再生の物語」として読めるようになっているとして、松岡正剛はそのことを次のように述べている。

「それらすべては時の流れに従って話が進行するようになっています。光源氏をはじめとする主人公たちの成長、登場人物の生老病死、季節の変化、節会と行事のめぐり移り、調度の出入りや装束のメッセージ、神仏仏閣への参詣、さらには「もののけ」の出没などが盛り込まれ、それが五十四帖にわたって連続的に及びます」(「源氏と漱石」より)

一般的に「源氏物語」五十四帖にわたる物語の構造は三部構成として理解されている。

倉本一宏は「紫式部と藤原道長」のなかでその構成をきわめて簡潔に次のように述べている

第一部・父桐壺帝の后(藤壺)と密通し、産ませた子が即位する(冷泉帝) という「罪」
第二部・妻(女三の宮)が密通を犯し、生まれた子(薫)を光源氏が育てるという「罰」
第三部・光源氏の死後、宇治の姫君(大君・浮舟)がそれらを償うという「贖(あがない)」

もう少し詳しい内容は後でふれたいと思う。そのまえに紫式部がこの物語で何を語ろうとしたのかをめぐってさまざまに解釈されているが、有名な本居宣長の「もののあわれ」論などにふれてのべられている松岡の説をここでは見ておきたいと思う。

松岡は折口信夫や本居宣長が源氏の根本に「いろごのみ」や「もののあわれ」があると主張したとして、その解説を試みる。

まず折口のいう「いろごのみ」ということについて。

「源氏物語」には全編に男女の恋愛をめぐる交流と出来事がずうっと出入りしている、だからといって「源氏」を好色文学と片付けることはできない、折口はそれを「いろごのみ」と言った。

「いろごのみ」の本来の意味は、古代の神々の世界において、国々の神に奉る巫女(みこ)たちを英雄たる神々が「わがもの」とすることによって、武力に代わる、ないしは武力に勝る支配力を発揮するという、そのソフトな動向のこと、ソフトパワーのようなもの、それが「いろごのみ」です。と松岡は述べる。さらに、それがしだいに平安の宮廷社会では神々ではなく官人たちの個人意識に結び付いていった。それを紫式部は見抜いて「源氏」の物語を書いていったのであるという。

一方の「もののあわれ」とは、日本人の古来のメタコミュニケーションにかかわる揺れ動く情感のようなものです。しかもそれは意外にも個人意識に発する感情です。この感覚は「あるや、なきや」の「揺れ動くのにしみじみしてしまう感じ」というニュアンスのもので、「源氏」以前にも見られた日本的情緒で、はっきりいうと、歌によってしかあらわせないものでした。と松岡は言う。

「もののあわれ」に関しては、「もの」や「あわれ」の意味をどうとらえるかという問題を含めて、私自身もうすこしゆっくり考えてみる課題としておきたいと思っている。ところで、「もの」といえば「源氏物語」で何度も出没する「もののけ」(六条御息所の生霊が有名)に私は強い関心がある。以前このnoteの記事で「メディアの歴史と精神の病」について書かせてもらったときにも少しだけ「もののけ」について触れたことがある。私は今後できたら「憑依」に関して書いておきたいと考えているのでその機会に「もののけ」に関しても考えをまとめることができたらと思っている。

ここで少し脱線することを許していただき、「源氏物語」から離れて、「紫式部日記」に書かれている「もののけ」について触れておきたいと思う。

日記は1008年の9月10日と11日のもので、出産を控えた中宮様は一日中不安なご様子で起きたり臥せったりして過ごされていた。その間、中宮様にとりついている「もののけ」を追い出し霊坐(よりまし)に駆(か)り移したりしている様子が書かれている。安産祈願のために大勢の修験僧やさらには陰陽師がことごとく集められて、かれらの祈禱をする声が響きわたっていることを頼もしく感じられたと記している。翌日の正午ごろ中宮様は「もののけ」に取りつかれて難産であったが無事出産された。日記には、いよいよご出産なさろうとする時には、御「もののけ」がくやしがってわめき立てる声などの気持ち悪さといったらなかった。と記されている。

このときに中宮彰子に憑いた「もののけ」は道長の兄の藤原道隆の霊ではないかという説や、彰子の前の中宮であった定子ではないかといった説がある。
ところで、陰陽師でこの当時最も有名な人物は大河ドラマでも取り上げられていた安倍晴明である。彼は実際に道長の要請で雨ごいを行い成功している。ただし彼は1005年に85歳で亡くなっているので、この彰子の出産時の祈禱にはあたっていない。

昨日(9月22日)の大河ドラマ「光る君へ」では、清少納言が弔問に訪れるシーンが描かれていた。また紫式部は道長の要請で日記を書いたというふうに描かれていた。さらに中宮彰子が日記に書かれたようにもののけに侵されながら出産した様子が再現されていた。もののけを移された霊坐(よりまし)の女性たちがわめきたてる様子も興味深かった。

話題を前に戻して、「源氏物語」のあらすじをもう少し書き留めておきたいと思う。

第一部は巻一「桐壷」から巻三三「藤裏葉」までの長丁場である。
(100分de名著の「ウェイリー版・源氏物語」では能楽師の著者、安田登は能の「序破急」になぞらえて、この第一部を序、破の序、破の破の三部に分けて述べている。第二部は破の急、第三部は急である)

「源氏物語」の冒頭の「いずれの御時(おんとき)にか、……」で始まる文章は有名である。この御時は紫式部の曽祖父である藤原兼輔の時代で、醍醐天皇のころと言われている。醍醐天皇の第十皇子が、わずか七歳で源氏名となった源氏のプリンス源高明で、朝廷のナンバー2としての名声を得ていた。その高明が安和の変で藤原兼家らによって謀反の罪をきせられて,失脚した。これによって藤原摂関時代が確固たるものになった。その藤原兼家の五男が道長である。松岡正剛は源高明が「光るの君」のモデルと考えられる、そこに紫式部が「源氏物語」というタイトルにした意味も立ちのぼってくるとのべている。

いきなり脱線してしまったが、第一部の内容に戻ると、桐壷帝の第二皇子として生まれた「光源氏」は美しく才能豊かな皇子であった。光源氏が三歳の時に母の桐壺更衣が死亡する。成長して実母によく似ていて父の帝が寵愛する「藤壺」にあこがれ、密通して不義の子が生まれる。その子は桐壷帝の子として育てられ、後に冷泉天皇となる。

母の面影を求めて「藤壺」に近づいた光源氏であるが、その後は拒絶された。光源氏は「藤壺」の姪の紫の上を引き取り育てるが、その紫の上に母(そして藤壺)の面影を投影する。

物語は光源氏と空蝉、夕顔、末摘花、花散里、玉蔓(たまかずら)六条御息所などとの関りを描がいていく。玉鬘は頭の中将と夕顔の娘で光源氏は養女にしている。頭の中将と光源氏は始め親友同士であった。二人を含めた男性たちで女性たちの品定めをした「雨夜の品定め」の話は有名である。しかし後に二人は政敵同志となる。

光源氏の正妻は葵の上であるが、夕霧を難産した後に、六条御息所の生霊に取りつかれて亡くなる。生霊はすでに夕顔にも取りついている。さらに死んだ後も、女三の宮紫の上にも取り憑くのである。葵の上が亡くなった後に、光源氏は紫の上を妻とする。

光源氏が住まいと定めた六条院は広大な寝殿造の邸宅となり、かかわりのあった女君たちも住まわせていた。そこは六条御息所の邸宅跡も含まれていて、彼女の娘を男女の関係を持たないという約束の上で引き取って住まわせている。いささかおどろおどろしい雰囲気も感じられる場所である。

光源氏の華やかな女性遍歴が災いとなる事件が起こる。父桐壷の帝の没後、天皇「朱雀帝」となっていた兄が寵愛する朧月夜と密会を重ねていたことが発覚して都に居れなくなったのである。光源氏は遠く須磨に下ることになる。激しい嵐の中、須磨からさらに明石に下った光源氏は、明石の君と出会い、一子(娘)をもうける。この須磨・明石のくだりは神話の物語類型から言うと、貴種流離譚に当たると見られている。

やがて父の夢や天皇の命に後押しされて、都に復帰した光源氏は兄の朱雀帝が退位した後に天皇となった息子の冷泉天皇の配慮で政治的にもそれまでの太政大臣からさらに準太政天皇の地位を授かり、この世の栄華をほしいままとする。しかし物語のなかの男の主役は、光源氏から息子(葵の上との間の子)の夕霧へとバトンタッチしていく。

物語の第二部は、巻三四「若菜上」から巻四一「幻」まで。

光源氏はすでに40歳になっている。光源氏は出家する朱雀院に請われて、その娘である女三の宮を妻に迎える。太政大臣(元の頭中将)の息子である柏木がその女三の宮にあこがれて不義の子を出産する。である。光源氏は薫を我が子として育てるという、自分の若き日の罪の報いを受けることとなる。さらに最愛の紫の上にも死なれてしまう。光源氏の最後の詳細は書かれていないが物語から退場する。

第三部は巻四二「匂宮(におうのみや)」から五四「夢の浮橋」までである。

光源氏が亡くなって八年を過ぎている。
物語は薫(光源氏が育てた不義の子)と匂宮(光源氏と明石の君の孫)の物語となっていく。もう一人強烈な印象を与える女主人公が浮舟である。「橋姫」から「夢の浮橋」までの宇治十帖はこの浮舟の物語となっていく。

浮舟は、若いころ政争でやぶれ宇治で仏道に励む八宮の娘である、彼女の姉たちの大君、中の君も薫や匂君とかかわりを持つ。浮舟は宇治の地で、薫と匂君との間の板挟みとなり、宇治川に入水する、しかし比叡山の横川の僧である、僧都(そうず)に助けられ、やがて出家することで物語は終わりを迎える。

駆け足で物語のあらすじを追ってみた。私は登場人物の中では、六条御息所と浮舟に興味を惹かれる。きちんと読んだ後でまた考えてみたい。今のところの私の勝手な感想だが、紫式部は最後の登場人物である浮舟に自分の思いを重ねて表現したのではないかという気がする。


2 「初めて語られた 科学と生命と言語の秘密」 (4)

       松岡正剛X津田一郎 文芸新書、2023

前回の記事でふれたが、松岡正剛氏が逝去されたという報道に接したショックがまだ続いている、

前々回まで、「初めて語られた 科学と生命と言語の秘密」の読書ノートを書いてきたが、今回は4回目にあたる。今回を含めてあと3回を予定している。今回は、第7章『「みえないもの」の数学』第8章『「逸れていくもの」への関心』にふれておこうと思う。

この二章でも重要なことが語られているのだが、私には充分理解できていないことも多いので、少し短めにまとめさせていただこうと思う。

第7章では、第6章の終わりに津田が「カオスがいかに美しい構造をもっているのか、なかなか伝わらない」と嘆いたことを受けて、カオスの美しさをめぐる話題から始まる。

津田はカオスの美しさということで、「数の配列の構造」をあげる。たとえばカオス力学系の「状態空間(相空間)」の右半分を注目して、カオス軌道が全体の中で何回平均的に右半分にいるかを分数であらわします。それが非常にきれいな構造をもっているのです。……その数の構造が美しいんですね。というのが津田の説明だが私には残念ながらカオスの数学的表現が全く分かっていないので十分美しさを感じることができない。

ただし、カオスの発見者と言われる、エドワード・ローレンツが大気の運動を予測するための方程式(変数は大気の対流の速度に関する成分、温度に関係する成分、地表と上空の温度勾配に関する成分)を立てて、初期値を少し変えただけで軌道の集合が変わる現象をアトラクターの絵として描いた、その蝶々のようなカオスの絵(ローレンツ・アトラクター)は美しいと私は思う。

津田の説明を受けて、松岡は、世界の「あらわれ」には、根源的な非線形性と初期からのズレみたいなものがうずくまっているのだろうということです。と解説する。

次にローレンツの科学的センスと類似したセンスの持主として、デビッド・マーについて話題となる。

マーは脳が網膜の二次元の情報から奥行きのある三次元の像を再構築するさいに、右と左の視差にもとづいて奥行きを推論することをニューラルネットで試みたがうまくいかなかった。そこでマーは視覚のニューラルネットに「くりこみ群」が使えるはずだと見立てた。マーの論文には「相転移のくりこみ群理論」でノーベル賞を受賞したケネス・ウィルソンの論文が引用されています。視覚のしくみ一つとってみても、まったく大きさが異なる視覚像を写像して脳の中に作ったりするわけですから、それはある種の「くりこみ」がないとできないわけです。われわれはそもそも何かをくりこんで認知しているということになる。時間と空間の両方のスケールを変換して、不変なものをわれわれの認識装置として脳の中に定着させている。これが脳のニューラルネットがしていることだと津田は述べている。立体視がうまくいくためにマーはくりこみができるネットワーク構造に作り変えればよいと考えた。このように奥行き知覚の問題にくりこみ群理論が使えると考えるマーのセンスに津田は感心したというのである。

私はマーの考えに強く興味を惹かれるのだが。理解は十分できていない。脳の視覚情報の処理に関して、またくりこみ群理論に関してもう少し勉強してみないとマーや津田のいうことをより正確に理解できないと思わざるを得ない。
さらに私は以前から意識の変動を相転移として理解できないかと夢想している。意識から無意識へ、覚醒意識から睡眠や夢の意識へ、正常な意識から病的な意識へ、またその双方向への転換を相転移と考えてみたいと思っている。そのためには「相転移のくりこみ群理論」の勉強をしなければならないということだ。

津田は高次の次元までわかるには一年くらいじっくり勉強する時間が必要なのだという。(もっともな話だが、困ったものだ)。

二人の対話は、能の物語の仕組みが「くりこみ」や「カオス遍歴」に似ているということで意見が一致するのだが、詳しいことは省略させていただく。残念ながら能に関しても私の知識は極めて貧弱である。
松岡が述べていることを引用してこの章に関しては終わりにしたい。

「科学と能を同列には語れないけれど、とくに見えないもの、隠れたもの、ほしがっているものの動向をどう描くかが、科学においても哲学においても芸術においても決め手になるはずです。それらには共通するセンスがはたらいているのかもしれません」

第8章は、松岡がそろそろ大寄せですが、この対話をぼくがミスリードしたのではないかと懼(おそ)れるのですとして三つの懸念をあげている。

ここでは二つ目の懸念に関してのみ触れておきたい。

『ぼく(松岡)は津田さんの理論的な組み立ての独壇場をうまく引き出せてきただろうかということです。たとえば、この話はまだ出ていませんが、「カオスはカント―ル集合をもっている」と津田さんが言ったとします。そこにはカント―ル集合はどういうことか、カオス・アトラクターの性質、その性質には「モチーフの中にモチーフがある」というようなフラクタル構造が出ていること、カオスはドライブする方向に情報を吐き出す傾向をもっていること、それはわれわれの記憶と再生の仕組みに似ていること、そのことを脳で担当しているのは海馬であること……対話の途中にこのようなアイデアやフレーズが出てきたとき、ぼくはそこを補うつもりで話を進めただろうかという懸念があるんですね』

私もその点に少し不満を持っていたが、カオスの問題点をさすがに松岡はうまくまとめていると感心した。

津田は、そこは、松岡さんには特別に配慮をしてもらって話せていると思いますと述べている。

二人の対話は、それぞれ幼少期からの知的関心のあり方に及ぶ。津田は「嘘がない」というのは数学的な世界くらいでしょう、そうした誤りのない無謬性の中で落ち着けるのだという。松岡は自分の感動を説明できないことに焦りを感じていた。そんななかで、(知的な)先行世界に関心がおよび、たくさんの書物を読み、先行的な仕事をしている人に会いにもいった。とくに20世紀の科学こそ世界の解釈を大きく変えようとしている思い、そうした改変に手をつけるとどんな感動が起こるかを尋ねてみた。しかしあった科学者の10人のうち8人から答えは返ってこなかった。湯川秀樹さんからは返ってきた。答えが返ってきた科学者の内で最もすごいと感じたのは、クォークの南部洋一郎さんだという。津田がすごいと感じる科学者は朝永振一郎さんですねという。

松岡はさらに二人が共通して「逸れていくもの」に関心がある。これは何だろうね。すごく憧れて感動したものは、わずかな到達を感じさせたものばかり。これは根源的非線形性というものかしら。と津田に話を振る。

津田は感覚で言えば周辺視をどう捉えるかということですよねと応じる。われわれが一点を凝視しているときでも、実は「心のダイナミックス」はマイクロサッカードにあらわれているんです。周辺視からも情報は入っていて、興味のありそうなところを内的にサーチしている。……それが意識に上るとサッカード(急激な眼球運動)がおこり、視点が移る。……それは意識の動きとすごく関連がある。……周辺視で、次にどこにアテンションをかけるかが、どうやって決まるのかということですね。それは先行的に志向性とかなんらかの意図だとか、それらが契機となった意識でしょう。いま伺ってきた松岡さんの場合はそういう瞬間的なもの、遷移的なものに興味があるので、それが松岡さんの意識を形づくっている……意識のあらわれは、「サッカード」と「マイクロサッカード」の関係のように、何かを動かし、世界の中の何かが動くことで脳内に意味が発生するところから始まるし、そこには大脳辺縁系で生み出される志向性が先行している。

私はこの対話を読みながら、脳や意識の働きに関する自分の関心にゆさぶりをかけられる感覚を受けた。もう少ししっかり考えなければという思いを新たにしている。









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