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スエズ運河は流れる⑤ - 遠征と功成..地中海のコルシカ人とアルバニア人

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1833年

フランスから船で地中海を越え、アレキサンドリアへ向かうひとりの男がいた。名前はフェルディナン・ド・レセップス。

レセップスは1805年、フランス人の父親とスペイン人の母親の間に生まれた。のちのナポレオン三世の皇后、ユジェニーの(かなり年がはなれた)母方の従兄弟にあたる。


前々から、ナポレオン・ボナパルト(ナポレオン一世)はレセップスを、非常に優秀な青年だと目をかけていた。

だから、28歳のレセップスをエジプトのフランス総領事代理に抜擢した。


当時、ボナパルトはどんどん優秀な人材をエジプトに送り込んでいた。

レセップスもその駒の一人だったのだが、ボナパルトの思惑はこうだった:

エジプト遠征でイギリスに敗れたボナパルト。軍事力が駄目ならば、外交力で再びエジプトを治めよう-


ボナパルトにエジプト行きを命じられたレセップスは、長い船旅に飽き飽きしていた。

しかしようやく、アレキサンドリアの港が近づいてきた。ところがホッとしたのもつかの間で、船内でのコレラ発生が発覚。

海上での船内隔離を命じられ、アレキサンドリアの港に上陸できなくなってしまった。

やれやれ。本当に何もやることがない。暇だ。

レセップスは仕方なしに『エジプト誌』でも読むか、と荷物に入れていた書物を手に取った。


「ぬっ?」

ページをめくる手が止まった。

「ファラオの運河? スエズ運河? 地中海(ヨーロッパ)と紅海(アジア)を繋げる?」

船はまだ海の上で止まっていた。アレキサンドリアの港にはまだ上陸できない。

船は動かなくとも、レセップスのときめきは動めいた。

「スエズ運河! ファラオの運河! 」


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1769年、地中海の別々の所で、で二人の男が誕生した。

コルシカ島のナポレオン・ボナパルトと、マケドニアのアルバニア系のムハンマド・アリだった。(←マケドニアではなく、オスマンの田舎出身のアルバニア人など様々な説はある)

どちらも一代で成り上がり、のちにひとりはフランス皇帝に、もうひとりはエジプトに新たな王朝を築き上げ、エジプトのワーリー(総督)になる。


レセップスより33年前の1798年、地中海のアレキサンドリアの港に、29歳の青年将軍ボナポレオン・ナパルトが総司令官として、指揮を執ったフランス軍が上陸した。

当時、イギリスはアフリカ回りでインドに航海していた。その航路を断ちイギリスに打撃を与え、そしてあわばよくばフランスがインドを奪おうというという魂胆があった。

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このフランスのエジプト遠征軍には、175名の学術調査団も同行させていた。

調査団は、多種多様の分野における、えり抜きの第一人者のみで構成されていた。

天文学、幾何学、化学、物理学、建築、地理、造船、動物、植物、医学(薬学)、美術、音楽、文学、経済等など。

この中に建築家ルベールも含まれていた。


戦争の合間、ボナパルトはスエズの視察もし、古代運河の跡を確認した。

「やはりあったか。ナイル川と紅海を結ぶ運河があった! この運河が復活すれば、地中海と紅海が直結する!」


この運河の調査を任されたのが、37歳の建築家ルベールだった。

しかし、彼の出した結論は、

「紅海より地中海の方が9m高いので、この二つの海を繋げると、デルタ地帯が水没する」。

ボナパルトの落胆は大きかった。スエズ運河を建設すれば、イギリスにぐっと差をつけ、フランスがアジア(東)との交易に優位に立てるのに...


ところが実はこれは様々な事情で、測定の誤りだった。それが判明し、二つの海を運河で結ぶのは可能だ、と分かるのはもう少し後のことになるのだが、

なんにせよ、スエズに運河はある、という発見をルベールははっきりと記録した。

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↑なぜか若い時の姿は残されていないエジプト総督ムハンマド・アリ。ただし、どの絵画を見ても、決して身なりは派手ではない。


ムハンマド・アリの出目は怪しい。


子孫のHassan Hassan氏(←エジプトにはこういうふざけたフルネームが多い)の著書『In the house of Muhammad Ali』を読むと、

ムハンマド・アリはアレキサンダー大王と同じマケドニア出身で、そこの小さな港町、カバラCavallaで生まれたアルバニア系だったと書いてある。

でも、複数の歴史家たちはそれに懐疑的だ。アリが心酔していた、伝説のアレキサンダー大王(マケドニア出身)を単に真似ただけじゃないか、と首を傾げている。

いずれにせよ、トルコ語とアルバニア語を話すモスリムであるのは、間違いなかった。(アラビア語は後年に少しかじるが、結局習得していない)


アリは元々歴史も経済学も学んだことのない無学だったが、しかし頭が良く仕事が出来たのだろう。収税吏になる。

アリは時代の波に乗るのも上手く、運にも恵まれた男だった。

ナポレオン・ボナパルトのフランス軍がエジプト遠征を行った際、(エジプトはオスマン帝国の属州だったので) はオスマン帝国は慌てて反撃をした。

そこで、オスマンは大勢のアルバニア人とチェルケス人兵士を、エジプトに派遣する。

その中に、アルバニア人のムハンマド・アリもいた。

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(水位の高さ測定ミスにより) スエズ運河建設計画は失敗に終わったが、方々で様々な成果も上げ、ナポレオン・ボナパルトは首都カイロに入城する。

当初は全てうまくいっているように見えたが、邪魔者フランスを成敗するために、途中からイギリス海軍が出てくる。

フランス軍は完全敗北。

元々、ネルソンの率いる海軍には足元も及ばなかったと言われているが、フランス軍が負けた理由は他にもある。


軍隊はすでに疲労困憊しきっていたのだ。

飢餓や疫病のほうが多く、多数の兵士らがエジプト特有の眼病にかかって失明した。

この眼病はまるで影のようにどの軍隊にもつきまとったので、学名をオフタルミア・ミリタリス(軍隊眼炎)と命名された。(<ツェーラム/村田数之亮訳『神・墓・学者』1962 中央公論社 p.97>より)


フランス軍がさんざん引っ掻き回し、そして撤退した後のエジプトは、混乱に陥っていた。

このバタバタしている最中、要領良くうまく頭角を現してきたのが、前述のアルバニア人のムハンマド・アリだった。

(※日本語表記で"マホメット"と表記されることもありますが、それはトルコ語読みによるもので、アラビア語読みだとムハンマドになります)

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イギリス海軍に負ける前、ボナパルトのフランス軍は、トルコ軍を海へ蹴散らかしていた。(アブキールの戦い)

その時、ムハンマド・アリは逃亡兵の仲間に加わっていた。

下(北)エジプトの街中にスルリと逃げたアリは、内政不安定の状況の中、うまいことするりするりと出世していった。

そののち、下エジプトの知事に抜擢され、アリはイギリス軍にも協力。

このイギリスの後ろ盾もあって、アリはなんとオスマン帝国支配下の、エジプト州の総督までのし上がった。

これがムハンマドアリ王朝、別名"アルバニア人王朝"の始まりだった。

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↑ムハンマドアリモスク(シタデル)

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エジプトのワーリー(総督)にのし上がったムハンマド・アリは、最初の4年間は、大人しかった。

オスマン帝国のスルタンが求めたことを、言われたとおりに全て従い、

エジプトの前のマムルーク朝の残骸の軍人たちにも敬意を払い、フランス軍により混乱してしまっていたエジプトの内政を、黙々と処理していき落ち着かせた。

ところが1805年、猫を被っていたモハメド・アリがついに牙を剥く。


エジプトは、オスマン帝国の属州だったが、直接支配をされていたわけではない。

なんやかんやで、前のマムルーク朝がまだ力を持っており、ムハンマド・アリも彼らのやりたいように好きなように何でもさせていた。


1811年、モハメドアリは、シタデルの大広間で、息子の結婚式の披露宴を大々的に開催した。マムルーク朝の軍人たち、4,5000人も招待した。

そこでアリは彼らに豪勢な食事をもてなし、美女たちの舞踏も披露した。

マムルークたちは満足した。心も許しきり、エジプトのために互いに協力することの誓いも立てた。


ところが、マムルークたちがタワーから出てきたとき、モハメド・アリの兵士らが2つの防御城壁の間に彼らを閉じ込めた。

兵士たちはあらかじめ壁の上に待ち構えていた。そしてマスケット銃をマムルークらに向けて発射し、全員を虐殺した。


殺されたマムルーク人の首は全て城壁の門外の抗に晒された。これによりアリは

「マムルーク朝は完全に終わった。もはやムハンマドアリ王朝なんだ」

ということをはっきりとエジプト国民に知らしめた。

次の数日間で、すべてのマムルークの財産:宮殿、田舎の地所、所持品は、エジプト政府によってモハメド・アリのものになった。

アリはオスマン帝国の首都、コンスタンティノープルのスルタンに敬意を払い続けながらも、属州エジプトでは、もはや完全に最高権力者だった。

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モハメド・アリには、一つだけ懸念があった。

遅かれ早かれ、オスマン帝国の軍隊がヨーロッパ人との戦いに負けるのではないかと、という心配だった。

オスマンが敗北すれば、そこの属州エジプトもまた新たな勝利国の下に置かれ、どういうことになるのか分からない。エジプト州総督の自分の地位も危ぶまれる。


そこでモハメド・アリは、1822年に徴兵制を設け、そしてよく訓練された強い軍隊を作り始めた。

そのために彼は、フランス軍が敗れて失業したフランス人元将校など顧問として招いた。1830年代後半には、70人を超えるヨーロッパ人の軍事顧問が雇用された。


エジプト軍は強力になった。

スーダンを支配下に入れ、ギリシャにちょっかいを出し、シリアにも侵攻した。

しかも、だ。アリはなんと大胆なことに、インドまで狙う。

あのナポレオン・ボナパルトでさえ失敗したインド支配を、オスマンだがマケドニアだがの田舎出身のアルバニア人が、ひょうひょうとインド支配を実現してしまうかのように見えた。

イギリスはこれに驚き慌てふためく。イギリスは政治的観点から、エジプトがオスマンから独立するのを望んでいなかった上、自分たちのインドを欲しがるとはもってのほかだ。

そこでイギリスはシリアを援助し、大きな反乱を起こさせる。シリア鎮圧に疲弊したエジプト軍は力を失った。


ムハンマド・アリはやむを得ず合意に従った。二度ともう独立を試みない。外国を攻めようともしない。

その代わり、"世襲制"でアリの一族が代々エジプトのワーリー(総督)でいられるよう保障する、アリ一族は安泰だ、と。


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↑ムハンマド・アリの息子のひとり


話は前後するが、ムハンマド・アリが総督になった後、実質上エジプト州の中心地は、再びアレキサンドリアに戻っていた。

かのアレキサンダー大王と出身地が同じだ、と自称するアリはアレキサンダー大王が作ったこの街を再び盛り上げ、

アレキサンドリアを中心にした、新しいエジプトを作りあげようとしていた。


それだけではない。

アリはエジプトの近代化を目指し、優秀なエジプト人の学生や研究者をどんどんヨーロッパに留学させた。

同時に、ヨーロッパかあらゆる分野の専門家を招聘し、ヨーロッパから多くの移住者をエジプトに受け入れた。

表向きの理由は、エジプトの近代化を計ったことだった。

それも嘘ではなく、実際に例えばアレキサンドリアの街に近代化をもたらし、大きく発展させたのもまたアリである。

彼はこの街のマフディーヤ運河、鉄道、港の開発をし、そして見事な領事館広場(現ムハンマドアリ広場)も作った。


が、それはそれ、これはこれ。

アリには実は別の魂胆もあり、そのひとつは、農民から搾取しまくった穀物をヨーロッパ市場で売りさばくことを思いついたからだった。

それにはヨーロッパ人たちの協力が必要だった。だから彼らをどしどしエジプトに移住させた。


さらにアルバニア人のアリは古代エジプト骨董品をヨーロッパで売りさばくことも企んでいた。

実際、彼の時代には、古代エジプトの骨董品の数々がドカンとヨーロッパに流れていった。


アリはイギリス人領事をはじめ、ヨーロッパ各国の領事たちに、古代エジプト骨董品の輸出免許証を気前良く、ポンポン発行し与えていった。

条件はひとつだった。彼らが自分の販売代理人になるよう説き伏せたのだ。


犯罪としか思えない、この古代エジプト骨董品輸出ビジネスに、最も協力をしたのはイギリス領事のヘンリー・ソルトだった。

アリ&ソルトのコンビの代表的な"犯罪"は『クレオパトラの針』だ。

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↑クレオパトラの針、ロンドン(左)、マンハッタン(右)


クレオパトラの針は、元々は紀元前1450年頃に、ハトシェプスト女王の次に登場する、偉大なファラオトトメス3世の命でヘリオポリスに立てられたものだった。

これをアリとソルトは、ロンドンに一本、ニューヨークにもう一本、やってしまったのだ。

もし、彼らがそんなことをしでかさなければ、今でもアレキサンドリアの、すでに消えたカエサレウム(カエサル)神殿の跡にまだ一部が残っているか、

はたまたうまくいっていればひょっとして、現在のアレキサンドリア海岸線に堂々と二本とも残り、街の眺めをより威厳あるものにしていたかもしれない。


多くの愚行蛮行もあったにしろ、それでもやっぱりムハンマドアリは類い稀なる人物だった。

農作物、工業製品の専売制により巨大な歳入を得て、民衆には重税などでかなりの負担をかけ苦しめさせたものの、さすが元収税吏だけある。他国からの借款に頼ることはなかった。

ムハンマド・アリの死後、子孫が他国からの借款に頼りまくり、エジプトを破滅まで追い込むことになることと比較すると、アリは間違いなく、英雄だった。

ムハンマド・アリが築いた時代を、明治維新に例える日本人の歴史専門家たちもいるが、なるほどなと思う。

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1833年

ナポレオン・ボナパルトにフランス総領事代理を任命された、フェルディナン・ド・レセップスという男が、地中海を渡る船に乗っていた。

しかし船内コレラ発生により、中に閉じ込められたレセップス。暇潰しに『エジプト誌』を読んだ。


『エジプト誌』とは一体何か。

ナポレオン率いる遠征軍が、エジプトに侵攻した(1798年)際、軍隊とは別に、大勢の学術調査団を引き連れていた、と述べた。

しかし、イギリス軍に敗北。


敗戦国のフランス調査団によって集められた、数々の収集品や記録は、アレクサンドリア条約(1801年)により、勝戦国イギリスに引き渡さなけれなならなくなった。

でもフランスの一流専門家たちに細かく調査させ収集させたもの全てを、そのままそっくりイギリスなんぞに差し出すのは、悔しい。

そこでボナパルトはイギリスに「はい、どうぞ」と渡す前に、大事なエジプト資料全ての「控え」を作らせた。(←誰でもコピーを取っておくでしょうな)


その後、フランス帝室印刷所が、1809年から1822年にかけて、「控え」全てを大判20巻の図書として刊行してみせた。これがかの有名な『エジプト誌』だ。


隔離された船の中で、レセップスは『エジプト誌』のスエズ運河の項目に、目を惹かれた。

何故だがとても気になる。気になって気になって仕方がない。


どれくらいたってか、ようやく船の乗客がアレキサンドリアの港に上陸するのが許された。

スエズ運河という夢想を秘めたレセップスが、エジプト総督(ワーリー)のムハンマド・アリに出会い、

そしてレセップスの話を聞いたアリの情熱の矛先が、アレキサンドリアの街よりも、スエズ運河に移るのは、もうすぐだった。

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↑レセップス

つづく

(かなりかなりはしょっている上、よいしょよいしょ様々な説があることをご了承ください。

なお、ムハンマド・アリの伝記は色々読みましたが、ヨーロッパ人が書いたものは総じて辛口、エジプト人や日本人が書いたものはたいがいアリを大きく評価しているように感じました。

ちょっと触れましたが、特に子孫のハッサン・ハッサン氏の伝記は、ちょっと過大評価、英雄視し過ぎの気もしましたナ...。)


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↑カイロのアルバニア人警備兵。今でもエジプトにはアルバニア系は数万人いると言われています。

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↑アルバニアで共産主義が広まった時、大勢のアルバニア人がエジプトに避難しました。

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↑昔の留学時代の友達が来てくれた時(ムハンマドアリモスク、前のマムルーク朝の宮殿(1315)の跡地に建設)

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↑ムハンマドアリは、わざわざコンスタンチノープルから、ギリシャ人建築家を呼んだ。しかし出来上がったのは、コンスタンチノープルのモスクの出来の悪いまがいもの(パッチもの)で、アリは激怒したという。

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↑イスタンブールのブルーモスク。私もこちらにも行きましたが、非常に素晴らしく、「ああムハンマド・アリもぶち切れるわけだな」と...

続き↓







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