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グッパイ、エジプトまた会いましょう、インシャアラー

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エジを去るとき。カイロ空港。向かって左が私。エジで購入したスーツケースが突然ぶっこわれたので、慌ててその辺でもらった段ボールに荷物を詰めました..


日本からまたエジプトに戻ったのは1997年の10月末頃だった。ややこしいが、エジプトを引き揚げるためにまた舞い戻ったのだ。

実は日本にいる間に、ジャパンタイムズに載っていた某ヨーロッパの勤務の求人情報を見つけ、軽い気持ちで連絡したらすいすい審査を通り、急遽ヨーロッパに行くことになった。

これ、運命の別れ道だったかも知れない。もしこの求人に応募しなければ、多分カイロで中東ゴージャス航空の面接を受け直していたはずだから。

顔の造作は変わらないが、皮膚も大まか綺麗になっており(←日本の皮膚専門医及びシミ消しメイクのレベルなど素晴らしい)、本当に中東ゴージャス航空に採用されたかもしれない。

ただ、もうメンタル的に「中東は十分」といううんざりの気持ちも強かったので、ヨーロッパの会社に採用をされなくても、結局ドバイで働くのは躊躇しただろう。

やはりそれもこれも考古学博物館前テロ事件のせいだ。

もしあの殺害現場や暴動ぶりを目の当たりにしていなければ、中東から離れたいとは思わなかっただろうと思う。


ちなみにこの数年後、この航空会社はようやく日本との就航が始まり、日本で日本人乗務員求人募集がかかる。

すると、倍率が5000倍だったと言うではないか! これにはとにかくびっくりびっくりびっくりびっくりした。

そして別の仕事でドバイに行った時、あまりにもエジプトとは天と地ほど何もかもが違っていて度肝を抜いた。

空港の免税店でくじを引き、当選したらドイツ車を無料でプレゼントしてくれるとか、

スーパーなのにやけにゴージャスで、お酒はどこでも飲めてアラビア語なんぞ不要で完全に英語オンリーで、女性も肌を隠す必要はない。

外国人だらけの街なので、日本人だ!と奇異な眼差しを向けられることも皆無。自分のキャリアアップのために三年限定で働きに来ている、というヨーロッパ人若者が圧倒的に多く、非常に垢抜けた街の雰囲気だった。

停電もないし水道の水も透明だし何でも買えるし、テレビをつければアメリカの大スターばかり登場..

街中を走っている車はヨーロッパの高級車かレクサスの四駆。ボコボコの壊れた車もろばもどこにもいない...

ホテルの寿司屋では最高級の鮪が出て、どの寿司も目玉が出るほど美味しい。街全体的にグルメのレベルが非常に高かった。

「ああしまった。やっぱりあの時中東ゴージャス航空の再試験(皮膚チェック)を受けておけばよかった!」

と後悔のあまり頭を掻きむしりたくなった!

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エジプトに戻って、旅行会社に頼まれた撮影コーディネートの仕事は二本だけやった。(観光ガイドは断りました。考古学博物館がトラウマになっていたので)

一本目はフジテレビで放送される何とかという番組だったが、何時間も何時間もえんえんと撮り直し...

気の短いエジプト人らはうんざりして、途中から取材拒否が続出..それを私が間に入ってとりなすのだが、まあ大変..


二本目はどこの番組だったか忘れたが、日本の撮影隊はドライバーにだけチップを払った。

これに激怒したほかのエジプト人スタッフたち..

しかしその某制作会社日本人ディレクターいわく

「先にリサーチ代もガイド代もチップ代も60万円振り込んでいます。だからこれ以上払う気はさらさらない」

ときっぱり。

これには現場のエジプト人は全員あんぐりした。だってみんな"自腹を切って"事前にリサーチを行っていたのだが、旅行会社からリサーチ代など貰ったことがない。

「エジプトのような国では、現場で直接その相手にお金を渡さないと、絶対本人には届かないんです」

と私が説明したが、日本のやり方ではそれはできないという。


余談だが、以前撮影の仕事で私もモロッコまで飛んだことがあるのだが、その時婚約しているモロッコ人の男女二人にちょっと出演してもらった。二人はいとこ同士でもある。

撮影が終わり、その時のディレクターはモロッコ人男の方に直接謝礼金を手渡した。

すると女の方が怒った顔でどしどし飛んできた。

「なんで"二人の"ギャラを全部彼に渡したのですか!? 私が何も貰えないじゃないですか!?」

そして号泣...

「...」

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いろいろお世話になった旅行会社に最後挨拶に行くと、エジプト人の皆さんは大袈裟なほど別れを惜しみ

「必ずまた戻って来てね」

「本当に淋しくなる」

など情感たっぷりに言ってくれた。

そして全員が言ったのは、

「エジプト考古学博物館前事件は、居合わせて怖かったでしょう。でもエジプト人全員がああじゃないからね。多くのエジプト人はテロに反対していることをどうか忘れないで」。


またあるモスリムのエジ子さんは真顔でこう言った。

「Lolo、日本に戻ったらイスラムを広めてね。日本はモスリムが少ないんでしょう。それだと天国に行けないから、日本人たちを救いなさいね、必ずイスラムを広めてね」。

「...」



エジプトには何年も何年も住んだので、荷物は相当あった。

綺麗な服や食器、本、CD、カセットテープは欲しい人に差しあげて、持って帰りたいものはカーゴで送った。

段ボールに送る物を詰めるコツは、開封された時に真っ先にコーランが見えるようにすることだ。だから荷物の一番上にコーランの聖典を入れた。なぜなら中身を荒らされたり盗まれる確率が減ると...


アメリカン大学のアラビア語コースもブリティッシュカウンシルのアラビア語コースの方もキリがいいところまで修了していた。結局中級の上止まりだったかな。上級まではいかなかったや。

私の最初の計画では、五年ぐらいでべらべらになって、アラビア語英語日本語を操る才女になるはずだったが、全然無理でした...

ホームドラマや恋愛映画ぐらいは全部聞き取れるようにはなったが、例えば政治経済レベルまで翻訳通訳できるか、と問われればお手上げ...


仲が良かったブリティッシュカウンシルのクラスメートたちが送別会を開いてくれた、マリオットのハリーズパブで...(←本当に他に行くところがないのでいつもここだった)

ひとり、スイス人の宣教師のオバチャンが欠席だった。別に私と親しくもなかったので姿を見せなかったのは不思議ではないのだが、なんと!

「彼女は18も年下のエジプシャンと結婚したんだよ。モスリムに改宗したんだ」

とイギリス人のダニエルが教えてくれた。

びっくりだ、キリスト教を布教したいと言っていたのに!逆に自分がモスリムになったとは!

そしてこの話に全員が「あーあ、馬鹿だよねえ」と首を横に振ったのも忘れられない..

ひとりとして”自分の信仰を捨ててまで、18も年下の青年に飛び込んだ"という話に感動していない...

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パブを出た後はそのままホテル内のカジノへ繰り出した。ジュースやお酒が"タダ"で飲めるカラネ...

第一、私たち留学生チームは、繁華街のゲームセンターの気分でマリオットホテルのカジノでふらふらするのが習慣だった。笑


カジノの入口では、パスポートチェックがあるのだが、チェック係のエジプシャンが

「またお前らか」

というような呆れた顔を見せため息をついた。


中に入るといつものごとく、湾岸人の男たちしかいなかった。みんなこのいでたちで(カジノに絶対女性は来ていないけど)↓

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ネット拾い画


死んだ目つき(虚ろな目つき)で百ドル札の"束"をガンガン賭けていた。(エジプトのカジノはどこも米ドルしか使えない)

外れても当てても表情は何も変わらない。全く感情のない様子で、最初は不思議だったのだが、アラビア半島をいろいろ行ってから分かった。

アフリカのエジプト人は喜怒哀楽がはっきりしていてすぐに感情が顔に出るが、アラブ人はそうじゃない。基本的にまず笑わない。そういう人種のようだった。


さてちょくちょくあることだったが、この時も"また"停電になった。

すぐに電気は付いたが、はっとみるとディーラーたちはそれぞれのルーレットの台の上に俯せになって乗っかっていた。

ドル札の山が積まれているので、停電と共に自分の身体で隠したのだ。これもお馴染みの光景だ。


ルーレット台のところで湾岸人たちが数千ドル数万ドルを賭けている隣で、私たち留学生は1ドル札を賭けていた。

するとディーラーに

「お前らはもういいだろ」

と追い出され、そしてカードの台に移動した。

しかしそこでもちびちび1ドル札を賭け、でもフリードリンクのお酒をガンガン飲んだ。すると、カジノマネージャーが現れ体よく追い出された。笑

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マリオットホテルの近くでタクシーを止めると、かなり値段をふっかけられるので、大通りを結構歩いたところでタクシーを呼び止めた。

ところがどの運転手も私を見て

「ジャパニーズプライス払うなら乗せてやる」と。

...


一緒にいたイタ男(イタリアン)が笑った。

「Loloがいなくなれば、タクシーもスムーズに乗れるようになるな、ワハハ」。

...

苦笑いするしかない。確かに毎回どの運転手も、ヨーロッパ人の中に混ざっている私をみて、

「日本人がいるからもっと料金払え」。

でいつもみんなと運転手の口論になっていた。

とにかくどこでもかしこでも、日本人は白人よりもいつも値段をふっかけられるものだった。

(↑日本企業/日本人駐在員は割と言いなりの料金をそのまま素直に払うことが多く、それで「日本人はふっかけられる」が定着したという)

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エジプトを去ると決めてから、いろいろな日本人の友人も食事に誘ってくれたり、自宅の食事に招いてくれたりした。

私がいなくなると分かるやいなや、急にどの人も饒舌になり、告白が始まった。

「実は私は第二夫人なの」

「実は私の夫には他に奥さんが二人もいるの」

「実は私は法律婚じゃなくて宗教婚なの」


"カミングアウト"の内容はどれもヘビーなものばかりで、

「エジプト人の夫が鞭で叩いてくる」

「(ガイドの妻が稼いだ)お金を全部奪い取って、自分のものに使ってしまう。ガイドのマージンが少ないと殴られる」(←確かにここの夫婦は、夫だけいい服装で妻はボロボロだった)

「夫が息子を殴る、止めに入ると私まで殴られ、もう方耳の聴覚を失った」

等などこのような愚痴や相談を山ほど聞いた。

「別れればいいじゃない?」

と思われると思うが、前にも書いたがエジプトでは妻からは離婚は申請できないのだ。

逆に夫側からはあっさり離婚手続きができちゃうので、夫が

「肉屋に行ってくるね!」

と出て行ったかと思えば、自分との離婚手続きをだったという実話もあった。

また離婚してももしくは夫に早世されても、財産分与や(特に息子の)親権が日本や他の先進国とは全然法律が違う。


20代をエジプトで過ごしたと言うと、多くの人に

「エジプシャンと結婚しなかったの」

と聞かれたが、いやいやまず第一にモテなかったし 笑

また日本で出会ったエジプト人男性ならもしかしてありえたけれども、

これだけさんざんエジプトでエジプト人男性との婚姻トラブルを見てしまうと、絶対もう結婚なんて考えられなかった。

一緒に働いたり会話する分には情も深いし親切かつ面白いのだが、一夫多妻の件も思っていたより実際は数多かったし (やっぱり宗教婚をカウントすると多い)、

そして"子供の将来の教育費のたくわえ""自分たちの老後の蓄え"の概念が全員、見事に全員全くない。

見たり聞いたりしていると、お金はあるだけその日に使い切る、明日は明日の風が吹くというのが一般的なエジプト人だった。

こりゃあ日本人の奥さんと口論になるのも当たり前だ。

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そうしてその年の11月上旬、今度はエールフランス(ブルガリアのバルカンエアーはもう懲りた!)でパリに滞在した後、一旦日本に戻った。

カイロ国際空港を離れる時はもう二度とエジプトに戻ることはないだろう、と思っていたので、やはりとても感傷的になっており、

離陸する飛行機の窓からどんどん遠のき小さくなっていく、スモッグガスと埃だらけのカイロの街が見えなくなるまで、涙目で必死に窓にへばり付いていた。

90年代前半に初めてひとりでツテもなくエジプトに飛び込んだ時は、不安で不安でたまらず、飛行機の窓から見えてきたカイロの街があまりにも殺風景でガク然としたものだったが、

まさか別れるときはこんなに淋しくなるものとは...

(またまさかエジプトとのご縁が切れることはない、というのを夢にも思っていなかった...実はいまだにご縁は続いています)



帰国して実家の自分の部屋のベッドで寝ている時だった。時差ぼけや様々な疲れからひたすらずうっと眠りつづけていたところ、部屋のドアをガバッと父親に開けられた。

うるさいな、なんなのかなと思いつつ、布団に包まり無視した。

すると父親が大声をあげた。

「エジプトで日本人が大勢殺されたよ! 」。

「えっ!?」

ガバッと起きて居間に行くと、ルクソールのハトシェプスト女王葬祭殿で大きなテロが起こり、スイス人と日本人らが殺されたというニュースが流れていた。

私はすぐに自宅の電話からカイロに国際電話をかけた。

なぜなら一番の友人だったヨウコさん(仮名)がこの日、同じ日本の旅行会社のグループをルクソールガイドすることになっていたのを聞いていたからだ。


つづく


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↑マシな方のショーウインドー。大半の女性下着のショーウインドーはもっと透け透けで派手な下着ばかりでした。オッサンたちが鼻の下を伸ばして眺めている光景をよく見かけました。

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