ドンキホーテ_サンチョパンサ

ちゅうちゅう、たこ、かいな

 まったくオカシな言葉である。なにがオカシイと言って、言葉の響きもさることながら、てんで、意味がわからない。それでいて、馴染みがないわけではなく、知っている言葉なのである。
 しかし、自分がどこで、この言葉を覚えたのかが分からない。テレビなのか、小学校なのか、そのどちらかのような気がするが、どちらも記憶にない。
 言葉を覚えるなんてことは、そんなものかもしれないが、どうにも心地が悪いのは、テレビにしたって、幼少期に誰かが言っているのを聞いたにしたって、どちらもイメージがわかないのである。
 ためしに、ブラウン管越しに、この言葉が流れてくる様子や、子ども時分に周りにいた、そういったことを言いそうな、クラスのひょうきん者や、近所のオヤジなんかの姿を思い浮かべて見るが、どうにも違和感がある。
 誰にでも、子供時分、クラスや、仲のいい友達連中なんかの間で流行る、オカシナ響きの言葉があるんじゃないかと思う。たとえば、ボクの場合だと、小学校5年か6年生の時に「フルヘッヘンド」という言葉が流行った。「フルヘッヘンド」「フルヘッヘンド」と、意味もなく、みんなこの言葉を言いたがるのである。
「フルヘッヘンド」が流行った理由も、言葉の意味も、ハッキリと覚えている。社会科の授業で、杉田玄白のことを習った折に、氏が、ドイツ語で「こんもりしている」というような意味を指す「フルヘッヘンド」という言葉の意味がなかなか分からずに苦労したというエピソードが出てきたのである。
 その授業が終わってから、まるで流行性の風邪のように、「フルヘッヘンド」がクラスの中で蔓延した。
 もう、かなり前のことなので、記憶ではなく、自分の中で補正して作り出したイメージの様でもあるが、今でも先生が教壇で教科書片手にクソ真面目な表情で「フルヘッヘンド」と言っている姿も、わんぱくな男子が、天然パーマのクラスメートに向かって「お前のアタマはフルヘッヘンドしている!」と言い、からかっている姿も思いだすことが出来る。
 これを飛躍させて、実際にあったことではなく、無かったこと、例えば最近知り合ったばかりの人間が、「フルヘッヘンド」と言っている姿を妄想してみると、わりと難なくその姿を思い浮かべることが出来るのである。
 自分の親が「フルへッヘンド」と言っている姿も、議員さんが選挙カーの上から「フルヘッヘンドがなんたらかんたら」と言っている姿も想像できる。「その時歴史が動いた」の中で松平アナが「フルヘッヘンド」と言っている姿も、ホリケンが深夜に「フルヘッヘンド」と言いながら、はしゃいでいる姿も想像できる。AKB48の新曲が「フルヘッヘンド」だったとしても問題はない。家で飼っているうさぎの名前が「フルヘッヘンド」だとすれば、今の名前よりずっと良くなると思う。
 それと比べて、「ちゅうちゅう、たこ、かいな」は、誰かが口にしている姿を妄想するのが実に難しいのである。どういう分けか、ボブ・サップやボビー・オロゴンといった手合いが、おぼつかない日本語で「チュウチュウ、タコ、カイナ」と言っている姿がかろうじて妄想できるぐらいである。
 まあ、「フルヘッヘンド」と「ちゅうちゅう、たこ、かいな」では語呂や響き、意味合いといった言葉の質がまったく違うからだ、と言われてしまえば、それだけの事かもしれないが、それにしたってである。他にもオカシナ言葉と言うのは沢山あって、「じゅげむ、じゅげむ、ごこうの~」だとか、「ざんす、ざんす、さいざんす」「テクマクマヤコン、テクマクマヤコン」ほかにも「ガチョ~ン」やら「チムチムニー、チムチムニー」など、いくらでもあって、それらは、だいたい、脳内でだれか適当な人物を選んで、その人に発言させてみても、その姿が違和感なく想像できるのである。
 どうにも、「ちゅうちゅう、たこ、かいな」だけは、誰もが知っている言葉ながら、誰かが、その言葉を発していると考えると、むずがゆい違和感を覚える。
 もしかしたら、意味がまるっきり分からないことが原因かもしれないと思い、落ちついてその意味を考えてみた。
 上記したほかの言葉も意味不明といえば、意味不明だが、それでも、「じゅげむ~」なら、落語のネタで、人の名前である、「ざんす」はトニー谷のネタ、アッコちゃんに谷啓、メリー・ポピンズと、その言葉の出どころを知っているし、歌詞なのかギャグなのか、はたまた変身するときの呪文なのかといった事も知っている。それだけ分かれば、どういった場面で使えばいいのかといった事もおおよそ分かる。しかし、「ちゅうちゅう、たこ、かいな」だけは、どうにも使い道と出どころが分からない。
 最初、「タコ」は海の中にいる八本足の生き物、蛸を想像し、「かいな」と言うのは「なのかな?」の関西なまりだと憶測した、ここまでで「蛸なのかな?」と疑問に思っている関西人の姿が浮かび上がってくる。じゃあ、「ちゅうちゅう」とはなんだろう? そう考えて一番最初に思い浮かんだのは、何かを吸ってる時の擬音だった。
 これを、つなぎ合わせて、ボクが想像したのは、関西人が何かスルメのような物体をしゃぶりながら、「これは、タコなのかな?」と疑問に思っている姿だ。
 まあ、そういう意味ととれなくもないが……、仮にそうだとしたら、だから何なんだろう? 先ほどまでとまた違った、さらに深い意味でこの言葉の意味が分からなくなる。
 こんな、くだらないことに時間を費やして、誰といわず、世間の人に対して、なんだか恐縮した気持ちになるが、どうせなので恐縮ついでに、さらに考えると、「たこ(蛸)」は「凧」に置き換えることが出来る、そして、「かいな」は、そのまま「なのかな?」
 ここまで、想像すると「ちゅうちゅう」の「ちゅう」は、「空中」の「宙」なんじゃないかなという考えが浮かんでくる。すなわち、「宙々、凧なのかな?」今度は空を見上げながら疑問に思っている関西人だ!
 こっちの方が、さっきの蛸なのかスルメなのか分からない物体をしゃぶっている関西人よりは、しっくりくる。しかし、仮にそうだとして、だから何なんだろう? やはり行き着く先はそこである。
 ここで、考えを休めて、まあ、初めからそうすればよかったのだが、ネットで「ちゅうちゅう、たこ、かいな」の意味について調べてみた。
 どうやら、「ちゅうちゅう、たこ、かいな」と言うのは、数え歌で、「ちゅう、ちゅう、たこ、かい、な」の区切りで数えていけば、「二、四、六、八、一〇」と同じ要領で、物を二つずつ数えれるとのことだ。
 言葉の意味や出所については、諸説あるようなので、気になる人は自分で調べて見ることをお勧めするが、どれも、納得いくようであり、またどれも、しっくりこない感じもする。
 使い道もわかって、言葉の由来にもいくつか目を通したが、結局、ボクがこの言葉に対して持っている、違和感が無くなることもなく、相変わらず「オカシな言葉だなぁ」といった思いを払拭できない。
 何よりも、一番オカシイのは、ボクはこの言葉を思い出すと同時に、人の優しさを思い出し、あったかい気持ちになることだろう。

 つい、最近のことだが、ボクは旅先でお金が無くなり、しかたなしに、とある観光ホテルに住み込みで働いていた。リゾートバイトと言うヤツで、繁忙期だけの短期間の仕事だったのだが、つい最近のことというのが問題で、世間一般では、ボクぐらいの年になると、ある程度、生活の地盤を築いているものだ。本来なら、こんな経験は、最近ではなく、7年ほど前にすませとかなければいけない。まあ、でも、今更7年前に戻れるわけでもなく、年令どうのこうのと言った話をしてみても、あくまで「世間一般ではそうだろう」というもので、ボク自身は、あまり年令にこだわって生き方を考えたりするのが好きではないので、気にしないようにはしているのだが……。
 とにかく、30前にして、派遣で住み込みの仕事に行ってみると、そこにはボクと同い年の主任がいた。
 この主任というのが、なかなかクセの強い人で、いろいろと問題があるのだが、細かく書けば長くなるし、面白くも無いので端折るが、まあ、ボクはこの人のことが嫌いだった。
 嫌いでもなんでも、一緒に働くわけだし、まがりなりにも彼に仕事を教えてもらい、世話になる立場なので、出来るだけ仲良くしよう、好意的な目で彼のことを見ようと努力してみたのだが、どうにも苦手でしょうがない。
 ボクなんかは、根っからの子分気質なので、たとえ相手が厳しい人でも、怖い人でも、シッカリした人ならば、怒鳴られたり、キツくあたられたりしても、それほど苦にすることもなく耐えられるのだが、相手のことを、厳しいでも、怖いでもなく、気持ち悪いと思ってしまうと、もうダメなのである。この主任がただの厳しい人であれば良かったのだが、ボクは彼のもつ幼児性が気持ち悪くてしょうがなかった。
 彼もまた、ひとりの劣等漢だが、その幼児性ゆえに、自分の劣等を認めることができずに、全てにおいて、自分ではなく会社が悪い、世間が悪い、自分はこんなに優れているのに、周りが無能ゆえ、自分が優れているという事さえ理解できない。そういう風に答えを持っていってしまうのだ。
 屈託やら劣等感というのは、実に味わい深いもので、みな大なり小なり持っている。それがあるからこそ出てくる、人の魅力というものがあるとボクは信じているが、反面、それを上手く消化できなければ、その人は困った人になる。

 ホテルの中で、ボクの仕事はバイキング形式のレストランで料理を補充することがメインだった。
 まあ、仕事の内容は単純で、簡単なことだが、これが、メチャクチャ忙しい。補充する人員の数と比べて、料理の数、お客さんの数が釣り合ってないのだ。
 ひとつの料理の残りが少なくなってきたら、補充する分を、いくつかある冷蔵庫、冷凍室、温蔵庫、または、調理場まで取りに行くのだ。冷蔵庫や冷凍室が複数あるだけじゃなく、調理場も二ヶ所あるというのを伝えておけば、一日にどれぐらいの量の料理を補充しなくてはいけないか分かってもらえるだろうか?
 
 その日は、入り口でお客さんの受付をする主任と、席への案内やアルコールなんかのバイキングとは別料金となる物のオーダーを取ったり、運んだりするホール係が2人。料理の補充はボクと、仮に「ひよこ」とでも呼ぼうか、カリメロに似た50前後で入社10年目の人が担当だった。
 それと、もうひとり、本来ならレストランの人員ではないが、人手不足を補うため、ほぼ毎日手伝いに来ている「前川」さんという、なんとなく知的な感じの人が、ホールと料理の補充を様子を見ながら両方やるという、構図だった。
 これは、ただでさえ人手が足りてない普段と比べて、さらに従業員の数が少ないシフトだった。なのでやる前から「忙しくなるんだろうなぁ」と予想はしていた。
 レストランの営業が始まるとともに、行列が出来ているというほどではないが、お客さんがパラパラパラと何組か続けて入った。
 すると、すぐにホール係と前川さんの3人だけでは、案内が間に合わなくなった。入り口でお客さんが、案内係が来るのを待っている状況になるのだ。待つといっても1分も2分も待たされる分けではない、お客さんを席まで案内しているホール係が受付に戻るまでに3、40秒もあれば事足りるといったとこだろうか。
 元来暢気なボクなんかは、それが、どうしても大したことだとは思えない性格で、それよりも、ホール係が走って受付に戻る姿を、ホテルのレストランという場所の性質上、どんなに急いでいても、歩いたほうがいいんじゃないかと思いながら、眺めていた。
 しかしまあ、出来るだけ待たさないほうが好いことに間違いはないんだろうが。
「ご案内お願いします! ご案内お願いします!」そんなこと、改めて言われなくても、ホールの人はみな分かっているが、たとえ1秒でもお客さんを待たすことに我慢ならない主任のイラついた声が、インカムから聞こえてくる。
 この人は時折、普段喋ってるときの声とインカムで会話するときの声が違うことがある。まるで、鼻をつまんで喋っているような、少しこもった、映画の吹き替えやアニメなんかで、インテリの悪役キャラみたいな、声、喋り方になっている時があるのだ。
「ご案内お願いします! ご案内お願いします! 早く戻ってきてください! 早く戻って来てください!」
 まるで「メーデー、メーデー」と救難信号を送るような切羽詰った感じでそう繰り返される。
 そんなに急かされなくても分かってるよ、と言いたげに中国からの研修生が駆けて受付へ戻る。
 ボクは、その様子を見ながら、料理の補充で良かったなぁと、同じ様に忙しくとも、こんだけイライラする感じで急かされないだけ、マシだと思いながら、のん気にサラダの盛り付けをいじったりしていたのだが、その内に、いくら急かせども、これ以上案内のペースが上がらないことに腹が立ったのか、主任が「誰でもいいから来てください! 誰でもいいから受付に来てください!」と怒鳴りだした。
(誰でもというのはボクも含まれているのかな? でもな、行っても案内の仕事ってなにやったらいいんだっけな、席に案内して……ああ、席の番号覚えてないや……でその後に……)とまあ、そんなことを考えながら、こういう時は先輩の様子を見て参考にしよう、と一緒に補充をやっている、ひよこの方を見てみると、彼はボク以上にのん気に、漬物の盛り付けをいじっていた。インカムでの主任の発言はガン無視だ。
 まあ、補充というのは後半から忙しくなるので、最初は正直やることがない。
 なんとなく、そのキャラクターに親近感を覚え、しかもこの人から仕事を教わることの多かったボクは(ひよこの兄貴が無視してるんだから、ボクも無視でいいか)と、サラダいじりを続けたが、その内に主任は「ひよこさん、ひよこさん、来てください。ご案内お願いします」と名指しでひよこさんのことを呼んだ。実はこの2人、仲が悪くお互いのことを嫌っていたので、その言葉の裏に「おい、おまえどうせ補充なんて最初は暇なの知ってんだぜ。どうせ、たくあんでもいじるぐらいしか今やることないんだろ! いいからとっとと案内手伝いに来いよ、ハゲが!!」という真意が読み取れる。
 名指しで呼ばれた、ひよこの兄貴はというと、相変わらずのガン無視である。「あれ!? もしかして、兄貴のインカム壊れてんのかな」と思うほど微動だにしない。
 ひよこは、ひよこで、「うるせーな! おめえは何をそんなにテンパってんだ。コレぐらい、忙しいうちにはいらねぇだろう、ボケ!! ゲームの駒みたいに人のことを使うな!」そう思っているであろうオーラが背中から流れている。
 実際にこの主任は、いつでも何かと戦っているように、ひとりで必死になっていた。必死になることは悪いことではない、しかし、もうひとりの主任が仕切っているときは――もうひとり主任が居るというのもオカシナ話だが、このレストランには、勤務年数も長く、叩き上げで、人望もある主任と、この、ボクと同じ年で、入社2年目で、社長の甥っ子で、みんなから嫌われ、みんなのことを嫌っている主任が居た―― もう、一人の主任がいるときは、例え忙しくとも、皆が普段どおりにすれば、完璧とはいえなくともレストランは回るのだが、この、主任だけで、仕切っているときには、どうにもバランスがおかしくなるとでもいうのか、みなが普段通り出来なくなるのだ。
 それは、この主任が、もう一人の主任にライバル心があり、自分が仕切るときには、意図して、その人と違うやり方をやろうとする、時間をかけて培われ自然とそうなったであろうやり方に、反したことを皆に指示するせいもあるだろうし、皆の能力や人員の数を考慮した指示ではなく、自分の理想を優先した動きを周りに求めるせいもあると思う。
 それで、上手くことが運べばいいのだが、そうはならないというか、動かされる側はいつもより疲れ、主任は主任で、指示している自分の思い通りにことが運ばないことにイライラし、場の雰囲気が悪くなってしまうのだ。
 今回のような場合だって、もう一人の主任ならば、一組案内が終われば、ホールのスタッフは言わなくても、受付に戻ってくることを理解しているので、あえて急かすようなことはせず、それよりは、少しばかり待たされるお客さんに、愛想を振りまくことに集中するだろう。
 それに、対して、こちらの主任は、急かせば急かすだけスタッフの動きが早くなると思っているのか、まるで馬の尻にムチをいれる様にインカムで指示を送り続ける。
 どちらのやり方が正しいとか正しくないとかいう問題ではない。ただ、ここでは、もう一人の主任のやり方がいつものやり方で、重要なのはみな、もう一人の主任を本当の主任と認めていた。ひよこだって、もう一人の主任に呼ばれていれば、すぐに受付に向かっていただろう。
 それに、連日の激務でみな、もうムチを入れられる余地のないぐらいに疲れていた。

 呼んでも、ひよこが応答しないと悟ると、少し間があってから、主任はボクでいいから来いと、指示した。
 名指しで呼ばれて、無視するほど腹は据わってない。しょうがないな、と思いながら、ボクはもう一度、案内の仕事の内容とオーダーの取り方やら対応を推測しながら、受付に向かったが、途中で、ほかのお客さんの案内を終えた前川さんが、チラリとこちらを見て、「ボクが行くからいいよ」と、そんな感じで受付に駆けていった。
 見ると、案内を待っているお客さんは一組だけだ。なら、いいかとボクはまた、持ち場に戻り、サラダをいじりだした。

 後半に入ると、今度は立場が逆転して、料理の補充のほうが忙しくなる。尊敬するほどマイペースな、ひよこの兄貴と二人での補充は、いつもてんやわんやだ。
 ボクは足りない食材を取りに、厨房の横にある冷蔵室に向かった。
 その、冷蔵室というのが、主任の持ち場である受付の向かいで、わりと近い距離にある。お客さんの流れもひと段落した受付では、主任と前川さんが何か話していたが、主任はボクのことに気づくと、感情的に怒り出した。
「おい! 瀬川! おめぇ俺が呼んだらすぐに来いよ!! 何があってもぜってぇに来い!! オレ主任だぞ!!」
「はい、すいません」と、まあ、お決まりの文句で素直に謝ったが、内心、少し驚いた。別に怒られたことや、きついものの言い方に驚いたわけではない。
 先にも記したが、ボクはこの人のことが嫌いだったが、それでも一緒に働くかぎりは出来るだけ仲良くしたほうが良いと思い、彼もまた、日本有数の田舎町で、従業員は、ほぼ全員、おなじ社員寮に住んでいるという、独特の閉ざされた環境の中、特に親しく出来る人は周りに居らず、職場でも、みなに嫌われているという状況で、そこに派遣でやって来た同い年のボクのことを、これはよい話し相手と思ったのか、仕事終わりや、休みの日――あくまで、彼が休みの日、ボクのシフトは関係なかったが……――なんかによく呼び出されて、うわっつらだけだが、親しく話しをしたものだった。
「オレは、タイムカードを押した瞬間に、上下関係はオフにするからよ、プライベートでは、下の名前で呼んでくれ」だとか、「実るほど頭をたれる稲穂かな、ていう言葉が好きだ」とか、彼の仕事に対する考え方、主任イズムを長々と聞かされたり、「俺こう見えて(白い腕を摩りながら)ケンカ最強だから」「高速で250キロ出したことある!」なんて武勇伝を聞かされたものだった。
 この、怒られた前日も部屋に呼びだされ、遠まわしに断ったが、あんまり断りすぎると、おなじ寮に住んでいるだけに、ボクの部屋まで来られそうな勢いだったので、しぶしぶ出向き、長々と、安い哲学書に書いているような、当たり前で、そんなこと言われなきゃ、考えなきゃ出来ないようなヤツは馬鹿だ! と思うような、ありがたい話をコンコンと聞かされていたのだが、その、普段言っている事と、実際の態度が、あんまりにも違いすぎて――そりゃ、みな言っていること、理想と、実際の行動が違うなんてことは多々あるが――正直、「ここまで!!」というほど、彼の自制の利かない感情に驚いた。
 ゆっくりと、怒られているヒマも、怒っているヒマも、レストランにはない。すぐに仕事に戻ったが、ボクは胸のうちで「オレ主任だぞ!!」という言葉に咬みついていた。
「ヤロウめ! ボクのような自分本位で生きている人間に、職場での肩書きなんて、何の意味もないんだぞ! 第一、お前はニセモノの主任じゃないか」
 そう思うが、彼にとって、「主任」という肩書きが、自己を肯定するのに重要な気持ちも、よく分かった。
 ボクにとって、「小説家志望」という肩書きと一緒だ。
「小説家志望」それがなければ、ボクは、ただの思いつきだけで生きている、自分勝手なニートときどきフリーターとなってしまう。そうなればボクは、自分の存在を肯定できないだろう。
 彼も「主任」という肩書きがなければ、パチスロと車で借金を作り、身内に助けられた、ただの馬鹿ぼんに成り下がってしまう。
 アイデンティティを守るためには、是が非でもそこに固執しなければいけないのだ。
 そんなことを考えながら、イライラした気分でボクは、なくなったタコのカルパッチョを補充するために、パントリーに戻り、冷蔵庫からタコのカルパッチョと、ドレッシングを取り出していると、逆転してホールよりも忙しくなった、料理の差し替えを手伝っていた、前川さんが、「たこ、たこ」と言いながら、パントリーに入ってきた。
 彼もタコのカルパッチョがなくなったことに気づき、補充するためにパントリーに取りに来たのだ。
 タコにドレッシングをかけているボクに気づくと、
「あ、カルパッチョ、今やってる!?」
 見れば分かることなので、確認というよりも、無言で立ち去るより、なにか言った方が、感じがいいと思ってそう発したのだろう。
「はい、やってますよ」
 努めて平常どおりの言い方でいうように意識したが、きっと、不機嫌な感じが出ていたであろう。ボクの返しに前川さんは、
「ちゅうちゅう、たこ、かいな、ちゅうちゅう、たこ、かいな――タコよく出るよね」
 と、喋りかけるのと、ひとり言のあい間の言い方でそういった。
 その、言い方から、ボクに気を使った、あえて陽気に振る舞っている感じが伝わってきた。「あんなヤツの言うことなんか、気にすることないよ。バカでムカつくヤローだって、みんな言ってるよ。――さあ、気持ち切りかえて頑張ろうぜ!」そう言う代わりであるし、そんな風に言われるよりも「ちゅうちゅう、たこ、かいな」と言われた方が、よっぽどよい。
 ボクは、(ああ、この人は優しいな。不器用なんだろうけど、いい人なんだろうな)と思い、なんとも言えず、あたたかい気持ちになった。
 そして、ボクも出来るだけ陽気に、
「そうですよね。アイツら(客)ほんとよく、タコ食いますよね!」
 と言い、カルパッチョを抱え、ホールへ出て行った。

“ちゅうちゅう、たこ、かいな”の身のある使い方は、数え歌なんかでなく、怒られて、ふて腐れながらタコを運んでいる人間の、気持ちを楽にしたいときに使う。そういう言葉である。

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