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つまり、そういうことだ⑫

もう一度、フラクタル構造のスケールを下げて、視点を「人間がバーチャルでやるゲーム」に戻してみよう。
ゲームをやるとき、上手くいくことだけを楽しんでいるだろうか。
モンスターにギリギリで負ける。時間が足りなくてやり直しになる。お金が足りなくて強い武器が買えないので頑張って稼ぐ。
こういう「思い通りにならない経験」が、快楽を増すスパイスとして機能しているのは実感として分かるはずだ。
クリスマス当日よりもイブのほうが、優勝よりも決勝の終盤のほうが、合コンした後よりも顔合わせする寸前のほうが、エキサイティングだろう。
おまえは、結果そのものよりもプロセスを味わいたいのだ。

これを存在の遊戯に置き換えれば、不遇も順境も「ゲームを盛り上げる要素」に過ぎないことが見えてくる。
ゲームは、いつか終わる。泣いても笑っても最後は、みな等しくエンディングを迎えるのだ。
ゲームを終えた後、おまえはいつもの生活に戻る。
同じように、おまえを終えた後、存在は存在の世界に戻るだけだ。
五次元とか涅槃とか量子世界と表現されているものが、それに当たると考えていい。

こんなふうに言うと、「虚しい」と感じるか、「面白い」と感じるか、それ以外だろう。
そのどれだとしても、アバターに入って存在の遊戯をしている以上、「いままさに、歓喜のある日々を送っている」と覚悟するのが良い。

歓喜とは「この世界で感じられるすべてのことだ」と言った。
その中でも、もっとも尊い歓喜がある。
いわば旅の目的とする「大歓喜」だ。
それについて、語ろう。

おまえは存在が歓喜を目的に遊戯するためのアバターだ。
喜びを感じる器官、歓喜を体験するためのモニターだ。
最もおまえが歓喜を体験する方法がある。
それは、おまえ以外の人の歓喜を喚び起こすことだ。

前述したように、存在の遊戯における歓喜とは、単なる「喜び」の体験だけではない。ツラい、苦しい、痛い、切ない・・・・・・あらゆる体験を面白がるために存在は、おまえというアバターに入っている。
おまえがゲームをするとき、主人公に降りかかる災難や試練は、おまえがゲームを楽しむために欠かせない要素であるように、アバターにとってキツい状況も展開も、存在にとっては、歓喜(面白きこと)なのだ。

なんの試練も目標もないゲームは、ゲームとして成立しない。
だから人生には「思い通りにならないこと」がちゃんと用意されている。
それらは、存在としてのおまえが、「こんな遊戯がしたい」と、望んで設定したものだ。

(つづく)

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