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一番強かった男

 むかし好きだったことや物。あるいは人なんかが、いまでは自分の中でさして重要ではなくなってしまっていると気がつく時がある。
 本当に、どうでもよくなっていれば、なにも感じないのだろうが、好きだった当時の感覚を、体の中のどこかしらが覚えているので、そんな時は、なんとなく感傷的な気持ちになる。
 大人になった。成長した。衰えた。言い方はなんにしろ、そのことに関して、今よりも幼かった頃の自分はもう居ないのである。
 死んでしまった旧友のように、心の中に影だけが残っている。
 そんな事柄のなかでも、胸を焦がすと表現しても良いぐらいに熱中したものが、過去にふたつ程ある。10代の時の音楽と、20代の時の競輪。
 どちらも、ボクは一生それを生活の中心にして生きていくと思ったが、いまではどちらも、さして重要なことではなくなってしまっている。
 今回は競輪の話で、音楽についてはハシカとか水疱瘡とかと同じで、みながよくかかるありきたりな熱病なので、今後記すこともたぶんないと思う。

 10代最後の夏に、テレビでたまたま競輪の中継を見た。――その後、本を読み、人の話を聞き、沢山の授業料を払い、覚えていくことになる、複雑で怪奇といってもいい競輪の仕組みなどなにも知らぬまま、適当に選手の名前と、割り当てられた車番の色だけを見て、1・2着を予想してみると、素人特有の強運でそれがピタリと的中した。
 それで安易に、「こんな調子で当たるなら、今後小遣い銭ぐらいには事欠かないのではないか」と思ったボクは、当時、自宅からさほど遠くない場所に在った競輪場に通い詰めることになった。

 生活の中心に競輪があったのは4年間ほどで、その頃に強かったスター選手というのが何人かいる。
 今でも、何かの拍子で競輪の結果を目にしたり、中継を見たり、談義に巻き込まれたりすると、どうしても、今をときめく若い選手よりも、ボクが競輪に熱くなっていた頃の、10年も前に強さのピークを向かえていた、ベテラン選手のことに気がいってしまう。
 ボクの熱が冷めることなく、コアな競輪ファンであり続けたならば、今の彼らの競争スタイルも、競輪界での立ち位置も自然な流れで頭の中に入ってくるのだろうが、いかんせんボクの中では、彼らはいまだに全盛期の頃の姿で止まっているので、今はもうG1の大舞台で――その年の一番を決めるGPの場で、見ている者の息が詰まるような、強い勝ち方をしないことに、違和感を覚えてしまう。

 当時強かった選手の中に堤 洋 という人がいる。
 徳島県所属の選手で、慢性的に選手層の薄い四国・中国地区の中で気を吐いていた。
 出来るだけ競輪を知らない人にも分かりやすく記すことが出来ればよいなと思うが、競輪とは、「ヨーイ、ドン!」で、がむしゃらにゴールをめざす競争ではない。
 競技を複雑にしている理由に空気抵抗と、ラインというものがある。
 レース中自転車の速度は時速60から70キロにもなる。それだけのスピードを出せば、選手の脚にその分の風圧がかかってくる。走っている選手全員に同じだけ負担が掛かるのなら単純だが、そういう訳ではなく、先頭で風を切って走る選手と、その後ろを走る選手とでは受ける抵抗が、まるっきり変わってくる。
 俗に後ろを走る選手は、前を走る選手と比べ、受ける抵抗は半分だなんてことを言われる。
 ならば人の後ろを走っている方が断然有利じゃないかとなるが、単純にそうだともいえないところが、競輪の複雑なところで、面白いところでもある。
 ずっと人の後ろを走っているだけでは勝てないので、みなどこかで先頭に立つべく、仕掛けるのだが、得意とする仕掛けのタイミングで、大まかに分けると選手の種類は三つに分かれる。
 早い段階からトップに立ち、そのまま持久力を武器に押し切りを狙う先行選手。
 先行する選手の動きを見極めながら、ここぞというタイミングで仕掛けていく捲り選手。
(この先行と捲りを主な戦法とする選手のことを、ひっくるめて自力選手という)
 自力選手の後ろで力を温存し、ゴール前の直線で抜け出しを狙う追い込み選手。
 追い込みを主戦法にする選手は当然、強い先行や捲りの選手の後ろを走れば有利なのだが、誰がどの選手の後ろを走るかというのが、大体は決まっている。ルールではなく、仁義とでも呼べばシックリくるであろう競輪界の常識で決まっているのである。
 例えば、徳島所属の先行選手がいれば、その後ろは同じ徳島の選手が。東京の先行選手なら東京の追い込み選手がという具合である。
 同じ都道府県の選手がいなければ、近い県の選手、徳島と香川。徳島と高知。といったような組み合わせになる。
 先行や捲りの後ろを走る追い込み選手は、ただ後ろを走って楽をしている分けではない。前の選手が走りやすいように、他の選手を牽制したり、良い位置が取れるように動いたり、時に共倒れ覚悟で格下の選手をサポートするため後ろを固めたり。
 結果は個々で出るが、ゴールまで到る道のりはチーム戦なのである。
 先行・捲りの選手と追い込み選手の共存関係をラインと呼ぶ。

 当時の堤の主戦法は捲りだった。
 彼は背が高く、それもあり他の選手と比べるとスマートにみえた。整った顔立ちで、生やした顎髭がよく似合っていた。そこら辺の俳優なんかより男前だった。
 おまけに彼の得意な、捲りという戦法は、勝つときは華やかで見栄えが良い。堤はスターとしての資質十分だった。
 ボクが競輪に熱をあげていた期間、常に堤はG1をいつ獲ってもおかしくないレベルの選手だった。
 彼の同期には強い選手が揃っており、着実にG1・GPを獲る選手が出てきてるなかで、次は堤だという空気がファンの中にも流れていた。
 難点はゴール前の詰めが甘いことで、よく胸のすくようなキレのよい捲りを決めたと思ったら、ゴール前で追い込み選手に交わされて、僅差の2着、3着なんてことがあった。
 それともうひとつ、戦法がワンパターンだった。良い位置を確保してからの捲り。
 持久力にはやや劣るが、ダッシュ力がありトップスピードにも優れている――中段(捲りを決めるのには良い位置)を確保する為の精神的しぶとさもある。堤はこの戦法においては一流だった。しかし同世代の選手で、彼より一足早くG1を獲っている選手たちは、もっと戦法に幅があった。
 堤の脚質、もしくは性格によるところが大きいのだろうが、この捲り一辺倒の戦法には、地区の選手層の薄さにも一因があったのだろうと思う。
 他の若手自力選手と比べて、堤にはラインがなかった。

 2003年、堤は2度G1の決勝に進出した。1月にあるその年最初のG1『競輪祭』と11月の、その年最後のG1『全日本選抜競輪』
 1月の競輪祭で、せっかく大舞台の決勝戦に進出したのに、堤の所属する四国地区からも、隣の中国地区からも、他に決勝に進出した選手はいなかった。
 それに対して、当時競輪界最大勢力といってもよいほど、選手の充実していた中部地区からは、6人も決勝に乗っていた。9人で走る競輪のレースで6人。
 堤の後ろを、よい追い込み選手だが、堤とは連携実績の無い他地区の選手が追走すると宣言して、一応のラインは出来た。しかし、シッカリとしたラインとは呼べず、逆に6人いる中部の選手たちは、個々に優勝のチャンスがあるように、全員ではラインを組まずに、別れて走ると言ってはいるものの、当時、選手層の厚すぎた中部ではよくあった、軍勢を2分、3分する作戦で、これは別れて走っても、やはり中部というひとつのラインなのである。実質は、6対1対1対1の勝負だった。
 レースは序盤、先頭を走っていた堤が勝負所に入る前に、極端にペースを落とすというトリッキーな作戦に出た。
 超スローペースにしてからのダッシュ勝負。瞬発力に自信のあった堤は、それでなんとか、中部勢に一矢報いようとしたのだ。
 結果はやはり、中部の選手から優勝者が出て、堤は3着までだった。ラインの戦力、状況を考えれば、これ以上は望めない目一杯の結果だったと思う。
 レース後のインタビューで、スローペースに落とした作戦について、「とにかく、なにかしてやろうと思った」堤はそう言ったと記憶している。

 一年の出だしからラインに恵まれなかった堤だが、この年は年間を通して調子が良かった。
 あらためて調べてみて、G1の決勝進出が2度だけというのが、そんなに少なかったのかと意外に思うほど、2003年の堤は強かった印象が残っている。
 彼が決勝に進出したもうひとつのG1、11月後半におこなわれた『全日本選抜競輪』これはただのG1ではなく、その後に行われる暮れの大一番 KEIRIN GP』への出場権を賭けた、最後の大会だった。
 競馬でいえば有馬記念に相当するKEIRIN GPへは、4千人近くいる競輪選手の中から、その年の成績上位者9人しか出場が許されない。
 堤はその9人のボーダー線上にいた。力的にも、近状の抜群によい調子からも、全日本選抜で好成績をおさめGPへの出場は十分可能に思えた。
 これを書いている現在から10年以上も前のことだし、探してみてもそれほど資料が出てこないので、ボクの頼りない記憶による部分が多くなるのだが、高知でおこなわれたこの大会では、地元地区ということもあり、いつになく堤の所属する、四国勢の奮闘が目立った。
 4着・1着という成績で勝ち上がった堤は、準決勝で同じ徳島の選手とラインを組むことになった。
 堤の後ろを走る選手は、G1での優勝経験もあり、キッチリと仕事をする、よい追い込み選手だった。
 決勝進出がかかる重要な局面で、堤は最良のラインを組むことが出来た。
 二人で決勝戦に進むことが出来れば、堤にとっても後ろを走るラインの選手にとっても、望める中で、もっともよい状態で決勝を戦えるチャンスだったが、結果は堤とラインの選手で3着同着だった。
 準決勝3着までが、決勝進出の条件であり、同着の場合はどちらかがふるい落とされてしまう。
 前日の競争で、堤の方が特選レースという格の高い番組を走っていたので、決勝へは堤が進出することになった。しかし、これでやはり決勝で堤にはラインがなくなってしまった。けれど、同着で首の皮一枚繋がり、生き残った堤に、ボクは運を感じた。
 翌日におこなわれた決勝戦で、堤の後ろには今回好調だが、地味な存在の関東の追い込み選手が、他に行くところがないので、あいている堤の後ろでという感じで追走することになった。競輪祭の時と同じ間に合わせのラインである。
 しかし、今回はちゃんとしたラインがないのは堤だけではなかった。4つに別れたライン全てが、他地区の選手同士の混合であった。
 勝ち上がりでの運があり、特別に有利なラインがあるわけでもなく、他の自力選手の走り方の傾向を見れば、堤の得意とする、中段確保からの捲りが活きそうなメンバーである。おまけに直近での好調さ、地元地区という少なからず影響のあるアドバンテージ。ラインを組む、後ろの選手は好調だが堤の捲りを差してG1を優勝するには地味すぎる。ボクは堤の優勝を、予想というよりも、ほぼ確信していた。

 レースは万事、堤に都合良く進んだ。他の自力選手同士が激しくやり合い、堤は労なく中段を確保し、逃げる選手の後ろも縺(もつ)れていたため、飛んで来る捲りをブロックする余裕も無いように見えた。
 堤の仕掛けたタイミングも抜群に良かった。踏み出した瞬間に行けると思った。
 堤自身も、レース後のコメントで、「最低でも2着はあると思った(彼は2着以上でGP出場が確定する状況だった)」と語っていた。
 最終3コーナー過ぎ、前段を飲み込もうとする堤。そこへ激しくやり合っていた自力選手の一方が力尽きて後退してきた。その車体が大きく斜行し、堤の自転車と接触した。
 斜行した選手はそのまま落車し、堤はなんとか落車は免れたが、完全に勢いは止まってしまった。
 この瞬間、G1優勝もGP出場も彼の手から逃げていった。
 堤にはラインだけでなく、運もなかった。

 その後、しばらく堤は、相変わらずダッシュ力とトップスピード、しぶとい位置取りを武器に、G1に最も近い男として活躍した。しかし、やがて競輪選手には付きものの落車。それに伴う怪我の影響で調子を落とし、第一線で彼の姿を見なくなった。

 ボクが競輪から離れ、何かの拍子か気まぐれで数年ぶりにレースを観戦した折に、選手の中に堤を見つけた。
 もはや若手ではなく、キレの良い走りが武器だった彼には似合わない、大きなギアを使っていた。追い込み選手として、昔の彼より格段に弱い同県の自力選手の後ろを固めていた。
 堤が前を任せた、若手自力選手が不発になったのを見て、ボクは心の中で、「いけ! 堤。ラインなんか捨てて得意の捲りを見せてくれ!!」と願ったが、彼はそのまま、前の選手と共倒れになった

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