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余韻を楽しむ女 ワインが飲めない男

東京タワーのライトアップが消えた。ベッドから起き上がり、裸のままグラスを持って窓に近づいた。火照った身体にワインが沁み渡っていく。窓にもたれ掛かるとガラスが冷たくて眠気が覚めた。

「奥様に関係を聞かれたとき、あなた目が泳いでいたわよ」

グラスを窓辺に置いて彼女が言った。窓から差し込む夜の街の明かりが彼の顔を照らす。肢体をなめるように見ていたのに『そうだったかなあ』とまどろみの中に逃げようとしていた。

この逢瀬の前、彼女と彼は偶然にも夫婦で同じリゾートに滞在していた。その土地に詳しい彼におすすめのレストランを聞くと『会わない?』と言われ、返事を逡巡していると『ディナーを予約したよ』と言ってきた。こうして不倫相手の家族が集まって会食することが決まった。

地元のワインにぴったりな料理が胃袋を幸せな気持ちにさせてくれた。さらにアルコールで会話がはずみ4人で大いに盛りあがった。彼は夫と意気投合して明日一緒にゴルフをすると言う。彼女も酒を飲み饒舌になった彼の妻に隅から隅まで褒められて気分がよくなった。

南国の夜の風が心地よく顔を撫でた。飲めない下戸の彼が陽気に笑っていた。そんな彼と目があったとき、彼女はつい睨んでしまった。狼狽える彼、そんなことが可笑しかった。ありえない状況なのに楽しんでしまう、自分たちはどこかおかしいのだと彼女は思った。

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彼女の生き方は真面目そのものだった。女子校で青春時代を文学と共に過ごし、大学に入っても本を読みふけった。同じゼミの男子学生と好きな本が一致したことで急速に距離を縮め、その男性と結婚した。

世間は就職氷河期だった。夫はそつなく商社に内定が決まったが、彼女は就職することができなかった。養われることより、自分の力を発揮できないまま存在することに耐えられず、旅に出ることにした。新婚早々バックパッカーになった妻を、夫は温かく見送った。

インド、ヨーロッパ、アメリカ、放浪の旅を続けたある日、彼女は「働きたい」と強く感じて帰国した。正社員にならなくとも、派遣社員としてモーレツに仕事をこなした。

仕事をこなし成果を出すと彼女は正社員に登用され、更に他社からの引き抜きにあった。遂には新卒では門前払いだった会社からオファーが来た。十分過ぎる程に満足が得られることで自己肯定感が爆上がりした。そんなとき彼と出会った。

プロジェクトのチーフだった彼は10歳年上で達観した人だった。それでも彼女は臆せずに対等に接し、意見をぶつけ合った。会社でも話をし、料理屋でも話をし、居酒屋でも話をし、ホテルでも話をした。2人が男と女だったから親交を深めたその先にセックスがあった。

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硝子張りのカフェのカウンターに座って僕は外を見ていた。行き交う人を観察していると飽きなくて楽しい。暫くすると彼女がやってきた。細身な人なのに重そうな荷物を持っている。二つの鞄の一つには商売道具のノートパソコンが入っているのが見えた。

彼女の立身出世物語は聞いててワクワクした。一つの物事がうまくいっていると周りのデキゴトもうまくいくときがある。自分の力を最大限に活かせているなんて、生き方としては最高だ。

それでもうまくいかないことがあったと彼女は言った。SNSに投稿するようになったのは彼と会えない日々が続いた時だった。不倫の全てを公開した。相手の家族と会食したことなど、その数奇な行動にみんなが驚いてくれることで自分を客観視することが出来た。

「SNSはほとんどが嘘かもしれないけれど、私の言ってることは本当のことだけ」

マスクをしながらそう言う彼女は、微笑んでいるように見えた。僕の目の前にいる女性は大げさに話を盛ったり、人を欺いたりしないタイプの人間のように思える。彼女の根本に不倫をしているという意識はない。潜在意識の中では、夫以外の男に抱かれる甘美な背徳の行為と認識している。だから夫には息をするように嘘をつくことができる。

その彼とは2年以上会えなかった。お互い忙しくなり過ぎて、すれ違いが続き優先順位が変わってしまった。フェイドアウトするように彼女から別れを告げた。

そんな男たちが彼女には何人かいる。別れても暫くするとそれぞれから連絡が来るそうだ。彼女は頃合いを見計らって、また男女の関係のない友達に戻る。賢い男たちは下心があることをおくびにも出さない。彼女に新しい男がいることを知っているからだろう。

彼女の話を聞いていると、婚外が人生のメインディッシュではなく、コース中に常に注がれるアルコールのように感じる。それがなければ人生は味気ない。ワインを誰と一緒に飲もうか彼女は今夜も考えているだろう。

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