20020428 携帯電話
他人の携帯電話は何故鬱陶しいか。自分の仲間が目の前で電話をするのは鬱陶しくない。共通の用事で電話を掛けているからである。人と会っている時に用もないのに携帯電話を待ち受け状態にして、掛かってきたらそれに出るというのは、会っているその人に対して失礼である。話をしながら誰か知人がいないかと周りをきょろきょろしているようなものである。必要ならば最初に電話がかかってくることをあらかじめ断るべきだろう。
自分が他人の携帯電話を鬱陶しいと思うのに、自分でその原因がどうもよく判らないというのは不思議である。
据え付けの固定電話で話している人を鬱陶しいと思ったことはない。電車に備え付けられたり、電話ボックスになっていない公衆電話などは携帯電話と殆ど同じ状況になっているはずだが、それ程気にならない。もしかして携帯電話が発する電波が他人の気分を鬱陶しくさせるのだろうか。それは考えにくい。会社の事務所などで携帯電話を使っているところがあるだろう。もし鬱陶しさの原因が電波あれば仕事にならない。
会話の内容が余りにも取るに足らない場合に鬱陶しくなるのだろうか。電話は、人が大勢いる場所ならば急を要する場合に使うという性質が強い。公衆電話は外出中にどうしても電話を掛けたいという時に使う。
各家庭に電話が普及していない頃は、緊急連絡の手段として捉えられていた。そういう時代$${^{*1}}$$は長く続いた。そして家庭内に電話が普及すると「おしゃべり」の道具として使われるようになった。しかし外で使う電話つまり公衆の面前で使う電話は依然として「緊急用」であった。1890年に電話事業が始まって$${^{*2}}$$、携帯電話が爆発的に普及$${^{*3}}$$する前までの100年間は、電話は外でのおしゃべりの道具ではなかった。
これが原因かも知れない。外では電話は「公」のものと認識されていたのが、突然数年間に「私」として使う人が激増してしまった。「私」の要素が増えれば個人主義が浸透していない「公」は乱れ易い。公の秩序が乱されれば、公の場に参加しているという意識のある人は迷惑に感じて当然だろう。
そういう意識の全くない、または稀薄な年少者などは、携帯電話が鬱陶しいという感覚は理解できないのかも知れない。その所為で公共の場では公共放送を使って携帯電話について色々うるさく注意する。この放送自体も鬱陶しい。民度$${^{*4}}$$が低すぎる。
*1 電信・電話の歴史年表
*2 東京・横浜で電話開通(日本の電話創業)
*3 くもりのち晴れ9901
*4 民度とは - Weblio辞書