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エジプト考古学博物館前で何が起きたか


1952年1月26日、カイロの火(ブラックサタデー)の日-

スイス系エジプト人の父とナポリ人の母を持つ25歳のクロードは、カイロのシェファードホテルでレジデントマネージャーをしていた。

シェファードホテルはナイル川に面した、タハリール広場のすぐそばに位置している。


その日の朝、クロードはもうすっかり顔なじみの、ホテルの長期滞在宿泊客のブランシュ・ワインバーグ夫人と言葉を交わした。

「今日はマーディー(地区)に住む義妹の所に訪れる予定ですのよ」。

クロードはニッコリ微笑んだ。

「Have a good day, Madam!」


その20分後、クロードに友人でもある文部大臣のイブラヒーム・ヤヒヤ氏から電話がかかってきた。

「市内で反英暴動が発生しているんだ。シェファードホテルが標的にされる可能性がある」。

クロードはヤヒヤ氏に忠告の知らせをありがとう、感謝すると礼を述べ電話を切った。

すぐにこのことを伝えねば、とクロードは上司を探すがどこにも見つからない。

仕方ないので、彼は自分自身で各部屋をノックして回り、そしてロビーやレストラン、カフェなどでも寛いでいる全ての宿泊客に

「ホテルの裏庭に大至急避難してください」

と指示した。時間は11時過ぎだった。


正午までには表の大通りは暴動の民衆で膨れ上がり、方々から黒い煙が見えてきた。

シェファードホテルの入口には、ヌビア人のスタッフが配置されていたが、押し寄せた暴動にぼこぼこにされた。

暴動は発砲しまくりながら、建物中のあちこちからホテルの敷地内に侵入してきた。

裏庭に避難している250人の外国人宿泊客らは恐怖で怯えきっていた。

クロードは何人かの従業員と共に協力し合い、宿泊客の外国人たち全員をホテルから脱出させ、安全な外の場所へ逃した。


火を放たれ襲われたシェファードホテルは完全に廃墟になった。


全てが収まった後、クロードはホテルに戻った。するとそこには三体の遺体が発見された。

二体は地下の金庫を狙った泥棒たちで、もう一体はワインバーグ夫人だった。

夫人はマーディーの義妹に会いに行くと言っていたので、クロードは彼女の部屋の扉をノックして避難を呼びかけていなかった。

しかし夫人は実は予定を急遽変えて、部屋で寛いでいたのだった...

(↑参照: http://grandhotelsegypt.com/ )

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タハリール広場

この一帯はもともと古代エジプト人の時代、単なる砂漠地帯だった。

ファティーマ朝のアラブ人たちが首都をこのカイロに定めてから、彼らがナイル川の水路を変え、洪水の季節になると水に覆われた湿地帯になるようにした。

18世紀の終わりごろ、カイロにやって来たナポレオンは、(現タハリール広場の)一帯をフランス軍のキャンプにした。


ナイル川の流れを制御させ土手を安定させたのは、"エジプト近代化の父"と呼ばれるムハンマド・アリの時代になってからだった。タハリール広場は緑の野原として生まれ変わった。


ムハンマド・アリの孫にあたる、スエズ運河開通式を開催したイスマイール副王(19世紀)はこの500エーカーのオープンスペースに、耕作地、庭園、多くの王室の宮殿などを作り上げた。

「ナイル川のパリ (Paris along the  Nile)」をコンセプトに新しいダウンタウン地区の設計を計画したのだ。

だからもともとは「イスマイリア(=イスマイールの)広場」(ميدانالأسماعيليّة Mīdānal-Ismā'īliyyah )と呼ばれた。

しかしイスマイール副王はエジプトの借金を巨額に膨れ上がらせてしまい、フランスとイギリスによってエジプトを追放された。

その後、イスマイール広場の西側にはイギリス兵舎が作られ、イギリス兵が駐屯した。(→のちにナイルヒルトンホテル→リッツカールトンホテルに変わる)

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1946年2月11日、警察が反イギリスデモの20人のエジプト人を殺害する、という事件がこの広場で起きた。

この頃にはイスマイール広場はすでにタハリール(解放)広場と呼ばれるようになっていた。なぜならしばしば、この広場ではそのようなデモやストライキ活動が行われるようになっていたからだ。

1952年1月25日の"カイロの火"(ブラックサタデー)では広場周辺の建物は燃やされ破壊された。


正式にタハリール(解放)広場に改名されたのは、ナセルら自由将校団の軍による無血クーデターが起きた、1952年の7月23日エジプト革命の時だった。

イギリスを完全に追い出し、エジプトが立憲君主制から共和国に変わったことを記念し、ナセルがイスマイール広場をタハリール広場に改名するという政令を出したのだった。


このように、なかなかドラマチックな歴史を持つ広場なのだが、しかしもしイスマイール副王がその後の"カオスな"タハリール広場を見たら、ギョッとしショックでひっくり返っただろう。

「ナイル川のパリ (Paris along the  Nile)」

のはずだったのが、完全に

「ナイル川のカオス (Fu○king mess along the Nile)」になっているので!

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↑モガンマ

さてタハリール広場といえば、エジプトに住む外国人なら誰しもが足を運ぶ、1950年に建てられた政府中央ビルの『モガンマ』がある。

完全にソ連の社会主義建築スタイルとしか見えないのだが、全省庁がここに情報源を持ち、全業績機関がここに代表を送る官僚機構の中枢だ。

このモガンマの中に、エジプト在住外国人のビザ手続き窓口も入っていた。

だから私もビザ延長手続きのたびに、この建物には足を運んだ。


しかし、毎回モガンマにはドキドキした。だって窓口は怖いエジプト人のオバチャンたちが居座っているのだ。

何が怖いかっていうと、とにかく話し方、口のききかた、踏ん反り返った態度、迫力満点の顔と強そうな体型...全てが怖い!

でも横柄オーラを出しているくせに、仕事はしない。仲間内でべらべら井戸端会議ばかり。

痩せた男がかいがいしく煎れる紅茶をずっと飲みながら(←エジプトではお茶くみは男の仕事)、股をガバッと開きガハハ大声で笑いながら、えんえんとべらべらゴシップや悪口話ばかり。

自分の窓口に行列が出来ていても気にしない。

しかも午後2時で閉まっちゃうし...さっとすぐに窓口を閉める、これだけは素早い。

もちろん、全く働いていないわけではなかったが、要領が悪い。もたもたのろのろ、途中すぐに誰かとお喋りをしだし、仕事の手が止まる。本当にいらいらする。


初めてビザ延長の書類を提出した時、まだ"コツ"を掴んでいなかった私は深く考えず、『宗教』の欄を空白で提出してしまった。

すると窓口のオバチャンが舌打ちをしてきた。

「はん? 宗教がない!? アッラー、ムシュモムケン(=ありえない) !、ハラーム、ヤー、ハラーム!」。

ハラームとはイスラム教における『禁止事項』を指す。


「父親は仏教、母親はキリスト教なんですが私自身は別に..」

「はあ!? じゃああんたは仏教徒だろうに、ったくなんてマフィーシュモッホなんだろうかね!」

「えっ...」

ぽかーん、耳を疑った。マフィーシュモッホというのは、"脳みそがないね"の意味だ。

役所の窓口で、外国人が役人に「お前、脳みそがないな」と言われるなんて、前代未聞じゃないか!?


「あんたは脳みそがないから、特別に教えてあげるけどね、父親が仏教ならね、子供も父親の宗教と同じに決まっているじゃないか! 

そんなことも知らないなんて、アッラー(=オーマイゴッド) 呆れるこっただね、アッラーアッラー!」

オバチャンは大袈裟にため息をつくと、グラスのコップの紅茶をズズッとゴックリ飲んだ。

「...」

ちらっと振り返ると、後ろに並んでいたエチオピアのパスポートを持ったオッサンが私を同情的な眼差しで見つめていた。


さらにだ。

名前の欄の、ミドルネームも空白だった。

「ちょっと、あんた! ここも抜けているよ! 何ボヤボヤしてんのかいっ」

オバチャンは私の提出書類をぶっ太い指でどんどん叩いた。

「いえ、そのあの、ミドルネームはないんです..」

「えっ、ええっ!? このホマール(=ロバ)、ないわけないでしょっ!ちゃんと書きなさい!」

「...」

困ったな、本当にミドルネームなんてないしな。だから高校生の時のニックネームをそこに記入した。マッキー、と。

ババアはそれを見ると満足そうに鼻を鳴らした。

「マッキー...ふんっ、ちゃんと考えれば思い出せるでしょう!」。

「...」


その時、日本大使館の職員たちが現れた。日本人2名とエジプト人職員1名だった。

彼らは大行列に並ばず先頭に現れ、いきなり窓口に割り込んできて外交官パスポートを提示した。私の番もまだ終わっていないのに。

しかも私の日本のパスポートを見ても無視。横入りした詫びも言わない。今なら文句言いマスナ。


エジプト人職員が「サラームアレイコム。シファーラー・ヤバーン(日本大使館)から来た」。

すると、オバチャンは急にころっと態度を変えた。

「ウェルカムウェルカム!オッケーオッケー!」


ウェルカム? オッケー...?

愛想がやたらいい。そしてテキパキと対応しだした。覗くと、彼らの書類も宗教とミドルネームの欄が空白だ。

「オバチャン、また怒鳴るのかな」

しかしオバチャンは何も言わなかった。びっくりだ。私には「脳みそがない」「(馬鹿の意味の)ロバ」まで言い放ったくせに、何たる違いだろう!


ちなみに日本大使館に限らず、どこの大使館職員もどこの大手外国企業の人間も、モガンマの窓口では並ばないで優先されるというのは常識だった。

権力と肩書、そして"多め"のバクシーシ(賄賂)があれば、どこでもペコペコされ贔屓されるものだった。

これはムバラク大統領政権時代の悪い風潮だった、と今では言われるが、違うと思う。

絶対に何百年も昔からこういうやり方だったと思う。外国に長く植民地化されていた国の特徴じゃないだろうか。


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タハリール広場には、他には1960年に建てられたアラブ連盟本部、国民民主党本部 (旧アラブ社会主義連合本部→2011年のデモ中にデモで炎上。)、地理学協会、そしてアメリカン大学カイロ(通称アメ大)もあった。


アメ大は、中に入るたびに学生は学生証を門のところの守衛見せて、かばんもセキュリティに通す。部外者も身分証明書またはパスポート提示が求められ、手荷物はやはり必ずチェックされた。

ちなみにアメ大の場所にはもともとハイリ宮殿があり、その後紙巻きタバコ工場になって、そして大学になった。

なぜ街のど真ん中の広場にアメリカン大学が建てられることになったのか、その理由(謎)はまだ分かっていない。(←東京で言えば丸の内のど真ん中に大学があるようなもの。不思議だ...)

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↑とにかくアラブ中の金持ちのご子息お嬢様が集まっていました


そしてタハリール広場には、合言葉(「山」「川」のような)を言えば、こっそり新聞紙でくるんだお酒を売ってくれるキヨスクもあった。

また小さな旅行代理店とバザール(土産物店)もずらりと、ごちゃごちゃ軒を並べていた。

どこか海外旅行に行くときは、必ずタハリール広場にやって来た。端から端の旅行代理店の格安航空券料金一覧表を見て回り、最安値の店で割引航空券を購入した。


だけどどの代理店でも自分たちの所では、発券はできない。そのため、客から予約を取ったら、その客のパスポートと現金を預かり、スタッフがそれぞれの航空会社へ出向く。

この待っている間がいつもドキドキだった。如何せん自分のパスポートと数百ドルの現金を預けたのだ。

ちゃんと戻って来るのか...


しかしやっぱり待てど暮らせどなかなか戻らない。ちんたらちんたらしている上、途中茶店などに寄って道草を食う。

だから「ちゃんとパスポートを返してくれるかな、ちゃんと発券してくれているかな」とハラハラしながら、1時間、2時間狭い格安航空券オフィスで焦れ焦れしながらひたすら待ち続ける。

客が航空会社で直接格安航空券も買えるシステムを早く確立して欲しい、とああどれだけ願ったことか..


広場周辺にはアホワ (茶店)も密集していた。

ノーベル賞文学賞受賞のエジプト人作家ナギーブ・マフフーズもかつてタハリール広場のアホワでよくまったりしていたという。

ところがタハリール広場のアホワで寛いでいる時に、突然テロリストに襲撃されてからは一切姿を見せなくなっていた。


私がアグーザ地区に住んでいた時、マフフーズ氏は私のアパートの目と鼻の先に住んでおられた。

がやっぱり自宅アパートも襲撃されていた。なので絶対もう外出をすることもなかったので、ご近所だったのにも関わらず私は一回も氏をお見かけすることはなかった。

マフフーズ氏がたびたび命を狙われたのは、氏の小説にはイスラム教を侮辱するような描写が見られるからだ、と。

私も英語翻訳版でほとんど全てのマフフーズ氏の小説を読んだが、ウ~ン、どの辺りがそんなに問題だったのかさっぱり分からなかった...

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↑タハリール広場


さて、いろいろ書いたがでもやはりタハリール広場の最大の特色は、騒音とそこにいる"人間たち"に尽きる。

ドライバー全員が暴走族かいなと思うほど、クラクションを始終鳴らせ続けるので、やかましい。

タハリール広場の車の通る数は桁違いに多いので、この一帯は本当にプープーブーブーずっと音が"合唱"していて、頭痛はするわ耳障りだわ、神経に障るわ...。


広場には当時はコジキの子供も大勢おり(←今はどこかに連れて行かれているので、見ない)、外国人を見れば一斉に寄ってきて

「マダム、ムッシュ、バクシーシ、バクシーシ」

としつこくしつこくたかってくる。

実は親がどこかに隠れていて、子供たちにたかりをやらせているという話もきいたが、いくら親がいようがなんだろうが、みんな裸足で何年もお風呂に入っていないような汚さ臭さだ。


大人の男も頭がおかしい人間ばかりで、いきなりシャワー棒を持った見知らぬ男に

「ハーイ! 俺はイスタンブールから来たオペラシンガーなんだ 」と

唐突に自己紹介をされたり、はたまた

「ハビービ!先週も君をここで見た。二回も会うなんてこれは神の思し召しだ。結婚しよう」。


ちなみに『ハビービ』とはmy loveの意味。でもイギリスの『darling』と同じで、全然深い意味はなく、カジュアルな意味で『ハビービ、ハビービ』と誰もが声をかけてくる。

逆に"真剣"だと、気軽にハビービなど言ってこない。

とにかくハビービがどうってことのない意味だというのは分かっているのだけども、タハリール広場を歩いているとやたらに

「ハビービ、ハビービ」、うるさいことよ!


またタハリール広場で見かける男たちは、たいてい男同士腕を組んだり手を繋いで歩き、互いの頬にチュッチュしあって挨拶を交わしている。

だけど彼らはゲイじゃない。ゲイもいるかもしれないが、普通はそうではなくて、エジプトは男同士のスキンシップ文化があるのだ。(←だからコロナも大変...)


頭に大きな荷物を乗せて器用に歩くオバチャンたち、そしてロバも歩いていてたまにラクダも歩いて来ていた。

野良ロバ、野良ラクダではないが、それらの動物のフンが広場の方々に落ちている。するとハエもたかる。そこに甘い匂いのするジュース屋が来た日にはオエ...


さらにふとあっちを見れば、エンジンがかからなくて動かなくなった車を男たちが大勢で押しており、

そっちを見れば少年が新聞紙を売っていたり、靴磨きをしている。


あるときはいきなり物売りにビル・クリントンの人形とサダム・フセインの人形の押し売りを唐突にされた。しかも、

「買うならセットだ。クリントンとフセインはペアじゃなくてはいかんからな。なんせ二人はbest friendsだしな」とキッパリと言われた。

(あとやたらとサダムフセイングッズが売られていました。"I LOVE サダムフセイン"ステッカー、マグカップ、Tシャツ...ロンドンでやたらとダイアナグッズばかり売られていたのと同じ!)


痴漢とスリもたくさんいる。だけど1メートル間隔空けで配備されている警官たちはボケーとしているだけ。

でも女、特に肌を露出した格好の、バックパッカーの白人女性が通るものなら、警官全員が口をだらしなくだらーんと開けて、目をぱっちり見開きじいいいと凝視...


「ああ、ここがカイロの中心地...」。

繰り返すが、タハリール広場はかつてフランスかぶれだった、イスマイール副王が「ナイル川のパリ (Paris along the  Nile)」をコンセプト(←強調)で作った広場...


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1997年9月18日、時間は正午前後だったと思う。曜日は木曜日だった。イスラム教の国では金曜土曜日が休日だ。

だから週末前の木曜日は、いつも街中にはウキウキの晴れやかな雰囲気が明るく漂っていた。(そんなに普段働いてイナイノニネ)

もっと踏み込んで言えば、重要なのは『明日は金曜日、全ての役所や官庁もどこもかしこも休み』。


マーディー地区に住むエジプト航空の偉い人 (スカウト氏) のご自宅にお邪魔するのに、タハリール広場のサダト(元大統領)駅から地下鉄に乗ろう、と自宅からタクシーに乗った。

そしてあっという間に到着し、広場のエジプト考古学博物館の前に止めてもらった。(※ラムセス二世など偉大なるファラオのミイラたちが眠る博物館です)

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↑エジプト考古学博物館


普通は料金のことで揉めるのだが(ぼられるので)、この時は珍しく良心的なドライバーだった。

何も文句言われず、タクシーを降りることが出来た。

多分、ここでいつものように運転手とぐだぐだ揉めていたら、この直後に突っ込んできたバンにもしかしたら轢かれていたかもしれない。

そう、タクシーを離れて私が歩き進んだ時、その時だった。

方角でいうとモガンマの方から、一台のバンがどえらい勢いで博物館の方に突っ込んで来た。


交通整備の警官たちは何をしていたかというと、なんと...いなかった。

普通はタハリール広場には交通整備警官が何人も配置されているのに、この時はいなかったのだ。

もしかしたら数名はいたかもしれないが、いつものように大勢配置されていなかった。こんなことは今まで一回もなかった。


そしてほぼ同時に、博物館の隣(裏という方が正しいかもしれない)にあるムバラク大統領国民民主党(NDP)の本部の建物からも、別のバンが凄まじいスピードで飛び出してきた。

こちらは殺人鬼のような目つきをした軍服の男たちが乗っていた。

彼らのゾッと凍えるような冷たい眼差しは、外国人たちにのみ向けられていた。ああこれはテロリスト側だな、と私は本能的にすぐに分かった。


どちらかのバンからだっただろうか。火薬瓶を放り投げた。

どこに放り投げたのかといえば、博物館の門の前にいるドイツ人グループに向かってだった。(←彼らがドイツ人だったのはもちろん後で知りました)


博物館に訪れるツアーグループは博物館の中の敷地内ではなく、門の外の真ん前で観光バスの乗り降りをするものだった。

だからそのドイツ人グループも博物館を去るのにちょうど、迎えにきた観光バスに乗ろう、と博物館の門の前に立ち止まっていたところだった。


後はあれよこれよだった。

発砲もあった。ぱっと見た限り、警察官に支給されている東欧製のものと同じに見えた。

(↑一時、よく会っていたナイル川のテント暮らしをしていた警察官に、しょっちゅう拳銃を触らせてもらっていたのとシューティングクラブに通っていたので、私はそこそこ詳しかった)


一瞬で目の前の人間が死んだ。

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もうめちゃくちゃだった。

エジプト人バスドライバーとエジプト人ガイドも撃たれたのは分かった。

そしてその瞬間、タハリール広場は一気に豹変した。

賑やかで脳天気な雰囲気だったのに、突然全体の空気が物々しいものにガラッと変わったのだ。

天気で例えるなら、つい今まで春日和だったのが一瞬で竜巻になったかのようだった。


どういうことかというとタハリール広場の茶店で、のほほんとシーシャを吸いアホワを飲んでいた男たちがぬくっと立ち上がり、

旅行代理店の男たちも一斉にバッと外に飛び出し、

車に乗っていた男も路上で寝そべっていた男たちも全員が円陣を組むかのように鯨波の声を上げながら、

一斉に私もいる博物館の方に押し寄せてきたのだ。無数もの雄叫びは空中で響き渡っていた。

中には、ぐるぐる回りながら飛び跳ねたり、ウホウホ叫んで胸を叩き続ける男たちもいた。


もう完全に異様だ。

タハリール広場中、野生の血が騒いでいるような男たちが興奮し暴れ奇声を発し叫びまくっている。


私の衝撃は途方もなく大きかった。エジプト男はいつもへらへら笑ってとぼけてばかりいる。

でもそれらはあくまでも、ごく一部の側面に過ぎなかったのだ。この大衆のぎらついた目つき、制御不可能な暴れようを見よ...こんなに血の気の多い、野性的な荒々しい民族だったのか...


言葉を失い茫然としていると、拳銃を持つ男のひとりと私は目が合った。もう終わったと思った。本当にそう思った。

ところがその男は私に拳銃を向けなかった。すぐに私から視線をそらした。

後で気づいたのだが、私をマスレーヤ(エジプト人女性)に見間違えたのだと思う。

メトロに乗るので、痴漢と泥棒に気をつけようとヒガーブ(スカーフ)を被り、大きな黒いサングラスをかけて、エジプトで買った全身ストンとしたダサい野暮ったいワンピースを着ていた。

しかもすでにもうエジプトに何年も住んでいるので、自分で言うのもなんだが全身がどことなくマスレーヤぽくなっていた。

だけどもしTシャツ短パン姿の金髪の白人女性だったら、絶対に撃たれていたと思う。

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↑これは場所はベイルートですが、タハリール広場事件遭遇の時もこの服装に、そして長袖カーディガンとヒガーブ(スカーフ)姿でした。


そしてその時、

「サビーナ! 起きろ、しっかりしろ! 早く逃げろ!」

という声がした。ぱっと見るとドイツ語ガイドのヒシャームだった。

彼は博物館の門の中にいた。どうも博物館見学終えグループと出ようとした時に、この出来事が起きたようだった。

ヒシャームは私に向かってそう叫ぶと、自分のドイツ人グループらとぱっと博物館の建物の中に走っていった。博物館の扉は閉ざされた。

彼に怒鳴られて私はハッと我に返ったのだが、後でつくづく思った。よくぞ私の"アラビア語ニックネーム"を呼んでくれたものだ!


サビーナというのは、旅行会社のエジプト人同僚たちが勝手に私に付けたアラビア語の名前だった。(日本人はみんな、エジプトにたちにアラビア語の名前を付けられているものだった)

もし「ヤバニーヤ(日本人)!」だとか「○○!(日本語の本名)」 を呼ばれていたら、周りに私が外国人と一発でばれた。本当に気が利いている。

今までさんざんヒシャームには嫌がらせをうけ、とても嫌な思いを受けたがもうこれで全て帳消しだ。


とにかく彼に叫ばれて、はっと目が覚めたのはいいが、どこに逃げればいいのか..辺りはアドレナリンが出て興奮絶頂の男ばかりだったから。

何百人もの男たちが広場の周りに陣営を敷き、ウホホ叫びホオオーゴオオー声を張り上げ、ぐるぐる回ったり飛び跳ねたりしている。

怖い、本当に本当に怖い。

ああどうしようどうしよう。身を隠せる場所なんてどこにもない。ああどうしよう...


つづく


..

















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