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酔いどれ狂人の夜明け/岸暮葉


一つのまとまりを持った話を作ろうとする時、私は物語の中の出来事の因果関係を事務的に考えるがために登場人物に端的に仕事をあたえ、人物像を限定してしまうことが多い。
ある一つの思想を描くために登場人物を糸で動かし、ある一つの結果へ向かっていくために誘導してしまうような時には、その結果への道順として物語の論理が正しく成立しているかという事だけに私の心事は囚われがちになる。そういう時、書いているうちに心は離れている。
しかし多分それはあべこべで、心が乗らぬために私は論理を追いかけるのである。(私は自分の書けないものを書きたがっていた。何を書けばいいかという事を分かっていなかったのだ。)そういったやり方で追いかけ捕まえられるものは、最低限の論理である。
物語の論理は、誰が見てもわかる1+2は3のような目に見える数学的な論理で明示されるほど、かえって"文学"の論理としては機能を失ってしまう。今回の作は、多分にその種の書き方をしてしまったものである。私は反省した。
人間という自然を描くならば、奇怪でしかるべきであって、小説の中においても、その奇怪なものの中に論理はしらずしらず自ずから息をするべきものであろう。文学は人間性を描いても規定したり証明したりするべきではない。作者が自らが信じようとするものの証を自作の中に求めようとするのは哲学的態度であり道徳の追求であるが、そうすると文学は単なる自己主張の狭い部屋に閉じ込められてしまうばかりだ。書いている自分もまた同様に閉じ込められてしまう。(この文章がその類例である!)表現行為はもっと楽しく解放的であるべきで、表現の後に自分の内的な何かが救われていることを感ずればこそ表現というものなのではないか。素直になれば、苦しみながら証を求めなくとも済むのだ。
しっかりした論理的な頭がなければしっかりした小説は作られないが、それ以上にしっかりと文章や言葉、情景や人間を心的に感じ取る霊感がなければ、良いものは書けないし、新たな論理が闇の中で生命を発する事もない。
表現をする事とはどういうことであるか、私は今いちど自分に問いたださなければならない。
作者の心事は(それがどんな事であっても)知らずのうちその作の上に見られるということもまた、我々自身にとっての文を書く価値であるかも知れない。そして良い作を書こうと模索することは、作者の生活や人生それ自体と互いに相応ずるところがあると思うのである。
私の作った作は啓蒙主義的な自分の性質を自らの口より十分に語ったのだ。私はおそらく喜ばずにする表現を何か高尚なものだと思っていたが、その高尚たることの条件は実はただ自分から離れているということだったかも知れない。悲しいではないか。
作者が楽しんで作らないものに、作者にとって何の価値があるというのか。楽しまずに書いた、というのが今回の物を振り返った第一の感想であった。
それでも風上という主人公が彼の遺書において語ったいくつかの節は心が篭っており、気に入っているところもある。
それはともあれ私は初めから彼は死ぬものと決めていた。というのは死ぬという行動が彼の苦しみと狂気を確実にすると計ったのもあるが、それよりも私は自死を選択した者が人世を憎みながら死ぬのではなくむしろ彼なりの理性で幸福に死ぬ善意的な力を描きたかった。
しかし私は風上の遺書を書いているうちに彼の力が確実に生きることへ向かっていることを感じていた。それが幸福に死ぬ力であるかどうかということの撞着に悩んで、結局最初の計画通りに死なせたことは完全にあやまりとは思わないが、私の気持は書いた後晴れなかった。

                               岸幕葉



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