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むかし好きだったことや物。あるいは人なんかが、いまでは自分の中でさして重要ではなくなってしまっていると気がつく時がある。 本当に、どうでもよくなっていれば、なにも感じないのだろうが、好きだった当時の感覚を、体の中のどこかしらが覚えているので、そんな時は、なんとなく感傷的な気持ちになる。 大人になった。成長した。衰えた。言い方はなんにしろ、そのことに関して、今よりも幼かった頃の自分はもう居ないのである。 死んでしまった旧友のように、心の中に影だけが残っている。 そんな
家から職場に直接行くというのが、あまり好きではない。 寝過ごしたりという理由でもなければ、大抵はカフェによってコーヒーを飲みながら、すこしばかりボンヤリした後に職場に入る。 カフェに寄るお金が無いときなんかは、わざわざ少し離れた場所に自転車を止めて、街の様子を眺めながら、ダラダラと歩いて職場に向かう。 ずいぶん時間を無駄に使っているようにも思えるが、これから700円や800円なんていう小銭で時間を切り売りするのだから(ひどい時には500円という時給で働いたこともある)
この人にだけは、なりたくないな。 そう思う人が、知り合いに一人いる。彼はボクより2つ年下で、これを書いている現在、28才。彼のようになりたくないと言っても、彼の性格やルックスに問題があるわけではない。むしろ、彼はナイスガイといっていい男だろう。 ただ、彼のように、不幸に気に入られたような人間には、なりたくない。 ボクらのような、徒手空拳で行き当たりばったりの生き方をしている人間にとって、ツキがないというのは大問題だ。 彼と初めて会ったのは、中学生のとき。――ボク
何となく、『エッセイ』という言葉を使うのが、恥ずかしいというか、テレくさいので、この、『ドンキホーテ・サンチョパンサ』のことを、なんて呼んでいいのか戸惑うのだが、とにかく、まあ、この散文のタイトルは、甲本ヒロトの曲に『天国うまれ』というのがあって、その曲のなかで、「ドンキホーテ・サンチョパンサ――」という歌詞が繰り返し出てくる。 曲の雰囲気のせいもあるんだろうが、オカシイはずなのに、なぜか哀愁を感じるこのフレーズが気に入って、短絡的にそっから取って、こんな題名をつけた
まったくオカシな言葉である。なにがオカシイと言って、言葉の響きもさることながら、てんで、意味がわからない。それでいて、馴染みがないわけではなく、知っている言葉なのである。 しかし、自分がどこで、この言葉を覚えたのかが分からない。テレビなのか、小学校なのか、そのどちらかのような気がするが、どちらも記憶にない。 言葉を覚えるなんてことは、そんなものかもしれないが、どうにも心地が悪いのは、テレビにしたって、幼少期に誰かが言っているのを聞いたにしたって、どちらもイメージがわ
ちょっとしたキッカケで、ひょんなことを思い出すことがある。集中力が散漫な時など特に。 先日、叔父さんに手紙を書こうと思い立ったが、ボクの部屋には机がないので、わざわざカフェまで行った。机が無いというのは半分言い訳で、小説家志望というクセに、筆不精なので、カフェに行くなり何なりして、やらなければいけない状況を作らなければきっと途中で投げ出すと思ったのだ。 深夜働いているボクは、仕事前によく、このカフェに立ち寄って、いつもは窓側の席で、表通りを眺めながらボンヤリと時間を