「泣いたって仕方ない」を人に言わせるな
泣いたって、仕方ないよ。
どれだけたくさんのお母さんお父さんが、泣いているわが子に、そう言っただろうか。
ご多分に漏れず、僕もそうだ。でも僕はその言葉を、子供たちに対しては、一回しか使ったことがない。
◇ ◇ ◇
「泣いたって、仕方ない」、こう書いてみても、どうにも救いようのない言葉だなぁ、とつくづく思う。
泣いている側からすれば、そんなことはわかりきっていることだし、泣きたくて泣いているわけではない。泣いたから話がどうこうなる、というわけでもない。それは泣いている本人が、一番よくわかっている。
一年くらい前のことだ。息子が、大事にしていたキーホルダー(それは、日本に一時帰国をしたときに、息子が初めて自分のお年玉で買ったやつだ)を、失くしたことがあった。
幼稚園に行くとき、いつも自慢気に見せてきたキーホルダーだったけど、帰り道、どこかに落としてしまったらしい。
失くしたことに気づいた息子は、えらく悲しい顔をした後、うぇ~~ん、と泣き始めてしまった。
たかがキーホルダー、と大人は思ってしまうのだけど、それをどれだけ大切にしてたかを僕は知っていたし、その日の朝にも自慢されたばかりだったから、見ていて辛かった。でもこっちでは売っていないものだし、また買ってあげるよ、とも言えないものだから、なんだかこっちが悲しくなって、ちょっと泣きそうになって、それでも息子がえんえん泣き続けるものだから、つい、言ってしまった。
「泣いたって、仕方ないよ」
それを言ったとき、ハッと気がついた。
いま僕はこの言葉を、息子にではなく、自分にそう言ったんだ、と。
◇ ◇ ◇
あれは、僕が小学校5年生のときだった。ある時クラスのガキ大将みたいな男子に、「おまえ、女みたいな顔してるなぁ」と言われた。常に気の強い姉に育てられてきた僕は、ついつい「おまえは、おっさんみたいな顔してるよなぁ」と言い返した。
それまで平和な小学校生活だったはずなのに、その次の日には、また違うおっさんみたいな顔した男子がひとり増えて、二人で僕をからかうようになった。毎朝登校する度に、「女がきたぞ」と。
からかわれること自体は、平気だった。たぶん、それなりに言い返すこともしていたと思う。でもある日、あれはたぶん、市で行う学力テストの日か何かだった。その日はいつもの学校ではなくて、大きなホールだか施設に行って、テストを受けた。
慣れない部屋、机、大人たちに囲まれて、少し緊張していたと思う。一つ目の国語のテストが終わって、休憩を挟んだ後は、得意の算数だった。係の人が「始めてください」というと同時に、自分の筆箱がないことに気が付いた。おかしいな、さっきまであったのに。床にも落ちていないし、カバンの中にも見当たらない。
キョロキョロしている僕に、係の人が近づいてきて、どうしたのかと尋ねる。筆箱がないと言うと、いつからないのかと聞かれる。わからない。でもさっきまではあった。絶対にあった。そのやりとりを、おっさんみたいな顔をした男子たちが、チラチラ見ながらクククと笑っていることに、僕は気がついた。
結局、係の人からえんぴつと消しゴムを借りて、それで最後までテストを受けた。
僕の筆箱は、そのまま見つからなかった。姉が一週間前に、長崎の修学旅行のお土産として、僕にくれたものだった。
テストの結果がどうだったとか、その後におっさんみたいな男子とどうなったかとかは、正直まったく覚えていない。
ただ僕は、帰ったその日、こんなことがあった、と母親に伝えたときに、大泣きした。母親が何を言っても、僕はずっと泣き続けて、あまりに何を言っても泣き止まないもんだから、しまいには母親が泣きながら、
「泣いたって、仕方ないでしょ」
と言った。
僕は瞬間的に、「そうじゃない」と思った。僕が母親に言ってほしい言葉は、そうじゃない。そんなことは、わかっている、と。
テストがうまく受けられなかったこととか、筆箱がなくなったことを、泣いているのではない。
ただ、そんなことをする人間がいるということが、僕には上手に理解できなくて、泣いていた。なんで、そんなことする必要があるんだろう、と。
でも一方で、どんな言葉をかけてほしいのか、それもわからなかった。ただただ僕は泣いて、父親が帰ってくる時間になっても、ずっと泣いていた。
◇ ◇ ◇
僕が息子に、「泣いても仕方ないよ」と言ったときに気づいたことは、母親が言った「泣いたって、仕方ないでしょ」は、母親自身に向けられた言葉だったのかもしれない、ということだ。
母親は、息子がそんな風にからかわれていることを知って、悲しかったのかもしれない。もしくは、それに全く気付いていなかったことが、恥ずかしかったのかもしれない。いずれにしても、それを、「仕方がない」という言葉で、自分を納得させようとしたのではないか。
僕だってそうだ。泣き続ける息子に胸が痛んで言った「泣いても仕方がない」の一言は、無力な自分自身を、慰める言葉だった。
「泣いたって、仕方ない」
これは人に言うための言葉ではなく、自分のためだけに言う言葉だ。
小学校5年生だった僕が、「そうじゃない」と思った理由は、「仕方がないこと」を理解できなかったからだ。
どれだけ遠足を楽しみにしていても、雨が降る日だってある。
どれだけ自分が元気に明るく過ごしていても、いじわるな人は世の中に存在する。
いまの僕が、それらを「仕方がないこと」として理解できるのは、晴れの日とは違う、雨の日のよさを知っているからだし、いじわるな人なんかどうでもよくなるくらい、愛おしい人や、腹を抱えて笑いあえる、おかしな友人たちにたくさん出会ってきたからだ。
「仕方がないこと」は、世の中にたくさんある。
でも、人から仕方ないよね、と言われても意味がない。人から言われるそれは、自分に向けられた言葉ではない。大切なのは、「仕方がないこと」に自分で気がつき、認めることだ。
僕は35歳になったけど、小学校5年生のときの自分と、何も変わってやしない。心の中ではいつもビクビクしているくせに、見た目は淡々とした素振りを見せて、傷つくことから逃げている。それでもやっぱり傷ついたり、自分の無力さをビシバシ感じたり、自己嫌悪に陥ることがある。あるというか、毎日毎週、そんな感じだ。
でも思うのは、僕がどんな風に考えたって、仕方がないのだ。
考えたって仕方ないし、悩んでも仕方がない。
だってしばらくすれば、いまの悩みよりも、もっと素敵な人やコトに出会えることを、いまの僕は知っている。それが思うほど、長い先の話ではないことを、信じている。
すぐに来るであろう大切な瞬間に、僕自身が腐っていたら、それはそれは、もったいないことだ。
◇ ◇ ◇
今このnoteを読んでいて、悩んでいる人がいたら、というか悩まない人なんていないと思うけど、まぁ仕方ないか、ってまずは考えてみてはどうだろう。
本人の悩みからすれば、それどころじゃない、と怒られそうな気もするけど、他人に言われる「仕方ないよ」よりも、ずっと、「仕方ないな」って思えるようになるし、色んな悩みが、本当に仕方なく思えてくる。
あと、泣きたいときは、たくさん泣いたほうがいい。さんざん泣いて、もう泣いても涙も出てこない、ってなったら、「泣いたって、仕方ないな」と自分に言って、そこからスタートすればいい。
僕はたぶん、ずっとそうしてきたし、これからもそうする。だって本当に、考えただけで泣きたくなるくらい、仕方がないことって、世の中多いから。
でも、何かに愛おしくなることも、嬉しくなることも、それはそれで世の中にたくさんある。もうほんと、それはそれで、仕方がないくらい。
お蕎麦屋さん開きたい。