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スエズ運河は流れる⑥ - 恋心と慕情..エジプトのアルハンブラ宮殿

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2003年頃、SARSが世界的流行していた頃だ。

エジプトポンドのレートはどんどん悪くなっており、そのちょっと前まで1ドル3.2エジプトポンドぐらいだったのに、いきなり1ドルが5.8エジプトポンドに跳ね上がった。

ブラックマーケットでは、すでに6.5エジプトポンドになっていた。

毎月、毎月何もかも物価上昇、食料品はもちろんのこと、特に車の値段はすぐに影響を受けていた。


カイロのマリオットホテルの日本人会がよそへ移ったのは、そんな不景気の頃だった。

今度は同じザマレック地区の、オランダ大使館隣のフラット(マンション)の中に入った。

全然大した内装ではないのに、家賃は一ヶ月1000米ドルもした。当時のカイロでは、最高級マンションの値段だ。あの内装でそれはない。やはり外国人料金(ぼったくり)を取られたのだろう。


マリオットホテルから離れてしまったか...

名物だった日本人会の盆踊り祭をもうあのホテルで見れないのかな、とちょっと淋しく思った。

元々、フランスのユジェニー皇后のために建てられたゲジーラ宮殿。かつては"エジプトのアルハンブラ宮殿"と呼ばれた。

この元宮殿のマリオットホテルは、色々な歴史を見つめてきた。やはりここでも、"スエズ運河"は欠かせない。

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1869年11月16日、スエズ運河開通式前日朝-

ポートサイードの沖にヨーロッパから80隻もの旅客船が到着した。

ナポレオン三世の皇后、ユジェニーを乗せたフランスの船"エーグル(鷲)号"も港に入って来た。

彼女自身の従兄弟である、フェルディナン・ド・レセップスの主導で建てられたこの巨大な仕事の完成には十年かかった。

スエズ運河、長さ162km。現地中海と紅海を接続しているため、ヨーロッパの船はアフリカを迂回することなくアジアに直接アクセスできる。


イスマイールは胸が高鳴った。彼女とは二年ぶりの再会だ。

エジプト副王イスマーイール・パシャは、1830年12月31日にカイロで生まれ、ムハンマド・アリの2番目の孫だった。

彼はパリで教育を受け、先代の叔父であるサイードの死後、エジプトの総督になり、のちに格上の副王の称号も手に入れていた。


ポートサイドの港に降り立ったユジェニーは、シンプルなグレーのドレスに麦わら帽子を被っていた。イスマイールの目は彼女に釘付けになった。

二人はもともと彼のパリ留学時代に知り合っており、当時恋仲だったとも言われている。そして彼らは1867年パリ万博でも再会している。

噂が絶えない二人。だから、ヨーロッパ各国王族貴族、セレブリティーたちは好奇の眼差しで眺めた。

そして、ついにイスマイールは"やらかした"。

スエズ運河開会式の真っ最中、彼は感極まりつい、少し"アクセント"のあるフランス語で

「私はずっといつまでもあなたを見つめていたい (直訳"私の目は永遠にあなたを見るのが好きです")」

と言ってしまった。周囲にはしっかり聞かれてしまっている。

ちなみに、イスマイールはアルバニア系のマケドニア人またはトルコ人だったが、エジプトでは男性が女性を褒める/口説く時、必ず"瞳"を褒め称える。

これは彼らの歴史を見ると、古代エジプト時代からの伝統としか言いようがない。

日本では「君の笑顔は可愛い」「君の姿は眩しい」だの言うが(←言われたことがないが)、エジプトでは「君の"瞳"は美しい」が一番多い。

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↑スエズ運河開会式。それはもう過去に類を見ない、壮大で豪華絢爛なセレモニーだったと記録が残っています。ちなみに、運航の無事を祈願する宗教儀式は、モスリムとクリスチャンで分けられて、別々の場所で行われました。

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↑イスマイール(左)、フランツヨーゼフ(中)、ユジェニー(右)、後ろにレセップス。ユジェニーの胸元に十字架が飾られていることが、エジプトの宗教を軽んじている証拠だ、エジプト人たちは激怒した。

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↑オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ(1869) ピラミッドに鳥たち.見たことがないです。

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1833年-

レセップスはエジプトにフランス領事代理として赴任した。

その頃、エジプトはイギリスうまくいっていなかった。しかしレセップスが仲介に入り、両国の関係はころっと改善。

だから、エジプトの総督(ワーリー)のムハンマド・アリはすぐにレセップスを気に入り、息子のサイードの家庭教師に任命する。

もともとアリはヨーロッパかぶれだったので、息子にフランスの言語や文化などを仕込みたかった。


レセップスはムハンマド・アリに接近する機会が増え、スエズ運河の話を振る。アリは驚いた。そんな運河が埋もれていることなど、知らなかったのでびっくりした。

だから、アリはフランス人技師、リナン・ベイにスエズ運河の測定をやり直しをさせた。(1840年代)。

その結果、

「地中海と紅海の水位の差はない。よって両海を結ぶことは可能だ」。

つまりそう、スエズ運河建設はできる!可能だ!

当然、アリは興奮した。しかしもう寿命が迫っていた。アリはスエズ運河建設を実現させる前に、1848年死亡。

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レセップスは結局、エジプトに5年間駐在した。

その後他国赴任を命じられるものの、フランス本国とちょっと揉め、頭にカーッと血が上り辞表を叩きつけた。そして早々、フランスの田舎に引きこもる。


とは言え、隠居暮らしを始めたのはいいが、何もすることがない。

時間を持て余した時こそ、心の中で眠っていた何かがくすぶるものなのかもしれない。

レセップスは、かつてエジプト赴任に向かう船の中で、『エジプト誌』を読んだことをふと思い出した。

そして自分がスエズ運河建設を夢見たことも、アリが乗り気だったことも、実は2つの海を繋げることも全て思い出した。


「スエズ運河...」

どうにもこうにもスエズ運河建設のことが頭から離れない。悶々が続く。

そしてついに意を決して1852年、当時のエジプト総督、ムハンマド・アリーの孫、アッバス・パシャに手紙を書く。


ところが、アッバスはレセップスのスエズ運河建設計画に、全く興味を抱かなかった。

かつてアリに雇用されて、スエズ運河の再計測を行ったリナン・ベイもとうに解任されている。

アッバスはもともと公共事業に関心がなかった。

さらに「インドへの道を整備をしたい」という、イギリスからの申し出を受け入れて、(資金はエジプト側の負担で) カイロとアレクサンドリアを結ぶ鉄道の敷設を認めたばかりだった。

彼は遠隔地にあるハーレムの離宮にこもりがちで、大勢の女性を囲い享楽にふけており、とにかくスエズ運河だけでなく、仕事全体にやる気がなかった。


こんな男に話は通じない。レセップスは諦めた。

ところがなんと、アッバスは急逝する。

1854年、ナイル川デルタ地帯の宮殿の一室で、アッバスは何者かに絞殺されたのだ。公式では脳卒中と発表されたが、実際の殺害に至る経緯は不明だった。

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↑サイード・パシャ


アッバスの次に、エジプト総督の座に着いたのは、なんとサイードだった。

そう、ムハンマド・アリに命じられ、かつてレセップスが家庭教師を務めた少年だ。

サイード・パシャはムハンマド・アリと四番目の側室との間に生まれた少年だった。

まだ12歳だったサイードは、レセップスの影響を色濃く受けており、その後パリ留学も果たしている。


1854年、サイードに呼ばれ、レセップスはエジプトに舞い戻る。スエズ運河の測定を行ったリナン・ベイも復職した。

レセップスはスエズ運河周囲の土地の権利をサイードから貰い、運河建設許可書渡された。

ただし、その許可書には条件が書かれてあった。

"オスマン帝国の皇帝の許可が下りない限り、運河工事着手してはならない"


ここでレセップスはまた躓く。

宗主国のオスマン帝国は、スエズ運河開通工事を認めなかった。何故なら裏でイギリスが糸を引いていた。

イギリスは、前副王アッバス時代に、すでにアレキサンドリアからカイロまで列車を敷かせており、それで十分だと思っていた。

またフランス(レセップス)が関与するスエズ運河建設は、イギリスによるオリエント支配/貿易の妨げになると考え、難色を示した。

1830年に、イギリスと特別な貿易協定を結んでいたオスマンとしても、イギリスが好ましく思わない計画を認める訳にはいかなかった。

諦めきれないレセップスは、コンスタンティノープルとロンドンに渡った。が、説得出来なかった。


レセップスは焦れた。そして、思い切ってスエズ運河会社なるものも設立。

勢いで会社設立したのはいいが、スポンサーが問題だった。オーストリア、プロシア、イタリアに株購入を薦めるが、駄目だった。

だけども、もう意地になっているのか、何かとりつかれているのか、レセップスはほぼ強行突破でスエズ運河の工事に着手する。1859年だった。

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イギリスは激怒した。

エジプトのサイードに、レセップスの件で文句を付け、そして"脅し"にかけてきた。

「このままスエズ運河建設を続けるならば、エジプトをムハンマドアリ王朝以前の状態にしてやるからな。

それはどういうことか分かっているな!? 完全なオスマントルコ帝国の支配下、従属の立場に戻してやる。

お前の肩書きも剥奪する、お前ら一族にはもう何も権限も持たせない、エジプトを仕切らせないぞ!」


サイードは憔悴しきった。いつでも簡単に排位される。

相当イギリスに凄まれ、副王は発狂寸前まで精神を追い込まれた。だから結局レセップスに、運河建設中止を命じた。

ところが、なんと!

頑固なレセップスはサイードの命令を無視した。

無視して建設を継続したのだが、突っぱね続けるのももう限界だ。

フランス皇帝を頼れば、またそれはそれでややこしくなるので、できれば頼りたくない。だが、もう他に手段がない。

「この際もうやむを得ないか。"身内のコネ"で皇帝に頼もう」。

そう、彼のスペイン人の母方には、21歳も若い従姉妹がいた。フランスの皇帝、ナポレオン三世に嫁いでいるユジェニー皇后だ。


レセップスはフランスに戻り、ナポレオン三世に謁見をした。

ナポレオン三世は、ナポレオン一世(ボナパルト)がスエズ運河建設計画を抱いていたこと、

そして物理的に運河建設が可能なことも、それがどんな利益をもたらすかということも理解していた。

ナポレオン三世はレセップスに、フランス皇帝が運河建設の後ろ盾になる、スエズ運河株式会社の株も大量購入することを約束した。


ナポレオン三世が全面バックアップすると約束したことにより、オスマン帝国はイギリスがいくらわめこうが、スエズ運河を建設させてもいいんじゃないか、と言い出した。

その結果、サイードもレセップスにまた建設許可を与え直した。

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↑ナポレオン三世、ユジェニー皇后と息子


1859年、運河起工式が開かれ、翌年の1860年、地中海の新しい出入口となる港が造られた。サイードの名からとって、ポートサイードと名付けられた。

ところが1863年、まだ40歳だったサイード・パシャが突然亡くなる。

彼の功績は法律、土地、税制に大きく改革をもたらし、スーダンにおける奴隷狩りも禁止にしたことだった。

ちなみに、スーダン人奴隷狩り禁止は、ヨーロッパの近代国々からの非難の圧力に屈した形だった。

しかしフリーランスの奴隷貿易商人たちの、スーダン人奴隷密売は止んでおらず、サイードはそれを見て見ぬふりをしていたとも言われている。

また、いくら功績がいくつもあっても、サイードはすでにスエズ運河建設に莫大な費用も注ぎ込んでおり、相当に心労がたたっていた。

サイードの息子は事故死していたため、今度はサイードの異母兄弟、イスマイールがエジプト副王の地位についた。

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↑イスマイール副王


ところで、1517年から1867年にかけて、エジプトはまだオスマン帝国の領土であり、"エジプトエヤレト"と呼ばれていた。

エヤレトとはトルコ語で、"州"の意味を持つ。

現在のエジプト、スーダン、リビア、エリトリア、ジブチ、ソマリア、エチオピアがエジプトエヤレト (州) に含まれていた。

むろん、それまでのエジプト総督だったムハンマド・アリもサイードもイスマイールも、オスマン帝国からなるべく離れたい、独立したいと思っていた。


そして1861年にアメリカで南北戦争が起きた。

以前まで、ヨーロッパはアメリカから綿を大量に輸入していた。ところが南北戦争により、アメリカ南部の綿畑では、十分な栽培ができなくなった。

一方エジプトでは、1822年以降のデルタでの綿花栽培が盛んだった。

もともと、古代ヌビアとスーダンでは、綿花栽培が行われており、それがエジプトまで伝わってきていた。

アメリカが綿をヨーロッパに輸出できない...イスマイールはチャンスだと思った。

彼はヨーロッパ各国にエジプト綿を輸出しまくった。どんどん輸出しまくった。これがうまく行き、莫大に儲かった。


この綿で財を成し力を持ったエジプトは、ただの属州からオスマントルコ帝国の"準"領土に格上げされ、イスマイールの称号もワーリー(総督)だけではなく、ヘディーブ(副王)と名乗ることも可能になった。

ちなみに、副王とは、君主の代理人として植民地や属州を統治する官職、称号を指す。


綿輸出で巨万の富を持ったイスマイールは調子に乗る。

湯水のように散財していくのだが、南北戦争が終われば、またヨーロッパ各国は綿の買い付けをアメリカに戻してしまうことを、イスマイールは全く考えてもいなかった。

これが、後にエジプト財政破綻を招く...

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スエズ運河の試験通航は、専門技師たちによって、念入りに行われ、レセップス自身も試験通航を行った。

そして満を持し、1869年11月17日 、ヨーロッパやアジアをアフリカ大陸に結ぶ、スエズ運河がついに開通した。

この式典に出席するために、ユジェニー皇后はエジプト土地に初めて足を踏み入れた。

ユジェニー・ド・モンティジョ(フランス語: Eugénie de Montijo, 日本語表記はユジェニーの他、"ウジェニー"などいくつかあります。1826年- 1920年)は、スコットランド人系父親と、ベルギー人系母親の間に、スペインで誕生したスペイン貴族の娘だった。

1848年、フランスのエリゼ宮で開かれた舞踏会で、未来の皇帝に出会う。既に彼女の美貌はヨーロッパ中で知られていた。

そして、1853年1月29日と30日にテュイルリー宮殿とノートルダム大聖堂でナポレオン三世と挙式を上げる。ユジェニーは27歳だった。 
           

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↑スエズ運河開通式は完全にフランスが主だった。

1869年11月17日

フランスの皇后ユジェニーを乗せた、フランス船エーグル(鷲)号を先頭に、数十ものヨーロッパの船がスエズ運河を運航した。

下船先はユジェニーの年長従兄弟のレセップスが作った、新しい街、イスマイリアだった。そこの新宮殿で盛大な晩餐会が開催され、無数の花火も打ち上げられた。

皇帝フランツ・ヨーゼフ(オーストリア)なども出席した晩餐会では、ユジェニーはレースの付いた桜色のドレスを着用していた。

頭にはティアラを被り、それはダイヤモンドの留め金で支えられ、後ろのベールに繋がっていた。

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↑1869年11月18日のイスマイリアの大夕食のメニュー


翌朝、レセップスがユジェニーをラクダに乗せ、イスマイリアの街中を案内した。ユジェニーはすっかり興奮していたが、ローカルの貧しいエジプト人たちは、冷めた眼差しだった。

フランス...国王に苦しめられる民衆を救うために、フランス革命を起こしたのに、自分たちが主導で進めたスエズ運河建設には、大勢の強制労働(奴隷)を投入し、大勢の死者も出した。

そしてエジプトの負担で、史上類を見ない壮大な開通式と晩餐会を開かれた...エジプト人の多くは飢えていたのに。

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 ↑ラクダでイスマイリアの街を視察するユジェニー。右には、近づくな、と押し出されるエジプト人がいる。ちなみにエジプトのラクダは1コブ。アジアのラクダが2コブ。          

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19日正午、ユジェニーを乗せたエーグル号を先頭に、船団の列ががポートサイドに向かい、スエズ運河を通航した。

汽笛が一斉に鳴るその光景は、まさに感動的だったという。ユジェニー皇后は「こんな美しい光景を今まで見たことがないわ!」と叫んだ。


ポートサイドからは一行は列車でカイロへ向かった。


カイロに到着すると、今度は馬車で、ナイル川中洲に浮かぶ、ゲジ-ラ島のトルコ語で"幸運の地" (habitation of fortune)の意味を持つ、ザマレック地区へ向かった。

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ユジェニー皇后を迎えるために、イスマイールによって急いで建てられた宮殿なのだが、完成は間に合わなかった。


しかしユジェニーはゲジーラ宮殿を一目見るやいなや、息を呑んだ。

「アルハンブラ宮殿じゃないの!」

ユジェニーはスペインのグラナダ出身だ。グラナダといえばアルハンブラ宮殿。


アルハンブラ宮殿はもともとアラブ人に由来する。

アルハンブラとはアラビア語で「赤い城塞」を意味するアル=カルア・アル=ハムラー (القلعة الحمراء, al-qal‘ah al-ḥamrā') 、

ハムラーはアラビア語で"赤色"の意味。そしてそこからスペイン語化され、アルハンブラ宮殿という名前になった。



ユジェニーの目の前に建つゲジーラ宮殿は"赤"かった。まさに故郷のアルハンブラ宮殿を思わせた。


ゲジーラ宮殿の建設には、ドイツ人、イタリア人など、さまざまな国籍のエンジニア、芸術家、職人が集結し、イスマイール副王の望むままの、宮殿を作り上げた。


イスマイールは、ユジェニーの故郷のグラナダにあるアルハンブラ宮殿だけではなく、彼女が住む、パリのテュイルリー宮殿のことも考えた。

だから、彼女が宿泊する部屋は二つに分けさせていた。

1つはイスラム的のインテリアスタイル(アルハンブラ宮殿タイプ)の内装で、もう1つはパリのテュイルリー宮殿にある、彼女の部屋そっくりに模倣した内装(レプリカ)だった。

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また、イスマイールはユジェニーのカイロ滞在中、どこかで自分の妻たち(15人だったかな?)やハーレムの愛人、そして子供達をユジェニーに決して鉢合わせすることのないよう、細心の注意も払った。ようは妻子(プラス側室たち)を誰も出さなかったのだ。


ユジェニーは、ゲジーラ宮殿に滞在して間もなく、夫のナポレオン三世に手紙を出した。

「ここはスペインを思い出します。踊りも音楽も食べ物も、なにもかも嗚呼スペインに似ているの!」。


本来はエジプトの郷土ダンスも音楽も食事も、スペインに似ていることはない。

しかし彼女がそう感じたということは、間違いなくイスマイールがあえてスペインのもので取り揃えさせたからだ。



11月29日には、完成したばかりのカイロのオペラ座で、スエズ運河開通記念公演が行われた。

そこは比較的この頃まで、広大な池だった。が、前年1868年に全面的な大改造工事が開始。

フランスから造園デザイナーを招き、パリの公園にならった公園をそこの北側に作った。人工滝、音楽会の客用のキヨスクやカフェコンセール(小演劇を見せるカフェ)、回転木馬など。

南側にはイタリアから建築家を招きサーカス、劇場、オペラハウスが建てられた。イスマイールの気まぐれによるこの改造工事は、全てたった数ヶ月で完了した。


ヴェルディのオペラ"アイーダ"もゲジーラ宮殿で上演されるはずだったが、オペラの完成は間に合わなかった。

だから上演作品はヴェルディの"リゴレット"だった。

ちなみに最初から"リゴレット"で決まっていた、という新説が最近では出ている。

そうだろうか。

史上最高の贅沢な運河開通式といい、イスマイールはこのイベント一連に最大の情熱を注いでいた。ゲジーラ宮殿まで建ててオペラハウスも建てた。

だから上演するオペラも、スエズ運河開通のための初めての"アイーダ"をイスマイールは望んだと考える方が自然な気がする。

ストーリーも"アイーダ"の方が自分とユジェニーにぴったりだ、ロマンチックだと考えたはず。

"リゴレット"は、道化師のリゴレットが娘のジルダを大切に思うあまりに起こしてしまった行動が招く悲劇のストーリー。

"アイーダ"は、男女二人が天国で永遠の愛を誓い、天へ旅立つストーリー。

どう考えても、例え正式に発注をしていなかったとしても、イスマイールがユジェニーと一緒に観たいのは、"アイーダ"じゃなかったかと思う。

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  ↑当時建てられたオペラハウス。その後燃やされ消滅

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↑ゲジーラ島に、日本の援助で日建設計が建てた、新しいオペラハウス。ここでアフリカ初の歌舞伎の上演もあった。


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↑ピラミッド見学のユジェニー

なお、宮殿で少人数で開かれた晩餐会では、二人はずっと視線を交わしていたとも言われている。(↓)

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このようにゲジーラ宮殿=ユジェニー皇后、のイメージだが、言及されていないのは、ウェールズの王子と王女も大英帝国のツアーで、その年の3月にゲジーラ宮殿に滞在している。

また、豪華なスエズの祝祭の数年後、イスマイール副王の3人の息子と同時に結婚したときに、ゲジーラ宮殿で盛大なる大規模結婚式が開かれた。その結婚式の披露宴は40日間(!)続いた。

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ところで1858年、スエズ運河株式会社が設立された時、40万株のうちフランス政府は20万7160株で、エジプト政府は17万7642株を所有していた。

しかしこの莫大な株のために、エジプトはヨーロッパ諸国から膨大な借り入れをしており、前の総督サイードが他界した時には、2億5千万フランの負債を抱えていた。

にもかかわらず度重なる浪費が続き、そしてゲジーラ宮殿建設が財政破綻にとどめを刺した。


気がつけば、1億ポンドを超える国債(副王になったときの300万ドルとは対照的)を負っていた。

彼は、小麦・綿花などの農作物の輸出で上げた利益の方は、エチオピアとの戦い、鉄道建設、オペラハウス、宮殿などの建設、そして上流階級のヨーロッパ教育育成等にあてていた。しかしそれらでは、かかった費用の回収をできない。

アメリカの南北戦争も終わり、ヨーロッパ各国はまたそっちから綿を買い付けるようになってしまい、エジプト綿は売れなくなっていたのも大きな打撃だった。

にも関わらず、イスマイールはカイロの新しい地区を、パリを真似した街に作り上げていき、どんどん上流階級とヨーロッパ人にとって住みやすい近代的な都市作りを押し進め続けてた。

が、かたやイスラム地区などは完全に見放し、庶民のためには何もしなかった。

実際、エジプト人たちの目には、イスマイールはヨーロッパ人とトルコ人だけが喜ぶことしか手掛けていないように、国を自分のための奴隷国家としか見なしていないように映っていた。


さて、ここで一つの疑問が湧く。資金がないのにどうやって浪費をし続けてきたのか。

これには、ヨーロッパ(とりわけフランスとイギリス)の手口による責任も大きかった。

それらの国々はイスマイールに大金を貸し続け、到底返せない額の金を渡し続け、金を貸して貸して貸しまくった挙げ句、エジプトを完全支配下に置くために、

「返済できないなら、今後俺たちの言いなりになれ」。

しかも不平等条約のもと、エジプトにはそもそも関税自主権もなかった。

どう見てもそれらのヨーロッパの国々は完全にハンターで、イスマイール(エジプト)はいい鴨だった。

これがこの後、イギリスの占領につながる「国民運動」を引き起こした。

イスマイール副王の最大の称号/"業績"は、彼がエジプトへのヨーロッパの介入を強制させてしまったということであるのは間違いない。


1875年、借金負債に首が回らなくなったエジプトは、スエズ運河会社の株式17万7642株を仕方なく、売りに出すことにした。

レセップスは直ちにフランス本国にこのことを報告するが、ベンジャミン・ディズレーリ政権下のイギリスの方が動きが早かった。

この時フランスではすでにナポレオン三世が退位していたのも、もろもろ”遅れをとった理由だ。

イギリスは速攻に、ロスチャイルド銀行に立替金をエジプトに払わせた。実際、イスマイールはスエズ運河の株をイギリスに3,976,582ポンドで売却した。

こうして、スエズ運河はフランスだけではなく、イギリスの管理下にも入っていく。

ちなみに、イギリスはスエズ運河建設に最も反対をしていたのに、いざ開通すると (インドとの交易の関係で) 一番この運河を利用した、というのもなかなか皮肉だ。


スエズ運河の株を売り飛ばしても、借金を返済できないエジプト。イギリス政府によるエジプトの財政調査が始まった。

イギリスから調査員が派遣され、1876年エジプトの副王イスマイールの浪費と贅沢を考慮して、外国勢力が干渉する必要があると断言された。

同年10月、さらに調査が行われ、その結果、英仏支配が確立された。

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1879年、国際裁判の場で、イスマイールの債務の件が裁かれる。ドイツとオーストリアは死刑判決を出したが、イギリスとフランスは退位を主張。

その結果、宗主国オスマント帝国は、イスマイールから副王のタイトルを剥奪し、単なるパシャの称号に格下げし、その後本当に退位もさせた。

結局、彼は亡命先のコンスタンチノープルで亡くなる。64歳だった。(死因に不明な点はあり)


この一連の茶番劇に、激怒したのは愛国主義のエジプト人たちだった。

激怒したエジプト人たちが、反王制運動や暴動をあちこちで起こした。これが今日まで続く、エジプトの"テロ"の始まりだったのかも知れない。

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さて、ゲジーラ宮殿だが、未払い債権のため宮殿はエジプトのホテル会社に売り飛ばされ、ゲジーラパレス"ホテル"になる。

1910年に、アガサ・クリスティと彼女の母親は、ゲジーラパレスホテルに三ヶ月滞在をしている。

第一次世界大戦(1914-18)にはイギリス軍病院に転用。その後は内陸水運局と他の軍隊の本部に使われる。


1919年にはオークションにかけられ、シリアの王家(←ちょっと曖昧です)に買い取られる。

1952年、エジプト革命が起こり、イスマイールの孫のファルークはエジプトを追放させられた。これでムハンマドアリ王朝(1805-1953年)に幕が閉じた。


ナセルの社会主義時代、ゲジーラパレスホテルは国営化される。

宮殿ホテルの資産は収奪され、建物の内装は社会主義スタイルへ変貌。サービスの質も低下した。

20年後、宮殿ホテル中でネズミが出没するようになり、閑古鳥が鳴く。そしてホテルは破産。

このタイミングで、1970年代、マリオットインターナショナルに買い取られ、生まれ変わった。

ちなみに1990年代には、元ゲジーラ宮殿のマリオットホテルには、日本人スタッフも働き、日本人会も部屋を借り、夏にはホテルのガーデンで盆踊りの祭りも開催していた。

2003年頃、しかしその日本人たちもいなくなった。だけども元宮殿のこのホテルは今でも繁盛している。

             🌹



フランス皇后ユジェニーは1904-5年の冬にもエジプトに戻っている。それはイスマイールがエジプトを亡命したずっと後だった。

しかし彼女のためだけにアルハンブラ宮殿に似せ、パリの宮殿の内装にも似せて、彼女のために建てられた豪華なゲジーラ宮殿(ホテル)には泊まらなかった。

ユジェニーはゲジーラ宮殿を拒み、カスルアルニール通りのサボイホテルを選んだという。スエズ運河にも足を伸ばすこともなかった...


つづく

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↑参照しました


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