小説「西成のチェ・ゲバラ」8 革命家が医師国家試験を受験するとどうなる?
第八話 試練との闘争
「CTスキャンにおける早期肝細胞癌の特徴的所見は...」
まちは教科書を読み上げる。
「造影早期相でenhanceされ、後期相でwash outを示す」
その言葉の意味を、ゲバラは瞬時に理解していた。
彼の時代には存在しなかった技術。
それでも、医学の本質は変わらない。
「腫瘍の血流を見る」
ゲバラは静かに言った。
「それは昔から変わらないな」
診療所の机の上には、現代医学の教科書が山積みになっている。
一ヶ月後の医師国家試験に向けて、50年の医学の進歩を埋めなければならない。
「先生、こんなの全部...」
まちの声には不安が混じる。
「大丈夫だ」
ゲバラは微笑む。
「基礎は同じだ。新しい技術は、それを精密にしただけ」
彼は立ち上がり、カルテ棚から一枚の写真を取り出した。
1950年代のレントゲン写真。
アルゼンチンの病院で、自分が撮影したものだ。これも、医療鞄に入っていた。
「見てごらん」
写真を掲げる手が、夕陽に透けた。
「影の形で病気を読む。それは今も変わらない」
まちは黙って頷く。
先生の目に、医師としての誇りが宿っていた。
その時、診療所の外で物音がした...
ペケペケが、古い心電図モニターを抱えて入ってきた。
「先生、これ使えるで」
埃を払いながら、診療所の隅に置く。
「町工場のおっちゃんらが、壊れた中古品を買うてくれたんや」
「悪いな」
ゲバラが言いかける。
「ええって」
ペケペケは配線を確認しながら言う。
「先生が帰ってきた時からな、みんな待ってたんや」
まちは黙って二人を見つめていた。
西成の街が、少しずつ動き始めているのを感じる。
*
「MRIにおける拡散強調画像は...」
夜遅く、まちの声が診療所に響く。
「待て」
ゲバラは手を上げた。
「これは興味深いな」
彼は古いノートを取り出す。
アルゼンチン時代の研究メモ。
「神経の伝達経路を、目で見ることができる...」
その目が輝いていた。
「先生、もしかして...楽しんでます?」
まちが思わず笑う。
「医学は面白い」
ゲバラは静かに答えた。
「技術が進歩しても、人の命を救うという本質は変わらない」
窓の外で、誰かがギターを弾き始めた。
又吉の声が、夜風に乗って流れてくる。
「♪誰が為に 銃を取るのか...」
古い労働歌が、西成の街に染みていく。
ゲバラは窓の外を見つめた。
かつて革命のために持った銃が、またメスに戻ろうとしている。
「先生」
まちが、教科書から目を上げる。
「この問題、解けました?」
ゲバラは頷く。
学ぶべきことは多い。
でも、それは重荷ではなかった。
*
試験日まで、あと三週間。
工場の黒塗りの車は、相変わらず診療所の前をゆっくりと通り過がっていく。
だが、今は誰も怖れてはいなかった。
準備は、着々と進んでいた。
*
試験当日の朝は、妙に静かだった。
まだ暗い西成の路地を、ゲバラは一人で歩く。
白衣ではなく、古びたスーツ。
ポケットには、キューバのパスポートと受験票。
市場の入り口で、人影が待っていた。
「先生」
八百屋の大将が、コンビニの袋を差し出す。
「おにぎりや。奥さんが作ったんや」
その横で、魚屋の親父も何か言いかける。
タバコ屋も、まだ暗い店先で手を振る。
「誰もが応援してるんですよ」
後ろから、まちの声。
「こんな時間に」
ゲバラは振り返る。
「当たり前や」
又吉もギターを背負ってやってきた。
「先生がここに来てから、この街が変わり始めたんやから」
*
試験会場は、冷たい蛍光灯の光に満ちていた。
周りは若い受験生ばかり。
ゲバラの白髪交じりの髪が、浮き上がる。
「はい、開始します」
監督官の声が響く。
問題用紙を開く。
現代医学の知識が、次々と問われていく。
CTやMRI、新しい治療法。
だが、ゲバラの手は迷わない。
「人の命を救う」
その一点で、すべてが繋がっていた。
アルゼンチンの医学生だった時も、キューバの戦場で傷病兵を診た時も、西成の診療所でも。
*
夕暮れ時、試験会場を出る。
階段を下りると、まちが待っていた。
「どうでしたか?」
「大丈夫だ」
ゲバラは静かに答えた。
「医学は、50年経っても変わらないものがある」
「それは?」
「人の痛みに、寄り添うということだ」
帰り道、又吉のギターの音が聞こえてきた。
今日は珍しく、ジョンレノンの曲。
「♪Imagine all the people...」
結果が出るまでの二週間。
西成の街は、新しい町医者の誕生を、静かに待っていた。
*
合格発表の朝。
診療所に人が溢れていた。
まるで、祭りの前の準備のように、誰もが何かに気を配っている。
「先生、どうや」
タバコ屋の親父が駆け込んでくる。
「発表、ネットで見られるらしいな」
まちがスマートフォンを操作する。
画面に数字が並ぶ。
受験番号の羅列。
そして...
「合格です!」
まちの声が診療所中に響き渡る。
歓声が上がる。
ゲバラは静かに頷くだけだった。
だが、その目には確かな光があった。
「これで...」
又吉が言いかける。
「ああ」
ゲバラは立ち上がる。
「正式に、町医者になれる」
*
「診療所の名前、どうしましょう」
まちが、新しい看板の下塗りをしながら言った。
ゲバラの医師免許取得と時を同じくして、彼女も看護学校を卒業した。
「まともなところで働け」というゲバラの苦言も虚しく、まちは診療所で働くことにしたのだ。
「『ゲバラ診療所』は...」
「それは使えないだろう」
ゲバラは煙草の煙を吐き出す。
「何か、適当な...」
「適当でいいんですか?」
まちは真剣な顔をする。
「先生が来てから、この街が変わり始めたんです。もっと、ちゃんと...そうだ!」
まちの声に、少し躊躇いが混じる。
「私、映画で観たんです。先生の...いえ、チェ・ゲバラの若い頃の」
ゲバラの手が、わずかに止まる。
「医学生の時、南米を旅して...」
まちは続ける。
「バイクの名前が、確か...ポデローサ」
路地に、夕陽が差し込んでくる。
1952年、アルゼンチン。
医学生と古いバイク。
村から村へ。
ハンセン病患者たちの colony。
鉱山の労働者たち。
先住民の子供たち。
「ポデローサ...」
ゲバラは、その名を静かに反芻する。
力強い者。
その力は民衆の中にこそある。
「ポデローサ診療所」
まちが、おそるおそる言う。
「変、ですか?」
「いい名前だ」
ゲバラは微笑む。
「この街にも、力は必要だからな」
「理想を追いかけた名前...ですよね」
看板に、ペンキが塗られていく。
夕陽に、まだ乾ききっていない文字が、赤く輝いていた。
*
その時、表の通りが騒がしくなった。
工場の車が、また来ていた。
だが今度は、一台ではない。
「先生」
まちが心配そうに立ち上がる。
「大丈夫だ」
ゲバラはゆっくりと白衣を着る。
「もう、隠れる必要はない」
黒塗りの車が三台、診療所の前に停まった。
今度は、本社からの重役まで同席している。
副社長の背後には弁護士が二人、さらに見慣れた刺青の男たちの姿。
「これで終わりにしましょう」
副社長が、勝ち誇ったように言う。
「警察にも入管にも通報済み。これ以上、余計なことを...」
「余計なこと?」
ゲバラの声が、静かに響く。
「人の命を救うことが、余計なことなのか?」
「無免許医療の証拠もある。観念して...」
副社長が封筒を振りかざす。
「それより」
ゲバラは、ポケットから一枚の紙を取り出した。
「こちらの証拠の方が、興味深いんじゃないか」
光を受けて、医師免許証が輝く。
「なっ...」
弁護士の声が裏返る。
「合法的な診療所だ」
ゲバラは一歩前に出る。
「そして、これも」
キューバ政府発行のパスポート。
弁護士の顔が歪む。
「それだけじゃない」
まちが、タブレットを差し出す。
「この半年間の、すべての記録です」
画面には、工場での残業風景。
深夜まで働かされる実習生たち。
労災で怪我をしても、病院にも行けない彼らの姿。
「これが、どこに...」
重役が声を震わせる。
「みんなのスマホで撮った写真や」
又吉が言う。
ペケペケが前に出る。
「警察にもテレビ局にも情報提供済みや。ここまで証拠がそろえば、あいつらも動く」
副社長の顔が青ざめる。
「貴様ら、この貧民街の...」
「言い直せ」
ゲバラの声が、凍てつくように響く。
「この街を、そう呼ぶのは許されない」
「お前なんか」
副社長が吐き捨てるように言う。
「この街になんの縁もない、正体不明のよそ者が...」
「私は」
ゲバラは静かに言った。
「この町の医者だ。それ以上でも、それ以下でもない」
その言葉には、50年の重みがあった。
その時、パトカーのサイレンが近づいてくる。
続いて、テレビ局の車も。
「なぜだ...」
重役が絶句する。
「搾取されてきた者たちが」
ゲバラは診療所の窓を開けた。
「もう、黙っていないということだ」
工場の連中は、逃げるように車に乗り込む。
「覚えておけ」
ゲバラの声が、夕暮れに響く。
「誰かの痛みには、必ず誰かが寄り添う。それが、この街だ」
黒塗りの車が走り去った後、歓声が上がる。
まちが診療所の看板を掲げる。
『ロシナンテ診療所』の文字が、夕陽に輝いていた。
「先生」
まちの目に、涙が光る。
「私たち、勝ちました」
「ああ」
ゲバラは静かに微笑む。
「今日は、ね」
「また来るでしょうね」
まちが診療所の看板を見上げる。
「構わんさ」
ゲバラはシガリロに火をつけた。
「この診療所は、毎日開いている」
路地では、又吉のギターが静かに奏で始める。
労働歌ではなく、この街の子守唄のような音色。
西成の夜空に、新しい物語の予感が漂っていた。
(8話・終)