モデルニスモの都・バルセロナ
かつて私が18泊20日にわたる卒業旅行の果てにたどり着いた最後の地がバルセロナであった。
この旅が終わればついに学生時代も終わりを告げ、社会へと放り出されてしまう。そんな思いを胸に旅の大団円として訪問したルセロナの街について取り上げよう。
バルセロナはこんな街
バルセロナ(Barcelona)はスペイン北東部カタルーニャ州の州都である。
1世紀頃にローマ帝国の支配する植民都市として建設されたことに端を発したバルセロナは、現在では人口162万人と首都マドリードに次ぐ国内第2の規模を誇っている。
観光都市として知られていることは言わずもがな、国際会議や展示会なども多く行われ、政治や文化など様々な面で重要な役割を担う都市であるといえる。
バルセロナ観光
世界的な人気観光地であるバルセロナの見どころは多岐にわたる。
ゴシック様式が格式高いサンタ・エウラリア大聖堂などの名所を回るのもよいし、
市場やバルでスペインらしい食を楽しむのも良い。
しかし、やはりバルセロナ観光のハイライトと言えるのはモデルニスモ建築の名所巡りだろう。
モデルニスモ(Modernismo)建築とは、バルセロナを中心とするカタルーニャ地方で19世紀末~20世紀初頭に流行した建築様式である。
大航海時代に栄華を誇ったスペイン帝国が、海外植民地を次々に失うなど徐々にその輝きを失い、衰退していった19世紀において、バルセロナはそれとは対照的に産業革命による工業都市や貿易の拠点として大きく発展した。
そもそもバルセロナを中心とするカタルーニャ地方は、古くはカタルーニャ君主国として独立した国家であったものの、15世紀末のスペイン王国との併合後、歴史的に抑圧されていた。
そんな中、経済的な発展を遂げたカタルーニャ地方では、民族文化の復興(レナシエンサ)を目指す運動が盛んになり、当時ヨーロッパで盛んになっていたアール・ヌーヴォーにイスラム建築の影響などの独自性を加えた形でモデルニスモとして発展を遂げていたのである。
ガウディの建築
そんなモデルニスモ期を代表する建築家がアントニ・ガウディである。
カタルーニャ地方に産まれ、バルセロナを中心に活躍した彼の建築は、アントニ・ガウディの作品群として世界遺産にも登録されている。
なかでも最も有名なものと言えばサグラダ・ファミリアだろう。
もともと1882年に着工した際には別の建築家の手で設計されていたサグラダ・ファミリアを、2代目の建築家として引き継いだのがガウディである。
ガウディは1926年の死去までサグラダ・ファミリアの建築にライフワークとして取り組み、着工から140年の時を経た現在も着々と建設が進められている。
世界遺産にも登録されているサグラダ・ファミリアであるが、厳密に世界遺産の対象となっているのは地下聖堂と生誕のファザードである。
キリストの誕生から初めての説教を行うまでが示された生誕のファザードは、イエスの母マリアや父ヨセフらが登場し、キリストの生誕から成長までの代表的なシーンが描かれている。
一方で西側に位置する受難のファザードでは、最後の晩餐から処刑・昇天とイエスの処刑から復活までが描かれる。
建設中とはいえ、建設開始からすでに1世紀以上が経過しており、建設が進む部分と、建設済みの部分のコントラストが、建設に要した時間を感じさせる。
内部も見学可能だが、まだまだ建設中だ。
当初は22世紀頃まで完成しないと言われたサグラダ・ファミリアであるが、
技術の進歩により、2026年のガウディ没後100年の完成を目指して作業が進められている。
また、グエル公園もガウディを代表する作品の1つだ。
もともと実業家のエウゼビ・グエイ(グエル)伯爵の支援のもと、ガウディの設計で計画された住宅地であり、当時工業化が進んでいたバルセロナにおいて、自然とともに暮らすことを目指して設計されたとされる。
お菓子の家のような守衛と管理人の家は、実際に童話のお菓子の家をイメージしているそうだ。
公園内で印象的なのは鮮やかな装飾だ。
これらの粉砕タイルを利用した装飾はガウディの助手であったジュゼップ・マリア・ジュジョールによるものである。
この場所には60軒の住宅の他に市場なども設置され、1つのコミュニティを形成させる計画であったものの、この計画は市民の共感を得ることができなかったようで、結局2軒しか住宅は売れることはなく、計画が完成することはついになかった。
この他にもカサ・ミラやカサ・バトリョなど、多くのガウディ建築を楽しむことができる。
しかしながら、グエル公園まで来たところで、一緒に訪れていた友人が「なんか疲れたわー」といってホテルに戻ることになってしまったので、モデルニスモの都などと銘打った記事にしていながら、それら他の建築を訪問していないのである。
次回訪問時にはもっと時間をかけて回りたいものだ。
甦る記憶
さて、この記事を書いていて唐突に思い出した事がある。
それはビーチを歩いていたときのことだ。
地中海に面しているバルセロナには、海岸線に港やビーチも点在しており、見どころの一つとなっている。
我々もご多分に漏れず、湾岸部を散策していた。
その時である。
海に入るにはまだ肌寒い、そんなビーチの向こうに奇妙なフォルムの建造物が目に飛び込んでくる。
隅田川沿いに建つスーパードライホールを彷彿とさせるそのフォルム。
これはもう間違いない。
ウ○コだ!金のウ○コだ!
キャッキャと無邪気にはしゃぐ私達。
そこには、翌月から社会人として大海原に漕ぎ出していくのだという覚悟も決意も露ほども感じられない。
ウ○コの前に男は皆無力なのである。
あれから十数年。改めて考えてみると、あれは一体何だったのであろうか。
調べてみることにした。
あの日見たウ○コの名前を僕らはまだ知らない。
バルセロナ 金のウ○コ |検索|
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出て来ない。
バルセロナ ウ○コ |検索|
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・
出て来ない。
なぜウ○コの情報が出てこないんだ!
躍起になってキーボードを叩く私。
そこには、10年を超える社会人生活で培われて然るべき社会人としての自覚も節度も微塵も感じられない。
ウ○コが私を幼稚にするのではない。もともと幼稚な私をウ○コが暴いたに過ぎない。
ウ○コは人の幼稚性を映し出す鏡なのである。
いかにネットで調べても出てくるのは、バルセロナにはクリスマスに「カガネル」と呼ばれるトグロを巻いた大便をひり出す男の人形を飾ると言う習慣があるという情報ばかりだ。
それはそれで「なんそれ!」と思わないでもないが、カガネルをクリスマスに飾るとか、カガネルを日本語では糞ひり男と呼ぶなどといった事は、今は大した問題ではない。
今重要なのは、あくまで地中海沿いに鎮座していたあのウ○コである。
あれは幻だったのか。
改めて友人の撮影したカメラのデータも参照してみる。
間違いない。
やはり、あの日あの時あの場所にウ○コは存在していた。
仕方がないのでストリートビューで海岸線をしらみ潰しに探していく。
程なくしてそれらしいものが見つかった。
その近影がこちらである。
メッシュ状の薄い金属で作られたモニュメントのようだ。
これは、1992年のバルセロナオリンピックに際して、カナダ人建築家フランク・ゲーリーの手でデザインされた52mの像は、金魚(goldfish)をイメージして作られたものであるそうだ。
つまるところ、誠に遺憾ながらこれはウ○コではない、ということだ。
いつも現実とは儚いものである。
少しだけ大人になった気がした。
バルセロナのマグネット
バルセロナのマグネットがこちら。
比較的大型のマグネットにはガウディ建築をはじめとしたバルセロナの名所が詰め込まれている。
しれっと右端に入り込んだウ○コがポイントである。
古くはローマの時代から、時代の移り変わりを示す様々な文化が混ざりあった街バルセロナ。
私が次にバルセロナを訪れるのとサグラダ・ファミリアが完成するのは果たしてどちらが先であろうか。
いずれにせよ、もう少し時間をかけて各時代の建築を楽しみたいものだ。
そして、その際には改めてフラットな目で地中海に飛び込まんとする金色の彫刻を眺めてみたいものである。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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