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私 / 俺

マガジン「考え事」シリーズ、最近ポンポンと書きたいことが思いついてちょっと楽しい。だいたい内容は鬱々としているが。今日もそのひとつ、セクシュアリティとジェンダー、性的指向について話したいと思う。

「私」って何だろう

物心ついた時からスカートやフリフリした可愛らしい服が苦手だった。ピアノの発表会で着るドレスも嫌だった。バレエのチュチュは好きだったし、別に男の子になりたい訳じゃないけど、「女の子らしく振る舞いなさい」と言われることが苦痛だった。「女の子はこうあるべき」というような古い価値観が私を縛り付ける。私立幼稚園・小学校に通っていたので尚更。反発心から男の子とばかり仲良くしていたら同性の友達が消えたのは面白い。

中学は受験し、「女子学院中学校」に進学した。自分で言うのもアレだが、私立中学女子御三家の1つで、模試の偏差値は70くらいらしい。まあ要するに進学校で、1870年創立の日本最古の女子校である。「自由な校風」が売りで校則は4つ(上履きを履く、校章を付ける、登校したら下校時間まで外出しない、課外活動は届ける)だが、実際それすら守っていなかった気がする(服に穴があく…)。とにかく、学力が優れているのはもちろん、様々なバックグラウンドの生徒が集まり、校則がない分自らを自分で律することのできる人たちの集団であった。多様な価値観をお互いに認め合い、性差による争いを生まないこの6年間は、色々あったけれども最終的に宝物だと思っている。
教師も先輩も「女の子らしくしなさい」なんて一言も言わない。一見男の子に見える子もいる。とても心地よかった。私も長かった髪を切ってボーイッシュな髪型にし、楽に動けるズボンで登校する機会が増えた。冬もあたたかい。スカートを履きたい時は履けばいいし、ズボンがいい時はズボン。選択肢があるということがとても嬉しかった。

女子校ではいわゆる「宝塚」的な現象が発生する。ショートヘアですらっとしてスポーツや音楽、学業で優れた才能を持ち、同期や後輩から一種の崇拝に近いような憧れを抱かれるカリスマの登場である。私自身、他の部活や自分の部活(管弦楽部)の先輩に対して強い憧れを抱いたし、その頃はまだ「憧れ」だけで済んだ。しかし、歳を重ねるにつれ、この感情が一体何なのか分からなくなっていく。

高校生になると、ほとんどの女子は第二次性徴を迎えていわゆる「大人の女性」の身体になっていく。それは自分も例外ではなかったし、周りも同じだった。しかし、これは大きなコンプレックスを私に植え付けることになる。私はあまり曲線的な体型にはならなかった(察して欲しい)。これは現在に至るまでいじられ続けることになるし、当時はとてもコンプレックスだった。今は男装もするのでそれほど気にしてはいないが(負け惜しみではない)。
体育の授業の際には着替えがあるが、どうしても他の人の身体を見てしまうし、なんだか嫉妬とは違う感情が湧いてくる。当時の私はそれを「何」なのか認めたくなかった。認めたら私の居場所がなくなってしまう気がしたから。

高校1年生の時に初めて彼氏が出来たのだが、何か「違う」という感覚があった。一緒にいて楽しいけど、「恋愛」では無いような気がする。自分の本当の感情を伝えられないまま、私の留学を機に自然消滅してしまった。恋愛向いていないんだなとその時は割り切って、以降は他校の男女とワイワイするだけで恋人は作らなかった。

大学は東大に落ち、早慶は知り合いが多すぎて嫌だったので、仕方なく(というのも失礼だが)上智大学に進学した。中高以上に大学は様々な人がいるし、何よりこの大学は外国人留学生や帰国子女が多いので、更に多様な価値観を持った人が沢山いた。それはとても恵まれたと思う。ただ、人格を形成する10代の大半をクセの強い女子校で過ごした私にとって、「共学」の大学生活は新鮮であると同時に、新たな苦痛をもたらした。可愛らしくフェミニンな姿の女子学生や、健康的な日焼け具合で肌を露出している帰国子女や留学生、いずれにしても「女らしさ」を強調する女性が多かった。最初は環境に馴染もうと私も努力したが、どう頑張っても違和感を感じてしまって続かなかったし、苦しかった。この違和感は何なのだろう。
そして、そういう「女の子らしい女の子」とは仲良くなれなかった。別に喧嘩をしたわけでもなく、入学当初は話したりもしたが、関係が続かなかった。また同性の友達が作れなかった私は、2年生で休学した後に後輩の男子学生たちとたばコミュニケーションで仲良くなり、そのまま卒業した。

「俺」という自我の出現と性的指向

高校生くらいから女性を目で追う機会が増えたことは先ほど話した。その際に胸を締め付けてくる感情が「恋」であると気づき、それを自分で受け入れられるようになったのは割と最近である。可愛らしい女性に対して抱く感情を、最初は一種の庇護欲だと認識していたが、それだけで胸が締め付けられたり、気分が昂まったり、彼氏ができて落ち込んだりはしないだろう。だが、その感覚を認めてしまったら私の居場所は無くなってしまうのではないか、人から避けられてしまうのではないかと怖かった。
ひとまず、女性と付き合ってみないとわからないと思い、同性愛者向けのマッチングアプリに登録してみた。まあこれに関してはあまりにも「メンヘラ」が多く(他人のことを言える立場ではないが)、交際したら大変なことになりそうだったので撤退した。

コロナ禍に時間を持て余し、かねてより憧れていたコスプレにチャレンジした。男装をする中で、不思議と自分が今まで抱えていた違和感が消えていくと同時に、男装をしている間はまるで人格が変わったような感覚になることに気がついた。キャラクターのコスプレ以外にも、普段から男装をしてみたところ、自然と数少ない女友達に対して接し方が変わってしまったような気がする。それは下心ではなく、車道側を歩いたり、荷物を持ってあげたりなど、男性が女性に対して行う紳士的な行動の一つにすぎない。ただ、男装をしている時は「私」ではなく「俺」になっていた。
この体験が心地よかったので、仲のいい数少ない友人の前では男装をする機会が増えた。その一方で、異性と交際する際には相手が求めるであろう「女性」を演じることに徹した。二つの自我に挟まれて、今日は「私」明日は「俺」というような日々を過ごすこともあった。

親は薄々私の性的指向に気づいていたようで、カミングアウトした時も別に驚いてはいなかった。好きに生きてくれとだけ言っていたような気がする。今は私のことを理解してくれて、私の男装を格好いいと言ってくれるパートナーがいるから本当に恵まれていると思う。でも、これから先も性別や性的指向で苦しむことはたくさんあるのだろう。書くことに飽きてしまったので、ここでおしまい。

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