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20010630 小僧の神様

 あるきっかけで志賀直哉$${^{*1}}$$の「小僧の神様$${^{*2}}$$」という小説の結末部分を改めて知る機会があった。学生時代にこの短編小説を読んだきりで結末部分をすっかり忘れていた。憶えていたのは小僧が鮨を奢って貰った人を神様だと思った$${^{*3}}$$、という事だけでこの小説の構造などすっかり忘れていた。

 全部読んでみた。読むのにかかったのは十数分間だったが、その時間は緻密に構成されたこの小説によって十分満たされたものとなった。こんな面白い小説なのに内容を忘れているというのはどうも解せない。もしかしたら一度も読んでなかったかも知れない。学生時代に現代国語の知識として志賀直哉の代表作の一つ、と記憶しただけだったのだろうか。

 結末の部分が以下である。

 作者は此処で筆を擱(お)くことにする。実は小僧が「あの客」の本体を確かめたい要求から、番頭に番地と名前を教えて貰って其処を尋ねて行く事を書こうと思った。小僧は其処へ行って見た。ところが、その番地には人の住いがなくて、小さい稲荷の祠があった。小僧はびっくりした。――とこう云う風に書こうと思った。然しそう書く事は小僧に対して少し残酷な気がして来た。それ故作者は前の所で擱筆(かくひつ)する事にした。

 この小説の主な登場人物は主人公である秤屋の小僧仙吉、若い貴族院議員Aである。作者志賀直哉は仙吉、貴族院議員Aのそれぞれの視点で、それを交互に切り替えながら話を進行させていく。このように最後には、作者自身が自身の視点でその心境を語り、話を終えている。

 志賀直哉が小僧に対して少し残酷な気になったのは、貴族院議員Aが小僧にとって神様、稲荷様であること決定付けてしまい永遠に小僧を騙すことになってしまうからだろうか。考えているうちにこの作者の心境を確実に読者に伝えるにはこの小説ではこの方法しかないと思えてきた。しかもこの小説はこの終わり方しかないようにも思えてきた。

 小僧の行動、心境を全て観る事が出来るのは作者と読者だけである。そして行動を規定するのは作者、志賀直哉だけである。

 例えば作者が小説の最後で書いたように小僧が稲荷の祠を見つけてびっくりしたと書いたとすれば、ある読者は作者と同じように小僧に対して残酷な気を催すかも知れない。しかしこれは確実ではない。話の展開の面白さは伝わる事は確実だが小僧に対する作者の感情が読者に確実に伝わるかと言えばそうではない。ただ、一旦この結末を書いてしまうともうこの感情を確実に伝える事は不可能になる。小説自体はこれによって完結してしまい、作者が登場する機会は一切なくなる。

 もし最後の部分を書かなかったらどうだったろう。読者の中には志賀直哉が書こうとした内容と同じような結末を想像するものがいるかも知れない。そしてそう考えれば小僧がかわいそうだ、と思うかも知れない。しかしそんな読者は一部なので、これはこれで作者の意図を遍く十分に伝えきれないことになる。

 小説中には小僧に対する作者の心境を代弁できる登場人物はいない。小僧を客観的に観る事が出来る人物に貴族院議員Aがいるが、小僧が彼を神様だと思っている事をAは知る由がない。神様と思っている事を知っているのは作者と読者と小僧本人しかいない。従って作者の「小僧が気の毒である」という思いを読者に伝えたければ、どうしても作者の登場が必要となるのだ。

 この最後の部分を書く事には二つの効果がある。一つは今まで書いたきた通りである。後一つは読者よりも作者が優位にあることを明確にすることである。読者の発想は自由なのでそれを小説の作者が制限をする事が出来ない。しかし作者が小説の世界を超越して本音を書いてしまえば、書いてある内容に対して読者は受け入れるしかない。

 志賀直哉は最後の部分を書く事によって、読者が想像する自由を取り上げてしまっている。もしかしたら志賀直哉は読者が小僧が稲荷の祠を見つけてびっくりする場面を勝手に作って想像されるが口惜しかったのかも知れない。そうかと言って、はっきり結末を書けば単なるおとぎ話になってしまう。志賀直哉が作品としての美学を追究する上で考え出した最終的な形がこの作者の登場だったのであろう。

*1 白樺文学館 志賀直哉
*2 志賀直哉「小僧の神様」
*3 志賀直哉「小僧の神様」(近代小説千夜一夜-小埜裕二)

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