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最後の恋

「お父さんのお嫁さんになるっ」  

小さい頃の彼女は、父親に会うたびにそう言っていた。海外で財を成した父親は日本の家にいることはなく、彼女は母親との二人暮らしだった。数年に一度しか会えない父親は、彼女にとって尊い存在だった。 

大学を卒業して彼女は霞が関の官庁で仕事をするようになった。公にならず先輩の紹介でしか入れなかったせいか「キャリアのお嫁さん候補」を集めているのだと噂されていた。バブルの末期で企業は先行きが不安な状況なのに、官庁では特需の余波がまだ続いていた。 

左手うちわの人たちに誘われるがまま、毎夜のごとくコンパや飲み会に参加した。彼女自身は結婚願望もなく、フランクな関係を求める男性にいつもモテていた。既婚者と合法ドラッグで快楽を求めあったり、婚約者がいる超エリートともスリルのある付き合いをした。

『一緒に住んだら楽じゃないかな』 

夫からのプロポーズは簡単明瞭だった。結婚向き、真面目で如才ない人。丁寧な挨拶を済ませ、すんなりと彼女の両親の承諾を得た。父親が特に喜んで、この結婚は一番の親孝行だという気持ちが彼女の中でしていた。 

結婚と言うものに期待をしていなかったことが彼女の幸いだった。夫との生活において、夫婦らしい会話はなかった。付き合っていたころと同じような友達感覚が続いた。暫くすると生活時間もズレて男女の交わりもなくなった。さらに、彼女が病に倒れたことで夫とは心も体も離れていった。 

病と付き合いながら生活するのは不自由だったが、なんとか過ごしていた。そんなさなか、夫が海外赴任することで昇格できる話が持ち上がった。彼女は友達の成功を喜ぶ気持ちになっていた。 自分の身体のことよりも、夫の人生に幅が広がることに賛同した。 

一人になった彼女は流れにその身をゆだねた。職場の上司と関係を持ったり、学生時代の恋人に呼ばれてアブノーマルな行為を強要されたり、以前お付き合いしたエリートキャリアの人と繋がったり。ランデブーとフェードアウトを繰り返す日々。そんな中で世の中にコロナウイルスが蔓延していった。 

人と会えなくて悶々としていた時、SNSに自分の思いを書き込むと彼女の心は落ち着いた。沢山の出会いを求めているのではなく、理想の人を探したい。そんな一途な不倫の恋に共感してくれる人、似ている状況の人と話していくと友達が増えた。その中の男性からお誘いを受けてお付き合いしたこともあった。 

SNSの男性は、付き合い方が手慣れていると感じて別れた。その直後、友達の投稿に写っている人に一目惚れしてしまった。SNSのグループの中にいることは知っていたが、写真を見て心奪われてしまった。友達からは「彼は不倫はしない」と紹介を断られてしまった。しかしどうしても諦められなくて「友人として」と懇願し、直接連絡をすることができるようになった。

彼は離婚をして独身だった。夫のいる彼女と不倫をすることはできないと何度も断られたが、遂には彼女の押しに負けて会うことになった。彼女からお付き合いを望むことは人生において初めての経験。デートの前に長時間電話で予定を打ち合わせたり、お互いが好きな街のイベントに行ってはしゃいだり。彼女は心から幸せだった。必ず次の約束をして、映画や温泉にも行く予定だった。 

幸せは束の間。彼は元の妻と再婚をすることになった。妻帯者である以上、不倫は出来ないと別れを告げられた。子供のためだけに、感情の冷めた相手との生活に戻る。辛く悲しいはずなのに家族を思う彼の誠実さに彼女の心は激しく動いた。理解しがたいことを飲み込むことが本当に彼を思う気持ちだと信じた。 

都会の喧噪を感じることのできるカフェ。人々は行きかいバリスタはコーヒーを淹れ続ける。彼女の声が周りの音に消えてしまい、たびたび聞き直したが、そんなとき長いまつ毛が優しく動いた。

体の不調はいまだに続くが、歳を追うごとに気持ちが軽くなっていくと言う。何かを手放しているような、楽な気持ち。と同時に身体から失われていくものもあり、彼女は最近性欲が無くなりつつある。

これから老いて死んでいく。そんな手前で初めて理想の相手を見つけてしまった。しかも、そう感じたのは失った後。あまりにもその衝撃は激しく、追い求めたいと思うトキメキの火種が消えてしまった。

彼女が言った。男が女の体を求めるのはわかる。性欲が無くなって行為を望まない女と付き合う男はいないのではと。さらにこれ以上、恋の想い出が増えることにも躊躇いを感じている。そう、これは最後の恋だったのだと。

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