仕事辞めてロシア留学したら戦争始まって計画パーになった話~モスクワ留学・運命の開戦~
・2022年2月18日金曜日夜半 モスクワ留学第二十一日目(開戦まであと6日)
クビンカの博物館から帰ったのもつかの間、21時には再び家を出てウラジミール君と待ち合わせ予定の駅へと向かった。待ち合わせ場所はチェルキゾフスカヤ駅で、モスクワ北東のやや離れた場所に位置する大きな駅だった。彼と無事に合流し旅程の確認をすると、どうやらサンクトペテルブルクに着く前にボロゴエ駅と言うところで途中下車をするとの事であった。そこではソ連製の蒸気機関車に乗る事が出来るらしく、私は鉄道オタクではなかったものの、粋なサプライズに嬉しくなったのであった。しかしそんな喜びも、モスクワ発の列車の発車時刻は午前2時03分発だという話によって冷や水が掛けられる形となってしまった。出発までの間、私たちは駅の待合室で硬いベンチに座り、寝ることも起きることもままならない中で、時間をつぶしたのであった。
ロシアでは日本と違い新幹線のような高速鉄道が存在しない。モスクワからサンクトペテルブルクまでは片道おおよそ9時間はかかってしまう。とは言え今回は途中に寄り道をする為に、ぶっ通しの列車旅でないのがせめてもの救いであった。乗り込むのは夜行列車と言うこともあり、日本の夜行列車しか知らない私は、ゆっくり寝ることが出来るなと安心しきっていた。しかし期待とは往々にして裏切られるものである。いざ列車に乗り込み、チケットに指定されていた席番号を確認すると、そこにあるのはゆったりとした座席でもなければ、ましてや寝台でもなかった。そこにあったのは何の変哲もない、ただただ普通の硬い二人掛けのビニールシートであった。席を倒すことが出来るのがせめてもの幸いであったのだが、長時間にわたり硬いシートに座ったままというのは、日本の快適な列車に慣れ切っていた私には衝撃の体験であった。
列車は北へと進み始める。モスクワから遠ざかるほど、人の作り出す光は少なくなり、やがて窓の外には暗闇が走るばかりとなった。私はうとうとと意識が飛んでは目が覚めを繰り返し、休むこともままならないまま、気が付けば列車はボロゴエ駅に到着していたのであった。空は明るく白みはじめ、太陽がのぼり始めていた。新しい1日が始まろうとしていた。
・2022年2月19日土曜日 モスクワ留学第二十二日目(開戦まであと5日)
ボロゴエ駅は東の空からさす朝日によって照らされていた。地平線と雲との僅かな隙間から覗く太陽が、赤い列車をより一層輝かせていたのであった。蒸気機関車の出発まで3時間ばかり時間があったので、私とウラジミール君の二人は駅周辺を散策することにした。駅周辺にはレーニン像や、第二次大戦の時の英雄であろう軍人の碑が立っており、ソビエトの香りが強く残っているのを感じられた。足跡もなく降り積もった雪は曇天と合わさって、灰色の世界を作り出しており、寒さが視界いっぱいに広がっていたのだった。やがて警笛と蒸気の吹き出す音が町に響く。機関車がホームに入ったのだ。私たちは駅へと戻り、機関車のもとへと向かった。ホームには人だかりが出来ている。皆が機関車に乗り込む客だった。早朝にもかかわらず、田舎の駅には多くの人が駆けつけていたのであった。機関車は甲高い音を立てて、時折警笛を鳴らしていた。やがて客車が連結され、一同は客車へと乗りこみ始めた。ロシア語の喧噪は何を言っているのかは分からなかったが、その場の空気は私でもよくわかった。誰しもがタイムスリップしたかのような旅の始まりにワクワクしていたのであった。
客車はゆっくりと動き出す。ロシアの鉄道事情には詳しくないが、蒸気機関車と言うことを鑑みても、本当にゆっくりとした走行であった。滑るように走る、とはいかず、のそのそと言った言葉がぴったり合う様な走り出しであった。2時間ほど揺られていただろうか、何度かの停車を挟みながら、やがて列車は終着点のとある田舎の駅へとたどり着いた。私とウラジミール君は固くなった体を伸ばしながら、駅の外へと繰り出した。ボロゴエ駅への折り返しの便はまだしばらく時間がある。ウラジミール君は私を古い教会へと案内してくれた。尖塔の見学が出来るとのことで、私は見学料を支払い、街を一望できる塔の頂きへと螺旋階段を登った。地平線の見えない、白い世界が広がっていた。
静かな田舎町を歩き回った頃にはすっかり身体も冷え、列車の発車時刻も迫っていた。私たち二人は再び客車に乗り込み、一路サンクトペテルブルクに向け長い旅を再開したのであった。ボロゴエ駅に戻る頃には日も沈みはじめ、暗闇が再び空を包み始めていた。機関車との名残惜しい別れの後、サンクトペテルブルク行きの列車に乗り込む。硬いビニールシートに揺られて4時間後、サンクトペテルブルクにようやく到着した頃には、お尻は4つに割れているのではないかと言う程に痛く、またあちこちを歩き回った足はすっかり棒の様になっていたのであった。
サンクトペテルブルクではウラジミール君の友人が我々を迎えに来てくれていた。今夜は彼の家に泊まることになっていた。地下鉄を乗り継ぎたどり着いた彼のアパートはソ連時代に建てられたものであった。有体に言えばボロボロなアパートであった。壁のタイルははがれてコンクリートはむき出しになり、洗面所は工事の途中で放棄されており、水道管がむき出しのバスタブは黒カビが点在していた。エレベーターは今にも止まりそうな異音と共に動いていたので、エレベーターに乗る際にこれほど恐怖を感じたのは後にも先にもこの時ばかりであった。しかしそんなアパートでも、木曜日から数えて三日間ろくに眠れていなかった私にとっては十分に高級宿と言っても差し支えはなかった。ベッドで横になり、瞼を閉じるやいなや、気を失ったかの様に私は眠りについたのである。
・2022年2月20日日曜日 モスクワ留学第二十三日目(開戦まであと4日)
サンクトペテルブルクの朝は朗らかな朝であった。三日ぶりのまともな睡眠に恵まれた私は爽快な気分で目が覚め、スッキリとした頭で新しい一日を迎えることが出来たのだった。この日はサンクトペテルブルクに係留されている巡洋艦アヴローラや砲兵博物館などに赴き、その足でモスクワへと帰ることになっていた。私は部屋を貸してくれたウラジミール君の友人に一宿一飯の恩を述べ、部屋を後にした。最初に向かったのは巡洋艦アヴローラだった。
この艦は19世紀末に起工され、日露戦争では日本海海戦に参加し生還、その後第一次大戦の最中にロシア革命に参加しソヴィエト連邦建国の一役を買った。第二次大戦ではドイツ軍の攻撃により大破着底するも、戦後に修理・保存され記念艦として今に至っている。ロシア帝国、ソヴィエト連邦、ロシア連邦と三つの国を、サンクトペテルブルク或いはレニングラードの地で目の当たりにしてきた歴史の生き証人なのであった。
サンクトペテルブルクを流れるネヴァ川に沿って歩いていると、やがて艦影が見えてくる。マストが高く伸びているその姿は、現代の船にはない巡洋艦らしさが表われていた。艦へと続くタラップの前では所持品検査が行われ、観光客が列をなしていた。入艦料を支払い、危険物は所持していないことを示し、私はタラップをゆっくりと登った。木甲板をギシギシと踏み鳴らし、艦尾から艦首へと歩いていく。日本人として日本海海戦に参加した艦船を歩くのは、感慨深いものがあった。艦首では多くの人が記念撮影をしており、その周辺をロシア海軍の軍人が見回っていた。ふと声を掛けたくなったので、手近な若い軍人に声をかけてみる。「仕事でいるんですか?」と尋ねると、そっけなく「да」とだけ答えられた。何のひねりもない当たり前すぎる質問であった。艦内には進水・就役から現在に至るまでの遍歴が展示されていたが、まだ私のロシア語能力では十分に読み解くことは出来なかったのが悔やまれるばかりであった。
アヴローラの美しい艦影に後ろ髪をひかれながらも、私たちは次の目的地のペトロパブロフスク要塞と砲兵博物館へと赴いた。要塞内部にはバロック様式の美しいペトロパヴロフスキー大聖堂が建てられており、永遠の眠りにつく歴代ロシア皇帝と謁見することが出来た。又博物館では二度と火を吹く事もなく、永遠に身体を休める様々な火砲を見学することが出来た。古くは18世紀にまでさかのぼる様々な兵器に、私は飽きもせずに興奮しっぱなしなのであった。
しかし楽しい時間ほどもあっという間に過ぎるもので、モスクワへと帰る時間も目前に迫っていたのであった。エルミタージュ美術館などの建物も見たかったものの、時間には逆らう事は出来ない。来た時と同じ駅へと移動し、サンクトペテルブルク発の夜行列車に私たちは乗り込んだ。又もや列車の中で夜を明かすこととなった。モスクワにたどり着くのは翌日の朝7時ごろの予定であり、翌日10時からは大学での授業に参加せねばならない。かなりの強行軍だが、これもまたこの旅を象徴するかのような旅程であった。
結局サンクトペテルブルクでの滞在時間は24時間程度だったであろうか。モスクワ、サンクトペテルブルク間での移動時間は往復で通算して20時間近くにもなるために、滞在時間のうち起きている時間と比較するとむしろ移動時間の方が長くなる弾丸ツアーであった。モスクワにたどり着いた頃には空も明るくなりはじめていた。オフィス街を歩けば、新しい一日は目覚め始めていたのであった。
・2022年2月21日月曜日 モスクワ留学第二十四日目(開戦まであと3日)
疲れた身体では道をまともに歩くことも出来ない。ウラジミール君と別れ、ステイ先へと急ぐ私は地図を読み間違え、モスクワのオフィス街をさまよっていた。このままでは授業に間に合う事が出来ない!と焦燥感が私を支配する。30分は右往左往し、ようやくたどり着いたモスクワメトロの駅は、ウラジミール君と別れた場所のほぼ隣であった。私は急いでステイ先へと向かう。荷物を部屋に置き、シャワーを浴びていれば授業開始ギリギリ間に合うか否かという時間であった。ステイ先に急ぎ到着し、授業の準備をし始めた頃、グループチャットに新着のメッセージが飛んできた。
「本日講師発熱により、授業は中止!」
大学に向けて家を飛び出す直前であった。私は爆笑しながら、ステイ先のベッドに大の字で横になった。あっという間に眠りにつき、私は17日の木曜日からぶっ通しで動き続けた身体を、改めて休めることが出来たのであった。
昼過ぎに目が覚める。どうやら先生はコロナに感染したようであった。帰国の予定は2月25日に迫っていた私は、日本へのお土産を購入するためにグム百貨店へと繰り出した。香水、キャビア、チョコレート、ボルシチやコーヒー豆などを購入し、十分な量のお土産を買い込んだ。ロシアを発つ日も近づきつつあったが、ロシアとウクライナの国境周辺もまた緊張がさらに強くなったというニュースが私の目にも入ってきたのであった。まだこの時は戦争なんて起こりはしないだろうと、誰しもが現実から目をそらし続けていた。
・2022年2月22日火曜日 モスクワ留学第二十五日目(開戦まであと2日)
大学の授業の有無の連絡は一切なかった。代わりの先生が来るのか否か分からないので、私はウラジミール君と一緒にまたもやモスクワ観光に赴いた。ウラジミール君はクレムリンの中へと案内をしてくれて、クレムリン内の教会や博物館などを見て回る事が出来たのであった。ウクライナ情勢をめぐり、この時に世界で最も熱い場所であったことは間違いないであろう。しかし観光客や窓口で働く職員にとってはまだまだ日常が続いていたのであった。この日クレムリンの中を散策していた私たちの前に、アゼルバイジャンの首脳を乗せた車列が現れた。プーチン本人と会談したのか否かは分からないが、物々しい警備に守られて黒いセダンが複数台クレムリンの最奥に入っていく様子は、いかにも政治の枢要といった様子であった。
ウラジミール君らと別れたのち、私は宇宙飛行士博物館を訪れていた。ここではソ連時代から現在まで続く宇宙開発史を見ることが出来るはずであったが、コロナ禍による影響で入館予約をしていなかった私は中に入る事が出来なかった。せめてもの慰めとして、人工衛星ボストークのTシャツと、ソ連製スペースシャトル「ブラン」の金属モデルを買い込んだのであった。特に後者は日本円にして6万円相当の高額なものであったが、大の「ブラン」好きの私にとって値段は問題ではなかった。そして何より「購入する理由が値段なら購入しない、迷う理由が値段なら購入する」という私の購買原理に照らし合わせ、しばらくの逡巡の後にええいままよと思い切り、「買います!」と私は店員に啖呵を切っていたのであった。
この時SNSやテレビ報道では、ロシア連邦安全保障会議での政府閣僚によるウクライナ東部ルガンスク州やドネツク州の独立承認をめぐる茶番のような論議を放映していた。私は目の前に開戦の影を見つつも「とは言っても国家間の全面戦争や、大規模な武力衝突はないだろう」と思い込んでいたのであった。
・2022年2月23日水曜日 モスクワ留学第二十六日目(開戦まであと1日)
この日は祖国防衛の日というロシアの祝日であった。各地でミリタリーイベントがなされているとの事で、毎度おなじみのウラジミール君に連れられて、私は郊外のミリタリーイベントに足を運んでいたのであった。ここではSU-26といった希少な自走砲を見ることが出来るばかりでなく、空砲ながらも実銃を発砲出来るイベントがなされていた。モシンナガン、デグチャレフ、バララライカといった往年のソ連製銃火器が実銃として発砲できるイベントである。会場に着くと発砲音が絶えず響いていた。断続して響く銃声や連続して響く銃声に交じり、子供の嬌声と軍歌が大音量で響くにぎやかなイベントであった。
イベント会場に着くと目に付いたのが野外展示されている野砲で遊ぶ子供の姿であった。仰俯角や左右への首振りが出来る野砲は、小さな子供によって操られていた。また銃声の聞こえる場所に目を向ければ、小学生にも満たないような小さな子供が、機関銃を手に空砲を撃っていた。日本では決して見ることのできない光景がそこには広がっていた。
そのような光景を目の当たりにし、私は実銃射撃を何としてでもやりたいと強く願った。ミリタリーオタクとして今まで希少な兵器を見てきたが、歴史に名を残す往年の名銃をも触る事が出来るのは、全く思ってもみなかった機会であったからだ。料金を支払い、待機列に並び、数ある銃器の中から私はこの日、モシンナガンを選んだ。どうせなら引き金を引くだけのマシンガンよりも、いちいちの動作をそれぞれ手で行うボルトアクションライフルの方がよいと思えたのである。映画「スターリングラード」の如く、私はスコープのついたモシンナガンライフルを、空砲とはいえ標的に向けて撃ったのだった。
重たい鉄の塊を私は両手に持った。右手で遊底を引き、むき出しになった薬室に弾頭のない空包を一発だけ込める。弾薬を薬室に置けば、手のひらで遊底を押し込み、薬室を閉鎖する。弾頭が付いていない空包は弾倉に込めることが出来ないので、一発ずつ弾を込める必要があるのだ。銃床を右肩に当て、スコープを覗き込むとT字の照準が揺れながら射撃目標をとらえた。立射の体勢の為、視界はゆらゆらと揺れる。ほんの一瞬、T字の縦線と横線の交差が目標の中心をとらえたその瞬間、私は右手の人差し指に力を込めた。バンという乾いた音が響き、右肩にズンとした衝撃がぶつかった。すぐさま銃床を下げて、遊底を再び引き、薬室を開放する。薬莢が排出され、次弾装填の準備が整った。この時の私は天にも昇る様な快感を感じていたのであった。よもや数百km先の大地にて、実弾のこもった銃の引き金をロシア人とウクライナ人が引き合うことになるとは想像すらせず、無邪気で無知な日本人は、人殺しの兵器で楽しんでいたのである。
実銃を発砲してホクホクと喜んでいた私は、ウラジミール君と別れた後に、以前に夕食を共にした在露邦人の方と「改めてもう一度一緒に飲みましょう」の約束を果たすべく再会していた。帰国を明後日へと控えていた私にとって、この日はモスクワの夜を楽しめる実質的な最後の日であった。和食レストラン「トットリ」にて日本製のビールで晩酌をしたこの夜こそが、日露が正常な関係でいられる最後の夜なのであった。
・2022年2月24日木曜日 モスクワ留学第二十七日目(開戦の日)
朝起き、スマホを開くと目に入ってきたのは「ロシア軍ウクライナへ侵攻」と言うニュースであった。一気に覚醒した私の頭には「まさか!?」という衝撃と「やはりか・・・」という納得の二つの相反する感情が入り混じっていたのであった。歴史オタクとしての私は、国境周辺のロシア軍の動きやそれを分析する専門家の意見を踏まえた理性によって「十中八九開戦はおきる」と思っていた。しかし戦後の日本人としての私、或いは合理性と利益の追求と平和を信じる西側の人間としての私は、感情によって「戦争なんて起きるはずがない」と思っていた。
続々と新しいニュースが私を襲い始めた。ウクライナの首都キエフの空港にはロシア空挺軍が強行着陸し、国境は戦車部隊が突破等のニュースが入り込んできたのである。ロシア陸軍は世界有数の実力を誇り、NATOを脅かし続けてきたソヴィエト陸軍の末裔であった。ウクライナの首都キエフはすぐに陥落するだろう、世界は30年前にベルリンの壁と共に、ソビエト連邦と共に消えたはずの核戦争の恐怖に引き戻されるだろう。第三次世界大戦の幕開けだ・・・。そんな動揺を抑えきれない私はもっと情報を手にしようとステイ先のリビングにてテレビをつけた。画面にはプーチンがウクライナ侵攻を国民に宣言する演説の動画が流れていたのであった。
「開戦だ・・・」
ふとそんな一言を呟いていた。この時、私の夏以降の留学計画や、事業を立ち上げる野望は泡と消え去った。私はまさにこの時、戦争当事国の首都にこの身を置いていたのであった・・・。
~モスクワ留学・運命の開戦~ 完
あとがき
ここまで読んでくださってありがとうございます。
戦争です。ウクライナへの侵略という蛮行が始まり、はや3か月以上が経ちました。皆さんはこの状況に慣れていませんか?あるいは戦争という非日常から目をそらしていませんか?今まさに血を流し、土に還っているウクライナ人、ロシア人の人たちを忘れてはいませんか?
今までの話に登場してきたロシア人、私が触れてきたはロシア人は誰しもが人間愛にあふれ、感情を持ち、そして理性で行動できる人たちでした。同じ人間です。そんな人たちに優しくしてもらった私は、人殺しの兵器で遊んでキャッキャと喜んでいたのでした。なんと人類は愚かで、そして世界は皮肉なものなのでしょうか。この開戦の日を境に、私の目に映る世界は変わりました。残酷な現実を見るようになったともいえるかもしれません。世界は決して理想や斯くあるべきといった夢で成り立っているのではないのです。日本人が戦後過ごしてきた社会は、あまりにも世界の中で特異過ぎましたし、戦後世界はあまりにも西側が主役であり過ぎました。これから一体どのような世界、どのような社会になるのか、私にはわかりません。ですが間違いなく言えるのは「人間社会は自らの力によって作り上げねばならない」という真理が、より過酷な現実として日本人の目の前に現れたのだと言う事でしょう。
さて、もっと楽しい話題に戻りましょう。サンクトペテルブルクは本当に美しい町でした。また博物館で購入したソ連製スペースシャトル「ブラン」の模型も、今となれば二度と手に入らない品物となってしまったので「迷う理由が値段なら購入する」という行動原理は正しい、という裏付けが増えてしまいました。これからの将来、お金が貯まることはどうやらなさそうです。次回以降は帰国に向けての本格的な苦労と、帰国後の隔離生活の話になるかと思います。最後は風俗店への復帰と、noteを綴ることになってしまった不思議な顛末、そしてこのnoteを書くことで巡り合えた新しい出会いや、新しい仕事で私の物語は今日に繋がります。
どうぞ最後まで皆様お付き合い下さいませ。
皆様からのコメントをお待ちしております。
誤字脱字等ありましたら、遠慮なくご指摘くださいませ。
それではまた続きのお話にて・・・。
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