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本籍地

 大阪府東大阪市菱屋東(ひしえひがし)453。住所の表記の仕方が変わってしまい、今では無くなってしまった番地らしいが、ボクの生まれた場所である。
 長いこと本籍地だったのだが、家ではなく、病院の住所だ。
 家は近辺の人間なら、誰でも分かるような同和地域にあったので、子どもが生まれれば、住んでいる場所ではなく、出産した病院で本籍を取得するのが、その地域ではあたりまえなのだと聞いた。
 物心つく前に親の離婚で土地を離れたので、そこへ住んでいた当時の記憶はかなり少ない。――お泊まり保育で寝ていたときに、女の子に起こされて、まるで当然のことのように、「星を見にいくよ」と言われ、運動場に連れ出された。遊具に腰掛け、眠たさに耐えながら星を眺めた記憶がある。記憶が確かなら、ボクは連れ出される時に、自分の布団も一緒に持っていこうとして、かなり手こずったはずだ。
 その保育園の運動会で、“よーい、ドン”でみんなが走って行く中、ボクはスタートを切らずに、一生懸命走っていくみんなの背中を見ていた。先生が来て、ボクの手を引きゴールまで連れて行った。
 とにかく、おっとりした子だったのである。
 蚊取り線香の匂いがする中、父親がバットの素振りをしているのを眺めていた記憶もあるが、彼が野球をしていたと聞いたことはないので、これは実際にあったことか自信が無い。
 覚えている人生最初の記憶は、保育園の頃よりももっと古く、沢山のアコースティックギターが並んでいる部屋で、父と彼の友達がなにか会話をしていた。その脇で退屈したボクは、並んだギターの穴の中にピックをひとつずつ入れていくという作業を始めた。
 それに気づいた大人2人は慌てて、穴からピックを出そうとするが、手こずっていた。――ボクは怒られなかった。
 ひとつのギターに入れるピックの数はひとつ。シンプルなルールの単純作業と、大人が必死にピックを取り出そうとしている姿。そのどちらもが面白かった。
 一番最初の記憶が、楽しいことなのは幸せだと思う。
 あとは、真っ白で毛の長い、猫のトミーが居た。
 その後、父親方との交流が完全に途絶えた分けではなく、小学生の時と中学生の時に、数回程度、尋ねて行ったことがある。その時のことは別として、ボクがそこへ住んでいたといってよい頃の記憶は、上記したものが全てだ。――どれもおぼろげで、夢で見た光景のようだ。

 ボクと弟を連れて、家を出た母は、1ヶ所に落ち着く性質の人ではなかったので、長い間、いろんな場所を転々としたが、ホームグラウンドは大阪だった。
 東京、大阪、広島、大阪。というように違う土地へ行っては、1年も経たずに、大阪のどこかしらに戻ってくるのだ。
 早いときで2ヶ月。長くて1年半というスピードで引越しを繰り返す生活は、ボクが中学生になるまで続いた。
 もう20年近くも四国の地方都市に落ち着いているが、それはこの場所が気に入ってるからではなく、ここへ流れついた頃には、もう母には無頼の生活を続ける力も運も残っていなかった。
 土地とそこへ住む人たちの悪口を言いながら、若い頃のように、簡単に今の生活を捨て、希望に満ちた新天地に移ることの出来ない自分に歯がゆさを感じながら、日々老いていく。――母はそんな生活を、19年も続けている。
 子どもの頃のそうした生活の影響か、母の性格を受け継いでいるのか。ボクは時折、流転の生活に憧れる。――持ち物も友達も、全部そこへ置いていって、新たな場所で新たな生活を送る。
 出会いと別れが人より多い分、思いでだけがやたらとかさばって、他にはなにも残らない。なにも。
 多くの人が必死に守るものはなにも身につかず、得るものといえば、自分自身にしか分からない、目に見えず、言葉にも出来ぬものだけ。
 旅行なんかに行ったって見つかりっこない、人生の悲哀がそこにはあるように思える。
 
「大阪に出てくればいいのに」
 大人になってから、何度か大阪に行ったことがある。その時によって理由は様々だが、大阪に住む知人に会いに行った時に、そう言ってもらったことがある。
 その人は尊敬に値する人物で、街の規模や、そこへ住む人々のことを話しながら、田舎町でイモムシのような生活をしているボクに、本心か話しの流れか知らないが、言ってくれた。
 どちらにしても、そう言われたことは光栄なことだと思う。
 しかしボクは内心で、「どうせ出るなら大阪よりも東京の方がよい」と思っていた。
 その頃、1年の内に何度も、東京へ行く機会があった。2、3日。長くて1週間程度で四国へ帰ってくるのだが、いつも、この街にずっと居続けたらどうなるだろうな。と思った。
 東京に居る知人からも、同じように出てくるように誘われた。東京のことも、大阪のことも、深いことはなにも知らない田舎者だが、街の持つ力の違いは肌で感じていた。
 空が青かったことはなく、人と排気ガスと鉄屑の匂いで出来ている。いくらつっぱっても、巨大さと引力では東京には敵わない。それが、ボクの中での大阪だった。
 大阪に出てきたらいいというありがたい誘いに言葉を濁し、環境を変えることによって、生活に追われ、小説が書けなくなるんじゃないかということを言い訳に、東京にも大阪にもどこにも出ていかず、そのくせ流転に憧れながら、田舎町での暮らしを続けていたが、時折、相手の都合をうかがっては、大阪までその人に会いに行っていた。
 人生の中で、特別に尊敬する人が2人居て、その頃ひとりは東京に、ひとりは大阪に居た。東京に居た人には、来いと言われ、旅費まで用意されて定期的に出ていったが、大阪の人には自分から会いに行っていた。そのために日雇いの仕事なんかもやりつつ、交通費を作ったりした。
 世間では蛾の幼虫だと思われていたボクのことを、どういう分けか、その人はいつか綺麗な羽をつけると楽しみにしてくれていたし、今でもしてくれている。
 その人に会う度に、話しをする度に、ボクは憧れを更に強くした。
 
 あるとき、午前中から大阪にいたが、その人と会う予定は、相手の仕事が終わる夜だったので、空いた時間にボクは、ふと生まれてすぐの頃に住んでいた場所を見に行ってみようと思った。免許証に書かれた本籍地を頼りに行けば、たどり着けるだろうと思った。
 梅田に居て、そこから東大阪までの行き方がまったく分からなかったので、ボクとしては珍しく、近くに居た人に道を聞いてみた。
「東大阪まで行くなら、近鉄をつかえ」と言われ、近鉄の駅までの行き方を教えてもらい、そこから駅にあった警察の詰め所で免許証を見せて「ここへ行きたいんだ」と伝えた。
 当時のボクの携帯は、まだ通話とメールしか出来なかったので、ほかに方法がないとはいえ、この時はいつになく、積極的に人に話しかけた。
 警察の視線に好奇心を感じたボクは、生まれた場所だが記憶が無いから、見に行ってみようと思ってと事情を話した。
 教えられた通りに切符を買い、地下鉄で東大阪の荒本駅まで行った。
 地下から地上に上がると、周りの景色にはまったく見覚えはなかった。
 東大阪に住んでいたときの記憶はほとんど無いと先に書いたが、5、6歳の頃と13、4歳の頃に、一時(いっとき)、親同士の交流が再開した時期があった。――結局はまた喧嘩して、疎遠になるのだが。
 その頃に父の住む家や、その親族の家に遊びに行ったことが数回あったので、行けばなにかしら街並みに見覚えがあるのではないかと思っていたが、右にも左にも見覚えはなかった。
 急ぐこともないので、あてもなく駅周辺をウロついてみてから、マクドナルドへ入って昼食をとった。

 平日昼間の店内は、客が2、3人居るだけで、閑散としていた。

 空いたトレーを片付けていると、丁度いい具合に店員が側を通ったので、「近くに荒本団地という場所はないか?」と尋ねると、「荒本団地と呼ばれる場所は、3ヶ所か4ヶ所ある」と言われた。
 ボクはまた、免許証を見せて、「ここの住所に近いところを探している」と説明した。
 すると、近くの席に座っていた、ヨレたTシャツ姿の男が立ち上がり、話しに入って来た。しばらくTシャツと店員は「あそこじゃないか?」「いや、あっちの方が近い」などと、思いがけぬほど真剣に話し込みだした。
 ボクは出来るだけ手がかりになるようなことを提供しようと、「隣に保育園と神社があって」などと思い出せる限り地理を説明した
 そうしてる内に、少し離れた席に座っていた、ハットを被った男まで、(俺なら、分かるかも知れないぜ)といった風に立ち上がり、「何年か前の建て替えで、団地の周りも様子がだいぶ変わってもうてるからな……」と言いながら、輪に加わった。
 ハットが言うには、いくつかある団地も、その周辺も、ここ数年ですっかり様子が変わってしまっていて、唯一、どこそこの団地だけ、昔のままだということだった。
 ボクはこれ以上話しが長引くと、ヘタしたらTシャツもハットも、場所探しに着いてくると言い出すんじゃないかと危ぶみ、「とりあえず様子の変わってない団地に行ってみる」と、半ば強引に話しを切り上げ、3人に礼を言い店を出た。
 ボクは、彼らに「ガンバレよー」と見送られた。
 大阪では、うかつに道も聞けないな。と思いながら、とりあえず教えられた方向に歩いていると、見たことのあるような景観が続くようになり、その内に探していた団地が見えた。
 団地の隣には、記憶どおり、保育園と神社があった。団地もその周りも、なにも変わっていなかった。
 朝から、いつもどおり不機嫌な色だった大阪の空からは、パラパラと雨が降りだしていた。
 団地の周りを一周ぐるりとまわってみた。ここへ来たからといって、なにかやろうという目的が特別にあったわけではない。父親がここへはもう住んでいないことは分かっていたが、オバアちゃんはまだ住んでいるかも知れない。しかし、それを訊ねようとも思わなかった。
 ぐるりと回ったあと、隣の神社の境内に入ってみた。
 寄進者の名前が刻まれた玉垣の中に「瀬川 才一郎」という名前を見つけた。本人に会ったことはないが、大叔父かなんかにあたる人だというのは聞いたことがあった。
 なんだか不思議だなと思いながら、刻まれた名前を見つめた。
 雨が徐々に強くなってきたので、そろそろ駅へ戻ろうかと思い、境内から出ると、見覚えのある、白髪頭の後ろ姿が見えた。
 オバアちゃんの再婚相手だった。そのあとに続いて、オバアちゃんが団地から出てきた。
 ふたりはワーゲンのゴルフに乗り込んだ。最後に会ったときに乗っていた車と一緒だった。
 車が走り去るのを見送った。声を掛けようとは思わなかった。
 ただ、「まだ生きていたんだなぁ」そんなことを思った。

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