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「パパ…いなかった…」 幼い娘の、しぼりだすような声が胸をえぐった。

■11
 一ヶ月後、私は準備万端ととのえて、娘の通う小学校を訪れた。
 下校時刻になり、黄色い帽子をかぶった子供たちがぞろぞろと出てくる。
四月。娘は今月から二年生になっているから、帽子をかぶっていない子たちを注視しなければならない。
私は門塀越しに娘の姿を探した。見当たらない。黄色い帽子にまじって、身体の大きな二、三年生も出てきた。しかし娘だけが出てこない。
 児童の姿がまばらになってきたころ、私は我慢しきれずに下校する児童に話しかけた。
「Rちゃんは、今日はお休みかな」
「ううん、まだいるよ」
 どうやら居残りで勉強をさせられているらしい。
 三十分ほどすると、三人の児童が下駄箱に近づいてくるのが見えた。二年生の下駄箱の位置に向かっている。娘かもしれない。私は昇降口へ向かった。
 先月もそうだったが、怪しまれないようスーツにネクタイという服装だ。髪は短く刈り込み、無精髭も剃った。
 昇降口が近づく。走り出しそうになるのをこらえ、歩いて行く。見えた。子供たちの顔が見えた。いちばん奥にいるのが、そうだ。あれが私の娘だ。
 三和土で足を止めて娘の名前を呼んだ。
「だれ?」
 手前にいた二人の女児は首をかしげ、いぶかる。娘は時間が止まったように動かない。私たちは見つめあったままだ。
「パパ?」
 ああ、娘の声だ。私のことを覚えていてくれた。
「そうだよ、おいで」
 私が両手をひろげると、娘は走って胸に飛び込んできた。胸に顔をうずめて、じっと私を抱きしめている。
お友達が「Rちゃんのパパ?」と聞くと「そう! 私のパパだよ!」と嬉しそうに友達に言った。パパがいないことで、ずいぶん肩身の狭い思いをしたのだろう。
「パパ、ずっとお仕事でいなかったんだよ!」
 娘が言うと、お友達の一人が「うちもパパ、いないんだよ」。事情はわからないが、娘と同じ思いをしている子がほかにもいることに胸がつまった。
 その子は、「私、学童に行って、Rちゃんはお勉強で遅れるって言っておくね!」と言いながら走っていった。
子供ごころに「お父さんが来た」と大人に言ってはいけないと理解している。ずっといなかった父親が学校に来るのはただ事ではないけど、Rちゃんは嬉しそうだと瞬時に察したのだ。日頃から自分のお父さんが来たときのことを考えたりしていたのかもしれない。頭のいい子だと感心しつつ、この気遣いができるようになった背景を想像すると胸が痛んだ。
私はもう一度、娘を強く抱きしめた。娘も会えなかった時間を取り戻すように、私にしがみついてくる。
 つかの間、私と娘は昇降口に腰かけて話をした。お土産に持ってきた本を嬉しそうにめくりながら、娘は「パパ、どこに行ってたの?」と聞いてくる。
「パパはお仕事に行ってたよ。ごめんね、長いこと会えなくて」と言うと「ううん、また会えたから大丈夫。また一緒に住もうよ」と言う。私は曖昧に相槌を打つしかなかった。
 しばらく座って本を眺めながら嬉しそうに話をしていた娘の肩がふるえだした。私は娘の身体を抱き寄せた。
「……パパ……、いなかった…………」
 しぼりだすような声が、私の胸をえぐった。
小さな身体に背負いきれない思いをかかえて、どれだけ不安だったのだろう。娘の頬をつたう涙をぬぐう私の手も、震えていた。
 私がいないことを、元妻からはどう説明されていたのか聞いてみた。
「ママはね、『だいじょうぶ、だいじょうぶ』って。それしかいわないの。だから、わたし、じぶんでかんがえてたの」
 断絶期間中、娘から届いた手紙に「ぱぱ いじめちゃってごめんなさい」と書かれたものがあった。この子は、父親がある日いなくなったことを、自分のせいだと思い続けてきたのだ。
 娘が私をいじめるなんてことはありえない。この子が私の生きがいだ。それだけを伝えたくて、私はここまで来たのだ。
「お父さんもずっと、一人でRの名前を呼んでたんだよ。会いたいなと思って」
「ほんとうに? ねるときも?」
 布団の中で父親に会えない寂しさ、心細さに耐える娘の姿が思い浮かんだ。それはこの二年半、私自身が味わいつづけてきた想いでもある。
長い冬を耐えた堅いつぼみが、少しずつやわらいでいく。うれしさと脱力感、いのちの目覚めと不安が混同した、複雑な感情が身体が被われていく。

 娘と話したいことは、いくらでもあった。しかし私たちには感傷に浸る時間はない。遅くなれば、学童の先生に心配もかける。いつ教職員に難詰されるかわからない。その前に私にはやるべきことがあった。
 まず娘のクラスへ向かい、教室と机の位置、時間割、学校行事などを確認した。娘は好きな科目や苦手な科目の話などをしながら私を案内する。仲の良いお友達のことも聞いた。学校に来てからやることは、予定通りあらかた終えた。

さて、最後の大仕事だ。私は娘とともに校長室へと向かった。

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