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20010428 確率(2)

 確率というのは小口の人にとって本当に役に立っているのだろうか。「小口の人」というのは宝くじなどでせいぜい数十枚しか購入しない人である。

 このような人たちにとって、宝くじを買って期待することは一等を当てることである。しかし大抵の場合、末等しか当たらない。つまり当たるか外れるかしかなく中間の状態も殆どない。一等が当たる確率は計算出来る。計算出来て具体的な数値となって我々の眼前に示される。ジャンボ宝くじならば数百万分の一$${^{*1}}$$と言った具合にである。

 確率論というのはある事象が起こると言うことが断定できないときにすべての考えられ得る事象を挙げて、それぞれが起こる度合いを調べるもしくは計算することである。宝くじで言えば「一等が当たるという事象が必ず起こる」とは断定できないので「末等しか当たらない事象」や「一等組違いが当たる事象」などの起こる度合いを考えるのが、我々小口の言う「確率」である。

 ところが「一等が当たるという事象が起こる」確率の数値は実生活において「殆ど起こりえない」と「断定」出来る数値なのである。例えば駐車禁止の路上に自動車を駐車しようと考えるのも、ふぐ$${^{*2}}$$の刺身が食べられるのも、検挙されたり中毒死する確率は零ではないが、殆ど全くと言っていいほど無視出来るからであろう。従って「一等が当たらない」確率は有用であるが、「一等が当たる」確率は殆ど意味を成さない。

 しかし一旦その期待しない事象、宝くじで言えば最も期待している事象が起きてしまうと状況が一変する。宝くじの一等が当たれば、生活は変わるだろうし、駐車違反で捕まれば駐車場料金の何十倍の反則金を支払わなければならないし、中毒死すれば元も子もなくなる。

 このように当たるか当たらないかによってその当事者に大きく影響するということはその事象に対処して行動するのが非常に困難ということである。事前に確率を把握していても結局は起こってしまえば、準備が役に立たないことが多い。その確率が低ければ低いほどその事象に対する用意は手薄になるからである。それに確率がいくら低くてもその事象が起これば、当人にとっては確率の意味がなくなる。それは限りなく零に近い確率はその事象が将来起こらないと納得するための物だからである。

 逆に大口の人にとってはいくら小さな確率でも無視はできない。宝くじの胴元にとって一等が当たる確率は収益に関わることなので絶対無視出来ない。同じ確率だが、立場によって大きく意味が変わってくることになる。

*1 第一勧銀 宝くじコーナー
*2 HGMP Resource Centre FUGU Project

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