ドンキホーテ_サンチョパンサ

まぬけ

 何となく、『エッセイ』という言葉を使うのが、恥ずかしいというか、テレくさいので、この、『ドンキホーテ・サンチョパンサ』のことを、なんて呼んでいいのか戸惑うのだが、とにかく、まあ、この散文のタイトルは、甲本ヒロトの曲に『天国うまれ』というのがあって、その曲のなかで、「ドンキホーテ・サンチョパンサ――」という歌詞が繰り返し出てくる。
 曲の雰囲気のせいもあるんだろうが、オカシイはずなのに、なぜか哀愁を感じるこのフレーズが気に入って、短絡的にそっから取って、こんな題名をつけたのだが、一応、後付の意味があって、小説『ドン・キホーテ』に出てくる、主人公ドン・キホーテや、従者サンチョ・パンサのように、正気を失っていたり、間抜けだったり――どういう訳かボクは、そういう人、あるいは物や事に、なんとも言えない魅力というか、愛着を感じる性質で、おまけにボクの周りには、比較的そういった、劣等生だったり不器用だったりする人が多くて、そんな人にしか出せない魅力を垣間見れる機会が時折ある。
 そういった、決して格好良くもないし、立派でもないけど、魅力を感じて、心に残った人や出来事を文章にしておきたいな、という隠されたテーマが、この『ドンキホーテ・サンチョパンサ』というタイトルに秘められているのだが、今回は、そんな後付の意味を無視して、優等生の話です。

 ボクの周りに居る人にしては珍しく、彼女には学があった。地元にある国立大学の法学部ならば、1位で入試を通ったが、それよりもかなりレベルの高い、全国区の有名国立大学に通った。そして、本当はとても頭がいいのに、まるでそうは見えない――普通より、少しだけ、バカに見える様に振る舞うほど賢かった。
 大学を卒業するまでの間、実家からの仕送りを一切受けずに、自分でバイトしてまかなった彼女に、ボクは「キャバクラでバイトしたか?」と尋ねたことがある。見知らぬ土地へ出て、誰からの支援も受けずに、大学をちゃんと卒業しようとすれば、時給がよく、労働時間も短い、そういった仕事を、選ぶんじゃないかと思った。
「親が悲しむと思ったからしなかった」と言う、彼女の答えを聞いて、ボクは(おやおや、この人は……)と思いながら、奇特な人を見るような眼差しを彼女に向けた。
 別にキャバクラで働くのが、悪いことだとは思わない。ボクはホステスの息子だ。
 ただ、違和感を感じるのは、今や若い人たちの間で、それが、特殊な仕事だと理解している人が、あんまりにも少ないような気がするということ。まるで、コンビニで働くのと、同じような気軽さで、夜の仕事に就く学生が大勢居る。
 それに、それまでボクが、何人かの女性から聞かされた、キャバクラで働かない理由は「知らないオヤジの隣に座りたくない」みんな、それだった。
 自分の生理的な感情を大切にした、正直な答えだと思うし、「知らないオヤジの横には、たとえお金を貰ったって座りたくないけど、あなたの隣には、こうして座ってるわよ」という含みが感じ取れて、横にいるバカな男に、優越感を与えてあげることが出来る。なかなかいい答えだ。
 しかし、「親が悲しむ」には敵わない。古風で道徳的で、親思い。それに、安易に楽な選択肢を取らない強さと、学生にありがちな、自分たちの世界が世の中の中心だという思い込みに陥っていず、他の世代、本当に中心を占める世界の中で、その物事が、どういった風に捉えられているかを、理解している知性を感じさせる。
 それに、この答えは、彼女の周りの人が求めているものだ。
 ボクは彼女のことを知るうちに、かなり本気で、この人は人間ではないんじゃないかと疑ったことがある。本心や気分ではなく、道徳や理想に沿った発言や考え方をする。しかも、その道徳や理想というのが、彼女中心の考え方や、勉強が出来るだけのヤツにありがちな、頭でっかちなものではなく、相手が求めているものを――相手がバカでも利口でも、強い人でも弱い人でも――理解し、発言あるいは行動を返す。子どもみたいに振る舞うのも、お姉えさんぽくなるのも、真面目を演じるのも変り者を演じるのも自由自在。現実的であったり、夢見がちであったり。とにかく、みんなにとっての理想が彼女にとっての理想。そんな風に作られた、アンドロイドか何かじゃないかと思った。

 ある時、たこ焼きを買いにいこうとしていたボクを捕まえた彼女に、ついでにたこ焼き屋の斜め向かいにある店で、おにぎりを買ってきて欲しいと頼まれたことがある。その時の、遠慮がちで、はにかんだ――例えれば、2回しか会ったことのない、うんと照れ屋の子どもが、瓶のフタを開けてくれとお願いしに来たみたいな――様子を見て、ボクは「ああ、やっぱり人間だったか」と安心したというか、なんだか嬉しかった。

 彼女の性質に関係あることで、ふたつ、印象に残っている会話がある。
 ひとつは、彼女が見たテレビの中に、元漁師のおじいちゃんと、その奥さん。老夫婦が出てきて、レポーターがおばあちゃんに向かって、「おじいちゃんは男前だから、若い時は、いろんな港に現地妻が居たんじゃないですか?」そんな風なことを聞いたそうだ。
 その時におばあちゃんは、揚々と「当たり前よ、あんた。――いい男だもん。そんなの当然じゃない」と笑い飛ばしたらしい。
 それを見て彼女は、そのおばあちゃんに憧れたという。旦那に浮気された時に、泣いたり、取り乱したりする女になるよりも、おばあちゃんのように「いい男だもん」と言える、どっしりした女になりたいと言っていた。
 彼女の、わずかな声の昂揚、何よりも目を見て、それは本心ではないとボクは思った。旦那に、彼氏に、浮気なんかして欲しくない。それが彼女の本当の気持ちだ――第一、浮気を容認するような女に憧れるのは男の仕事だ。「浮気をしたら、包丁で脇腹をぶっ刺してやる!」女はそれぐらい言えばいいのに。ボクはそう思った。
 もう、ひとつは、子どもの時から優等生だった彼女が、絵画コンクールで表彰されたときの話。彼女は特別、絵が好きだった訳でも、上手かったわけでもない。ただ、大人が好む、「子どもの描く絵」を理解していたそうだ。子どもらしい大きな構図、色使いを理解して、先生に評価されるように描いたらしい。
 ボクはその話を聞いて、すごく納得したところがある。彼女は、今でもその頃のまんま。学年一の優等生。大人のお気に入りなのだ。

 彼女のことを知るほどに、見るほどに、ボクは今まで知る由もなかった、優等生の大変さを知るようになった。職場の人、そこで知り合うお客さん、親、兄弟、友達、先輩、後輩、彼氏。みんなにとっての理想というものがある。その理想であろうとすれば、どんどん、どんどん、自分という身勝手な存在のいる枠が狭まってきて、窮屈になる。そして、優等生であるが故に、自らその枠をさらに狭める。
 これじゃあ、自分じゃない。やはり彼女はアンドロイドだ。
 
 ボクは中学生の時の写生大会で、学校の屋上から風景画を描いた。転校生だったボクは、他の子の使う水彩絵の具じゃなくて、前の学校で指定だったポスターカラーを使っていた。
 目の悪かったボクは、大体の雰囲気で眼下の民家と山を描いて、絵の具を混ぜて微妙な色合いを作るなんていう面倒くさいことはせずに色を塗った。民家の屋根は大体、灰色か小豆だったので、灰色は青、小豆は赤で塗って、ところどころサービス精神で、黄色と緑を混ぜた。
 完成した絵の出来栄えは素晴らしくて、何の面白みもない目の前の風景が、まるで、おとぎの国のように色鮮やかだった。
 他の誰よりも早く、完成させた絵を、監視役の先生の所へ持っていくと、到底ボクよりも絵心があるとは思えない、体育の教師は、白色の部分――雲や民家の壁なんか――を指して、「ここは、色を塗ったか」と聞いた。「塗ってない」と答えると、「それじゃダメだ。白い部分は白色の絵の具を塗らないといけない」と言い、ボクにやり直しを指示した。
 素直にボクが、白色の部分に絵の具を落とすと、あの画用紙独特のボコボコした質感が目立たなくなったので、ボクはすぐに色を塗るのをやめた。ただの白よりも、ボコボコした白のほうが好きだと気づいたからだ。
 そのまんま、白を塗りつぶすことなく、ボクは時間が来るまで、ぼんやりと過ごした。
 思うに、あのボコボコがあるからこそ、あの絵はボクの作品だ。もし、あのボコボコを塗りつぶしていたら、ボクは心のどこかで、あれを自分の作品だとは、認めないだろう。
 彼女は、ボクよりも人に評価される絵を描けるだろうが、果たしてそこに、彼女にとってのボコボコは在るのだろうか? もし、それが無かったとしたら、仮に、彼女の名前を鈴木涼子として、どんなにいい絵を描いても、それは鈴木涼子の作品ではない。どこかの優等生が描いた、良い作品にしか過ぎない。
 ボクはそんなことを思い、勝手に彼女のことを心配した。ときに彼女の行動や、考え方に口を挟んだりもした。やがて、そんなこと関係なしに、ドンドン、ドンドン狭まって、身動き取れなくなっているように見える、彼女のことを見て、バカだと思うようになった。

 一度だけ、彼女とボクは、意見の違いで衝突したことがある。そのときは、もうそれなりに長い付き合いだったが、彼女は相手の思いを汲み取るサイボーグ、ボクはお調子者の八方美人だ(野球のことなんて、一切興味ないが、熱狂的な阪神ファンと、タイガースの魅力について2時間語り、最終的には一緒に『六甲おろし』を歌うぐらいの)そう簡単に衝突なんてするはず無い。
 ボクには、どうしても納得出来ないことを言う彼女に、「理解出来ないけど、君がそう思うのなら、そうすればいい」と投げやりに言うと、彼女は自分の考えを返してきた。それも、珍しく熱っぽく。意外だったし、ボクからしてみれば、「そう思うのなら、そうすればいい」という言葉で、結論は出ている。これ以上その事について、なにか話す必要があるとは驚きだった。
「ココがヘンだよ日本人」に出てた、外国人連中からしてみたら、あいさつ程度の会話だと思うが、日頃温厚なボクらからしてみれば、ケンカと言っていいやり取りだったと思う。どうしたって分かり合えない、唯一結論が出るとしたら「勝手にすればいい」という所にしかたどり着かない意見の違いをやり取りした後、ボクは再び「理解出来ないけど、君がそう思うのなら、そうすればいい」と言った後、今度は「バカだなぁ、と思うけど」と付け足した……それでも、出来るだけトゲが立たないように、「バカだな」の後に、小さい「ぁ」をシッカリ入れた。「私は逆に、あなたの考え方を、バカだなぁ、と思うけど」彼女もシッカリと、小さい「ぁ」を入れて、そう返した。

 それから、しばらくの間、ボクはふて腐れていた。「バカだなぁ」と言われたことに対してではない。彼女が、物事の優先順位をつけられないことに対してだ。
 彼女には、なりたいものがある。それは、ボクが『小説家』になるよりは、うんと現実的なことだと思うが、それでも、誰もがそう簡単になれるものではない。
 ボクは、何かをするためには、何かを犠牲にしなければいけないと考える。夢を叶えるとか、そんな大げさなものじゃなくても、誰かと楽しく過ごすにはとか、メシを食うためには、自分のためには、親のためには、とにかく日頃から、何かを取って、何かを捨てる選択の連続だ。彼女はそれが、ちゃんと出来ていない。それが出来なければ、なろうと思うものになんてなれない。それどころか、自分自身ですらいられない。そう思った。
 それと、数ヶ月前から気づいていた、彼女の優先順位の中で、ボクの存在が、目に見える速さで、下がって行っていることが、無視できなくなったからだ。その理由を、ボクは自分自身のせいだなんて考えもしなかった。彼女の周りにいるバカのせい。お人好しすぎる彼女のせい。そう思った。

 そんなことを考えて、勝手に腹を立てるのは、決まってひとりで居るときだ。ボクは元来、ノーテンキな性格だし、彼女は平和な、人をのんびりさせる顔をしている。
 優先順位をつけられないせいで、無駄に忙しい彼女と、久しぶりに会った夜に、ボクは昨日までの、胸にあったモヤモヤは何処へやら、「今日はどんな、楽しいことをして過ごそうかな」ヘラヘラと、そんなことを考えていた。
 その矢先、突然泣き出した彼女は、血を吐くよりも苦しそうに言った。
「……実はね……あなたの他にも、好きな人が居るのよ……」
 その一言だけで、ボクはすべてを理解した。
 そして、意外にも冷静に、“なんだ、このやろう。ちゃんと優先順位つけれてたんじゃねえか” そんな、ことを思っいながら、ずっと前に、「おにぎりを買ってきて欲しい」と言われた時にも似た、おかしな安心感のようなものを覚えた。

 この、文章を書きながら、彼女は『バカ』に見えるけど、本当はボクなんかよりも、よっぽど頭がいいことを思い出した。
 エッセイのタイトルの意味に、サンチョ・パンサのように間抜けな男が書いているから、というのも付け足しておこう。

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