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カイロの妻たち


率直に言って、そんなに日本人の女友達はいなかった。というのもアメリカ、カナダ、オーストラリア、イギリスのようにエジプトは若い日本人留学生が多い国ではなかったからだ。

駐在員の若い奥さんたちとはやはり世界が違った。

ザマレック地区のアラビア語(話し言葉)の授業があるカルチャーセンターでは、とてもお若くお綺麗な奥様と同じクラスになったが、

「まあお一人でこんな国に留学? 大変ねえ、ふふ」

で終わってしまった...


その点、エジプト人に嫁がれている日本人妻さんたちの方が、よほど情が厚く親切だった。

私のような個人留学生ごときには回って来ないような重要な情報が日本大使館から流れてきたら、すぐに電話をくれて教えてくださる日本人妻さんもおられたし、

「ひとりじゃ寂しいでしょう」と何かと気遣かって自宅の食事に招いてくれる日本人妻さんもおられた。

こういうご恩は一生忘れない。


ただ、私と年齢が近い、比較的若い日本人妻さんらの場合は、ちょっと"厄介"だったのは、それぞれのエジプト人のご主人の意向によって、

「○○子さんとは付き合ってもいいが、△△子さんとは付き合うな」

「同じ日本人の○○子さんとは付き合うな。あの女性は派手だから僕は好かない」

と申し付けられることが多かったことだ。


私も最初はびっくりしたのだが、エジプトでは夫が妻の同性との交際関係(友情) に口を挟むことは普通だった。

だから例えば日本人妻さんのA子さんと私が親しくなって、個人的に交流を続けたいなとお互いが思っても、A子さんのエジプト人夫がもし、

「Loloとは付き合うな」

と言えばもうそれで私たちの友情はおしまい..


中には何も言わないエジプト人夫もいたし、何かうるさいことを言われても無視する日本人妻もいたが、束縛されるのが好きな女性じゃないと、ここではいろいろ結婚生活も難しいことが多そうだ。


私が親しくなった日本人妻さんは二人いた。ひとりは私よりずっと年上のカナエさん(仮名)で、もうひとりは私より3,4歳だけ年上だったヨウコさん(仮名)だった。

カナエさんは東日本の雪国ご出身だった。お若い頃の写真を見せてもらった時、私は非常に驚いた。

だって真っ白なのだ、写真の若いカナエさんは肌が真っ白に透き通っているのだ。しかし私の知る、目の前のカナエさんは逆に真っ黒だった。

観光ガイドの仕事を何年も何年も続け、炎天下遺跡を歩いてばかりいるのですっかり焼き上がって真っ黒黒になっていた!

(↑しかもエジ姑には「真っ黒になってみっともない」といつもネチネチ言われていました、家計を助け家族を養うためにガイドをやって日焼けをしたのに...)


カナエさんはずっと若い頃、大病を患い死にかけたことがあった。エジプトで辛いことがあるたびに、その時の経験を思い出し歯を食いしばるようにしているそうだったが、

彼女は日本では養老施設で働いておられていた。

出会いのない職場だった上、物静かな内向的な女性だったので、30半ばになっても男性との出会いはからっきしなかったという。

でも手に職はあることだし、このままひとりで生きていく覚悟はしていた。


ところがある日曜日、公園をウォーキングしベンチに腰をかけていると、隣に外国人の男性が座り、彼女に話しかけてきた。

日本の○○大学に留学に来ているエジプト人ワリド(仮名)だった。年齢は同じだった。

彼はとても物腰が柔らかく日本語もべらべらで、感じがよかった。二人は電話番号を交換した。

そしてその夜以降、毎晩毎晩8時になると、ワリドから電話がかかってくるようになった。

なんて真摯で誠実なのだろう、とカナエさんは感動する。が、後に知る、実は夜5時電話の女、6時の電話女そして7時電話女、9時電話の女もいたことを!!


ワリドはカナエさんに求婚を申入れた。

なぜなら彼女が妊娠したからだ。そしてカナエさんのイスラム教入信手続きと、エジプト大使館での婚姻手続きのため、二人は上京する。

「あれが人生最初で最後の東京だったのよ。大都会でびっくりしちゃって、ずっとワリドにしがみついていたの。でもせっかくだからと、二人で"はとバス"にも乗ったなあ」。


ワリドの留学期間終了に伴い、親子三人でカイロに引っ越しをした。

ワリドの実家に最初は身を寄せるのだが、ギザの保守的な地域だった。

ヒガーブをかぶっていないカナエさんを見た地域の女性や子供たちが一斉に石を投げつけてきた。それがカナエさんの初カイロの"洗礼"だった。


ワリドの仕事は研究職だった。

彼はカイロ大学を出て奨学金でアメリカの大学院と日本の大学院にも留学している博士だ。だけど給料がとにかく悪かった。

だからカナエさんは観光ガイドの仕事を始めた。

ここで彼女の犯した失態は、日給の額とバザールのマージンの額をそのままそっくり夫に見せてしまったことだ。(←先進国の感覚では大した大金ではないが、エジプトのような貧しい国では大金)

自分の妻がどれだけ稼げるのか知った途端、ワリドの生活は派手になった。ベンツの車を買い

(↑エジプトでは車の関税率が凄まじく高いので、日本でベンツを買うという感覚よりもずっと大変なことです)

自分のヨーロッパ製の香水、ヨーロッパ製のシャツにジャケット、ネクタイ、革靴、自分のパソコンは次々買い替え、日本のゲーム機もどんどん買う...

子供はすでに三人も立て続けに生まれていた。だからカナエさんがいくら「貯金」を訴えても、ワリドは妻が稼いだお金はあるだけすぐに使い切った。

あまりにも湯水のごとく使う上、妻のかばんから財布を勝手に取って行ってしまうため、カナエさんは近所にちょっと買い物へ出るのにも、自宅の浴室に行くのにもいちいち貴重品を肌身離さず持ち歩くほどだった。


ワリドの問題は金遣いが荒いことだけじゃなかった。長男への体罰も目に有り余った。

娘や次男には優しいのだが、長男に対してだけはスパルタ教育もいいところで、やり過ぎなほど手をあげ怒鳴り付けていた。(ちなみにワリドの体重は140kgです)

私も含め、周囲は彼女に

「もう子供達を連れて日本に戻っちゃったら」

と助言をした。だけどカナエさんは決して出て行かなかった。

「夫はいい人なのよ。自分が親に愛されてこなかったから、ちょっと心の病気を抱えているだけ。長男が殴られるときは、私が代わりに殴らるようにしているし大丈夫」。

「...」

もしかしたら日本の高齢のご両親に心配をかけたくないとか、カイロの家は豪邸で(←カナエさんの日本での退職金で購入)、お手伝いさんもいたので、なんやかんやでこっちの生活を手放したくなかったのかな、などいろいろ想像はできたが、

夫のワリドだけはいつもぱりっとしたお洒落なファッションでキメているのに(←巨漢だけど)、子供達にもいい格好をさせているのに、

カナエさんだけはいつも疲れきった表情でがりがりに痩せて、ボロボロの服装でなんだか気の毒だった。

しかもワリドは、義父が倒れ妻が日本に一時帰国した時だった。

妻の電話帳を勝手に開き、私やほかの独身の若い日本人女性たちに順番に電話をかけてきた。

「PlayStationをしに遊びに来ませんか」。

ひとりひとりにそう誘った。

むろん誰ひとり行かなかったし、私はこの件を絶対カナエさん本人には言わなかった。でも他の女性たちは彼女に告げ口し、カナエさんはさすがにショックを受けていた...


ある年-

ワリドはアメリカの大学から声がかかった。一年間だけ教授として来て欲しい、と。よく知らないが、その専門分野ではとても凄い人だったらしい。

提示された年収は素晴らしかった。

「これならお金が貯まるね」

夫婦は興奮した。

子供達の学校のことがあるので、ワリドだけが単身赴任をした。息子たちにアメリカの教育を受けさせたくない、という彼の意向が大きかった。



ワリドが渡米した直後、カナエさんと彼女の子供達と私は日本人会に足を運んだ。

するとエジプト人の日本人妻のB子さん(ご年配)がやって来た。B子さんはカナエさんを見るやいなや

「ちょっと、噂で聞いたわよ。ご主人、アメリカに単身赴任したんですって? いいのぉ~?浮気するわよ~。第二夫人を連れて帰って来るんじゃないかしらねぇ」

とクスクス。

「...」

そばにいた私はびっくりだ。夫がいなくなり言葉もよく分からないエジプトで、女ひとりで三人の幼子をこれから一年間、面倒を見て頑張らねばならない彼女によくまあそんなことを..

普通は「ご主人がいなくなって不安でしょう。何かあったら私たち日本人妻の会に頼りなさいね」

と声をかけてあげるものじゃないか!?

いつも穏やかでニコニコしているカナエさんも、さすがにキッとして

「大丈夫です。もし第二夫人を連れて戻ったら、ビシバシこき使いますからっ」。


数ヶ月後、ワリドはアメリカからエジプトの妻のカナエさんに国際電話をかけてきた。

なんと金の無無心だった。

大学に用意された無料の寮に済み、破格の待遇(もちろん給料は米ドル)なのに、なぜエジプトで日当2,3000円の観光ガイドを細々している妻に送金の催促を!?


理由を聞いて私もア然とした。一年間だけの住まいの部屋なのに、最高級の家具、最高級のカーペット、高級な車、高額なパソコンなどなど買い揃えたから、お金がなくなったというのだ。

カナエさんはどうするのかな、と思って見ているとなんと彼女はちゃんと送金してあげていた。

「お金、大丈夫なんですか?」

失礼ながらも私はそう聞かずにはいられなかった。

「ウ~ン、もうお金ないけど今年 (97年) の冬は日本人ツアーがどんどんエジプトに飛んで来るっていうから、ガンガン働いて頑張ってまた貯めるわ」。


ちなみに、これらを聞くとワリドがずいぶん最低の夫のように聞こえるが、それでも私の知っているエジプト人夫の中ではいい方だった。

日本人女性と結婚したものの、実はそれは法律婚ではなくすでに男には正妻と子供達が別にいた、もしくは

結婚した後、夫が日本人妻の全財産を奪いエジプト人の女性と高飛びしたなどというケースなど何度も耳にした。

昔、倉田真由美の『だめんずうぉーかー』という漫画があって、私も読んだが私の知るエジ夫氏たちに比べたら、漫画に登場する男たちは全然だめんずでもなんでもないじゃん、と思ったものだった..


そうそう、私が日本大使館でちょっとアルバイトをさせてもらった時、エジプトの"長老"のような日本人女性がおられた。

多分当時60-65ぐらいに見えたが、とても寡黙で上品で知的な女性だった。

彼女のエジプト人のご主人は素晴らしい学歴と経歴の持ち主で、見た目も落ち着いた人格者だった。お二人は理想の夫婦像に見えていた。

ところがその口数が少なく聡明な彼女ですら、まだ24ぐらいだった私にぽつっと、しかしはっきりとアドバイスを下さった。

「いいこと、これだけは覚えておきなさいね。エジプト人やアラブの男性とは結婚はしない方がいいです。もしどうしても結婚するのなら、自分のお金は徹底的に隠しなさい」。


決してご自身の夫婦の経験からだけでそう仰ったのではないと思う。大使館で長くお勤めになられていたので、エジプト人と日本人女性の様々なトラブルをたくさん、たくさん見て来られたからだろう。

だから、エジプトの日本大使館で婚姻届を提出しても、あれこれ"難癖を付け"られ、なかなか受理されないという噂があったが、

おそらくあえて未然になるべく防ごうということだったのかもしれない。


確かに私も何度も様々なエジプト人男性から

「お金を貸して」と言われた。(お金持ちは言わなかったけど)

日本人の感覚だと、男性が女性、、、しかも外国でひとりで生きて頑張っている若い外国人留学生女性に「お金を貸して」とケロッと言出すなんて考えられない。

しかも感謝がないし、実際「返す」とは言うが本当に返すことはない。なぜならお金がない者にある者が分けるのは当たり前のこと、という教えが宗教にあるからだ。

またお金の使い道のプライオリティーが日本人とは異なっており、私が思うには結婚するなら例えば、将来の蓄えを優先に、なのだが彼らはそうじゃない。

将来の蓄え云々より、自分の車の買い替え、

「香水が最優先だ。香水無しでは外に出られない、食事より香水だ!」と言いきったエジプト人も数名知っている...

こういった価値観の違いへのおおらかさ、理解がないとエジプト人との国際結婚は難しそうだなと思った。

もちろん、うまくいっているご夫婦もおられたが、やはり強烈なご夫婦のことの方が印象に残るし、実際強烈夫婦の方が少なくとも私の周りでは多かった。.



前述のカナエさんはとても優しい素敵な女性だったのだが、如何せん年が私と離れており、子育てでお忙しかった。

だから同じエジプト人妻さんでも、年齢が近くお子さんもいなかったヨウコさんとの方が会う回数が断然多かった。

最初に彼女に出会ったのは、エジプト航空国内線の機内だった。


お互い観光ガイドを別々の旅行会社でやっており、機内の席が隣り合わせになったのがきっかけだった。

「ええ!? ヨウコさんもあの小池夫婦の日本食レストラン事務所でバイトしていたの!?」

「うん、でも一ヶ月で辞めちゃった。あのオヤジ、頭がおかしくてずっと妄想話を聞かされていると、こっちまでおかしくなりそうだったからとても我慢できなかった..」


ヨウコさんも東日本の過疎の村出身だった。が東京のファッション専門学校に入り卒業後、都内のアパレル会社に就職。

しかし働きづめで満員電車の生活にぶち切れ、数年で退職。そしてバックを背負って世界放浪の旅に出る。

まずは香港へ飛んだ。

そこでいきなり運命の出会いがあった。初対面の香港人男性とお互いびびっがあって、初めてなのだけど昔から知っている人、という感覚があった。

向こうもそう感じたらしく、真摯に付き合ってくれた。将来のことも考えてくれた。ヨウコさんは迷った。

だけど

「世界一周するって決めて日本を飛び出した。でもまだここ香港しか来ていない。だからこのまま放浪を続ける。もし世界一周が終わっても、まだあなたが待ってくれているならその時一緒になって欲しい」。

香港の男性は頷いた。

「その代わり、僕に必ず連絡を寄越し続けて欲しい。そして何かに困ったら必ず僕に声をかけて欲しい」。


ヨウコさんはユーラシア鉄道に乗った。イタリアに到着すると、そこで土産店での仕事を見つけた。彼女はちょっとそこで働いてみる。

イタリアの国は彼女に合っていたみたいで、イタリア語もどんどん上達した。香港の男性との文通は続けており、時折公衆電話から国際電話もかけていた。

香港君はちゃんとヨウコさんを思ってくれており、仕事の休みが取れた時、イタリアまでにも会いに飛んで来てくれた。

そして彼女の世界一周旅行を終えたら、一緒になろうと改めて約束をした。


そうなると、いつまでもぐずぐずだらだらイタリアに住み続けられない。

「うーん、どうしよう。スペインに移動しようかな、それとも東欧にもまだ行っていないしなぁ...」

いろいろ考えながらローマの街中を歩いていると、道角にある旅行代理店の貼紙が目に飛び込んだ。

『今ならカイロ行き航空券が格安! たったの○○○○リラ!』


「カイロ...」

世界一周達成をするならアフリカ大陸も行かないとな、やっぱり世界七不思議のピラミッドもこの目で見ないとな、とヨウコさんは思った。

そしてそのままその旅行代理店の扉を開けて入った。エジプトで亡くなる2,3年前のことだった。


つづく

(今回、ちょっと一部ディテールは変えています)


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エジプトではずいぶん沢山の結婚式にも出ました。庶民は通りで夜通し踊って騒ぎ、お金持ちはホテルやクルーズ船で披露宴を行っていました。

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