ドンキホーテ_サンチョパンサ

右腕の時計

 ちょっとしたキッカケで、ひょんなことを思い出すことがある。集中力が散漫な時など特に。
 先日、叔父さんに手紙を書こうと思い立ったが、ボクの部屋には机がないので、わざわざカフェまで行った。机が無いというのは半分言い訳で、小説家志望というクセに、筆不精なので、カフェに行くなり何なりして、やらなければいけない状況を作らなければきっと途中で投げ出すと思ったのだ。
 深夜働いているボクは、仕事前によく、このカフェに立ち寄って、いつもは窓側の席で、表通りを眺めながらボンヤリと時間を過ごした。
 この日は、いつもと違う席に座った。そちらのほうが椅子が柔らかくて、落ち着きそうだし、窓際の席なんかに座れば、結局いつもの通り、ボンヤリと過ごしてしまいそうな気がしたのだ。
 コーヒーをテーブルの隅っこに追いやって、手前に出来たスペースに便箋を広げる。文房具が好きなボクは、あまり使う機会もないのに、何種類か便箋と封筒を持っていたが、その中からとびっきり特長の無いやつを選んで持ってきた。叔父さん相手にシャレたデザインのものを使うのもオカシな気がしたし、宛先が刑務所なので、なんとなくだが、シンプルな物の方が相応しいように思えた。
 紙にペンを走らす前に、邪魔なので右腕にはめた腕時計を外し、左に付け替えた。いつの頃からか、ボクは右利きなのに、腕時計を右腕にはめる。
 ふと、(なんでだろう?)と思い、理由を考えてみたが、自分が右腕に時計をはめるようになったキッカケが思い出せない。
(左利きに憧れてという分けでもないだろう……)そう考えたときに、昔、時計を右腕にはめているせいで、「左利きですか?」と聞かれたことを思い出した。
 どこだったか、相手が誰だったか、少しばかり考えたあと、色んなことを徐々に思い出した。
 相手は男が1人に女が2人の3人連れで、当時ハタチかそこらだったボクよりは、みんな年上だった。名前は思えだせない。もしかしたら名前なんて聞かなかったかもしれない。場所は居酒屋――チェーン店ではなく、個人経営で――なんでそんな場所に居たのか……。(あぁ、なるほどな! 山ちゃんのところだ!)
 そんな具合に、少しずつ思い出していくうちに、居酒屋へ行った理由や、なんとはなくだが従業員の顔や店のつくりは思い出せて行くが、結局、腕時計を右腕にはめるようになった理由は思い出せなかった。
(山ちゃん。そんな男が居たなぁ)と、少し懐かしく思った。
 彼は、ボクより20以上も年上で、知り合った頃には、すでに中年だった。当時ボクの母親が付き合っていた男の、古くからの友人であり仕事仲間だった。
 人が良さそうというのとは、ちょっと違う、おとなしくて気が弱そうな顔をしていて、実際に、まあそんな性格だった。
 彼は長いこと建築技師だかなんだか、そういった仕事をしていて自分で個人事務所を持っていたが、経営が上手く行かなくなり事務所を潰し、知り合いのつてで、現場で働くようになった。元々、肉体労働が出来そうなタイプには見えなかったし、ボクが聞いたことのある評判では、現場で弱音ばかり吐いて、お世辞にも使い物になるとはいえなかったそうだ。
 その後、長年飲食の仕事をしていた経験のある知人に誘われて、前記した居酒屋の共同経営を始めた。オープンの日に、一度だけボクはこの店に行き、そこで隣り合わせた席に居た3人組と会話を交わすうちに、利き腕の話になったのだ。
 小さな店なので、居酒屋の共同経営者といっても、山ちゃんはオーナーとして経営や金勘定のことにだけ頭を使っていればいい分けではなく、ウェイターとして、せっせと働いていた。もう一人の経営者が、調理の担当だった。
 しかし、元々仕事をバリバリ頑張るというタイプではなく、おまけにまったくの未経験で、いい年をして飲食の仕事を始めた彼は、これもすぐに音を上げだしたらしい。
 飲食業の大変さは、ボクも知っているし、山ちゃんに関しては、もう一人の経営者にいいように利用された。話を聞く限りそんな印象を受けた。
 細々とだが、なんとかやっていた事務所が潰れ、向かない肉体労働をし、それに耐えれずに、上手いこと口車に乗せられて、なれない仕事に手を出した。対等であるはずの共同経営者だが相手との間に主従関係が出来ていた。それは、その仕事に対しての経験だけでなく、山ちゃんの性格、相手の性格も大いに関係しているように思われた。
(バカなヤツめ! 自ら金まで出して逃げ道を塞いで、こき使われる立場になるなんて!)彼は、じっと耐えるべき時に、下手に動いた。それも自分の守備範囲の外に。そんな風に冷たくも思うが、少なからず、ボクは彼に対して親近感を持っていた。それは、仕事というものに対しての、意気地のなさ、それよりも、出来るだけ趣味の時間を作って本を読んだり、音楽を聴いたりという事に人生の充実を満たすタイプという共通したところから来るように思う。
 しかし、気楽なボクと違い、彼には家庭があった。――なんどか会ったことが在るが、彼女には感情というものが有るのかな? と心配になるほど、異常に大人しくて、無口な奥さん。その奥さんに良く似た、小学校2、3年生ぐらいの長男。顔も、くしゃくしゃのクセ毛も、いつもヘラヘラと笑っている表情も山ちゃんそっくりな、ようやく歩けるようになった次男。
 同じようなタイプでも、ボクはまだ若く、責任を持たなければいけない物なんて何もなかった。彼は、もう若くなく、なんとか家庭を維持しなくてはいけなかった。もしかしたら、彼はボクのことが羨ましかったんじゃないかな。そんなことを思う。
 彼はボクのようにフラフラとしている分けにはいかなかった。
 
 家で山ちゃんと、ボクの母親と、母の彼氏。3人で酒を飲んでいたことがある。酒を飲むと、いつものことだったが、その内に、母と彼氏が口論を始める。面倒くさくなった山ちゃんは、「避難させてくれ」とボクの部屋へ入ってきたことがある。
 山ちゃんは程よく酔っ払っていた。
 彼は部屋にあったアコースティックギターを見つけると、「昔、フォークをやっていた」といい、ギターをいじりだした。
 夜中だったので、音を心配したが、そんな心配必要なく、彼はまともな音を鳴らせなかった。
「ダメだ。むかしは弾けたのに……。10年も20年も弾いてないから、指が動かないや……」
 そんなことを言っていた。別に寂しそうではなかったが、なんだか恥ずかしそうだった。
「お邪魔したね」そう言って、立ち上がった山ちゃんのズボンに、米粒が沢山こびり付いているのにボクは気づいた。
 どうでもいい事だが、そんなことを覚えている。
 
 知り合いというよりも、知り合いのしりあい。ボクは山ちゃんのことをここに書いた以上にはなにも知らない。書いていることだって、わずかばかりの交流で勝手に感じたことと、周りの人から聞いた話がほとんどだ。
 彼が死んでから、もう何年も彼のことを思い出さなかった。死因も思い出せない。もしかしたら、ボクは、時計を右腕にはめてなかったら、2度と彼のことを思い出さなかったかもしれない。
 残された、彼の奥さんと、小さな息子たちは、今どうしてるのだろうかと気になった。

 ちょっとしたキッカケで、ひょんなことを思い出す。ボクは時計を眺めながら、右腕に巻くようになった理由は結局、思い出せなかったが、それよりも大切なことを思い出した気になった。理由はわからねども、彼のことを思い出しただけで、右腕に巻いていた意味はあったなと思う。

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