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【ゆるっと西洋史】(3)東ヨーロッパ世界の成立

前回の投稿から2週間ほど空いてしまったが、今回の記事は東ヨーロッパについてである。東ヨーロッパと言うとどの辺りをイメージするだろうか。現代ではポーランドなどの東欧をイメージするかもしれないが、今回メインに話していくのは、現代で言うギリシアやコンスタンティノープル(現代のイスタンブル)辺りについてである。ぜひ世界地図を参照しながら読んでもらいたい。

ビザンツ帝国

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、ゲルマン民族の大移動の影響をあまり受けることなく、1000年近く存続した。西ヨーロッパとは宗教(ローマ=カトリックとギリシア正教)と政治で対立し、イスラーム勢力による侵攻を受けながらも、紀元前以来のヘレニズム文化とスラヴ人の文化が融合することで、独自の東ヨーロッパ世界を構築するに至った。

初期:ユスティニアヌス帝の治世

初期のビザンツ帝国ではローマ帝国と同様に専制君主制が維持された。専制君主制というのは、簡単に言えば君主が政治に関するすべての決定権を持っているということである。
ユスティニアヌス帝は周辺国の征服や地中海の制海権を行うと、古代ローマ帝国のように地中海での覇権を一時的に掌握した。内政面でもかつてのローマ帝国の権威を回復するように、首都コンスタンティノープル(旧ビザンティウム、現イスタンブル)のハギア=ソフィア聖堂の再建のほか、多くの教会の建設を行った。法整備も進め、古代ローマ帝国から存在する法を集大成した『ローマ法大全』の編纂を法学者トリボニアヌスらに命じた。経済面では養蚕業を奨励し、開墾や植民も進めた結果、首都コンスタンティノープルは経済の要衝として、東西の物産が集まり、人口も増え、文化交流も行われた。

ユスティニアヌス帝の死後、帝国の領土は徐々に縮小していった。7世紀ごろには宮廷・行政における公用語はラテン語からギリシア語へ変わり、「東ローマ」を自称しつつもその文化的性格はギリシア的・東方的・オリエンタルな性格を強めていった。

中期・後期:聖像禁止令と十字軍

中期ビザンツ帝国では、皇帝レオン3世らが聖像崇拝を厳禁とする政策を採り、聖像を崇拝する教会の弾圧を行なった。ローマ=カトリック教会では、文盲の市民たちに布教する上で聖像や聖人を描いたモチーフを利用することがあった。その点でローマ=カトリック教会とギリシア正教会の対立は深まっていく。

後期ビザンツ帝国ではイスラーム勢力の侵攻が激しくなり、宗教的・政治的対立を超えて、アレクシオス1世がローマ教皇に救援要請を求めて十字軍遠征が始まった。第4回十字軍遠征では首都コンスタンティノープルがヴェネツィアと十字軍によって占領され、ラテン帝国が成立したものの、首都を奪還され短命に終わった。
その一方で東方ではオスマン帝国が強大化して14世紀半ばにバルカン半島に進出し、周辺のスラヴ系の国家や民族を征服していった。1453年、メフメト2世率いるオスマン帝国軍はコンスタンティノープルを占領し、1000年近く続いたビザンツ帝国は終焉を迎えた。

ビザンツ文化

ビザンツ文化の特徴として、ヘレニズム文化に基づくギリシア・ローマの古典文化と、オリエント(西アジア)の文化を融合した独自の文化であるという点が挙げられる。
特に重要なのはキリスト教美術の分野である。聖像禁止令については先ほど述べたが、その代わりにビザンツ帝国では教会内部のモザイク画やイコン(聖画像)と呼ばれる独自の宗教画が発達した。有名な教会に、ハギア=ソフィア聖堂やサン=ヴィターレ聖堂、サン=マルコ聖堂などが挙げられる。

ビザンツ文化の歴史的意義は、ギリシアの古典(哲学や数学など)を継承・保存したことだろう。これはビザンツ帝国が滅びてイスラーム勢力に支配されても文化として伝えられ、イタリアのルネサンスにも影響を及ぼし、学問の発達の助けとなった。そして、ローマ=カトリック世界とは異なるキリスト教文化圏を築いたことも重要である。これはビザンツ帝国滅亡の後、ロシアに引き継がれることとなる。

スラヴ人の動向

スラヴ人には西スラヴ人・南スラヴ人・東スラヴ人などと細かく民族があるのだが、今回の記事では東スラヴ人について取り上げる。
東スラヴ人は東方ロシアに拡大し、バルト海・黒海・カスピ海を結ぶ交通の要衝であるノヴゴロドやキエフを中心に幾つかの小国家を形成していた。882年にキエフ公国が成立し、周辺国のビザンツ帝国などに侵略行為を行っていた。大公ウラディミル1世は国内の反乱分子を抑え、ビザンツ皇帝バシレイオス2世の妹と結婚し、ギリシア正教を国教として、国家の安定を図った。だが繁栄の一方で農民の農奴化も進み、土地に半永久的に縛り付けられ、領主に貢納し搾取される階級社会も生まれた。ウラディミル1世が亡くなった後は衰退し、13世紀以降はモンゴル支配に置かれることになる。

15世紀頃になるとロシアの諸公国の中でもモスクワが勢力を強め、イヴァン3世が周辺の公国を併合して、ほぼロシアの統一とも言えるモスクワ大公国を完成させた。1480年にはモンゴル勢力の支配から完全に脱し、ツァーリ(皇帝)の称号を用いて統治を進めた。この時代に大公権力の強化と農民の農奴化がさらに進められ、イヴァン4世(雷帝)がこれを引き継ぎ、16世紀東欧の強国として君臨した。

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