1分小説 彫刻への恋
最初は、ただの仕事だった。
美術館の新しい展示の準備で、 古代ギリシャの彫刻を整理していた時。 それは、ふとした瞬間に始まった。
夕暮れの光の中、彫刻の横顔が、 かすかに呼吸をするように見えた。
完璧な均整。永遠の美。 その瞬間から、玲子は変わってしまった。
毎朝、開館前の静けさの中で、 玲子は彫刻の前に立つ。
埃を払い、光を確かめ、 そっと、微笑みかける。
「最近、変わったんじゃない?」 同僚が心配そうに声をかける。
「いつも彫刻の前にいるし」
玲子には分かっていた。
この気持ちが、異常に見えることを。
彫刻に恋するなんて。 見返りのない、一方的な想い。
でも、それは違う気がした。
この想いは「狂気」なんかじゃない。
むしろ、今までの自分が、 本当の美に気づいていなかっただけ。
「恋は魂を高みへと導く翼」
大学の講義で習った言葉が、 今になって心に響く。
毎日、彫刻を見上げながら、 玲子は少しずつ理解していった。
愛とは、所有することじゃない。
触れることも、報われることも必要ない。
ただ、そこにある美しさに、 心を澄ませること。
永遠を、一瞬の中に見つけること。
「大丈夫?」という声も、 いつしか気にならなくなった。
夕暮れ時、差し込む光の中で、 彫刻は柔らかな影を落とす。
その姿に、玲子は微笑む。
これが愛なのだと、今は分かる。
完璧なものを前にして、 ただ、畏敬の念を抱くこと。
それだけで、胸が満たされる。
「愛とは、美しきものを求める心」 古代の哲人は言った。
玲子は今、その意味を知っている。
この想いそのものが、既に完璧なのだから。