小説「西成のチェ・ゲバラ」9 ある革命家が平和を祈った話
第九話 怒りと平和
ポデローサ診療所の窓から、朝の光が差し込んでいた。
「血圧、158-95」
まちの声が、静かに響く。
「降圧剤の量を」
ゲバラが言いかける前に、まちが処方箋を差し出す。
「少し、増やしましょうか」
ゲバラは無言で頷く。
かつての革命家の手には、今、聴診器が握られていた。
「先生とまちちゃん、ええコンビやな」
待合室の患者が声をかける。
「見とって、ほっこりするわ。まさか、つきおうたりしてな」
まちの父親である田中は、少し心配そうに診療所を見つめていた。
歳の差もあるし、と彼は思う。
だが、娘が生き生きと働く姿は、確かな喜びをもたらしていた。
その時、診療所の扉が大きく開いた。
男が、血を流しながら倒れ込んでくる。
「急いで!」
まちが駆け寄る。
ゲバラは一瞬で状況を把握した。
右腕の深い切り傷。
包丁が滑ったような跡。
市場での労災だろう。
「まち、生理食塩水を」
彼の声は、いつもより低く響く。
傷の手当てを終えた頃、男は意識を取り戻していた。
「すみません...」
か細い声。
「保険証が...ないもので」
そう言って、古びた財布から一枚の手帳を取り出す。
黄ばんだ表紙に、「被爆者健康手帳」の文字。
ゲバラの手が、わずかに止まる。
「私は...広島で」
男は、森本という名だった。
七十を過ぎた顔には、深い皺が刻まれている。
「手当ては終わりました」
ゲバラは静かに言った。
「しばらく、ここで休んでいきませんか」
「ありがとうございます、先生…」
森本の目に、かすかな安堵の色が浮かぶ。
普段は、こんな時でも休もうとはしない。
市場の日雇いは、休めば収入がなくなる。
「あの日のことを」
森本は、誰かに話したかったのかもしれない。
「まだ、覚えています」
診療所の時計が、午後三時を指していた。
森本の手帳を見つめながら、ゲバラの記憶は遠い日に遡っていく。
*
1959年7月、広島。
ゲバラは国立銀行総裁として、日本を訪れていた。大阪から広島がさほど遠く無いことを知り、急遽予定を変えての訪問だった。
平和記念公園に降り立った時の空気はまだ鮮明に覚えている。
戦争の痕跡は消されていたはずなのに、地面が、空気が、すべてが何かを語りかけてくる。
慰霊碑に花を手向ける。
黙祷の間、風がやんだような気がした。
非戦闘員、一般市民、そして子どもたち。
その数十万の魂の前で、革命家は言葉を失う。
原爆資料館。
一歩足を踏み入れた時、ゲバラの体が硬直した。
黒く焦げた弁当箱には、まだ焼けたご飯が残っている。
学童疎開の子供たちの写真。
影だけが残された石段。
溶け落ちた仏像。
ゲバラは、各展示の前で長く立ち止まった。
キューバの山中で見た戦場の光景とは、違う形の違う暴力があった。
強大な国家による、絶対的な暴力。
「これが、革命の敵の本質か」
彼は誰にも聞こえないように呟いた。
展示の説明を黙々と読み進めるうち、怒りが込み上げてきた。
それは単なる戦略的な判断ではない。
実験であり、威嚇であり、そして何より、人間性への冒涜だった。
「きみたち日本人は」
突然、案内の県庁職員に向かって問いかけた。
「アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」
職員は答えられなかった。
その沈黙に、また別の暴力の痕跡を見る。
勝者による歴史の書き換え。
被害者の声の封印。
原爆病院では、14年経った今も続く被爆の影響を目の当たりにした。
病室を回るたび、この暴力が持つ時間的な深さを思い知る。
それは一瞬の出来事ではなく、世代を超えて続く断罪だった。
紙屋町の「死の影」の前で、ゲバラは長い時間、立ち尽くした。
人の存在が影として刻まれる瞬間。
それは人類史上、最も残虐な「記録」だった。
*
「先生?」
まちの声が、遠い記憶を現在に引き戻す。
診療所の窓から、夕陽が差し込んでいた。
森本は、被爆者手帳を大切そうに財布にしまいながら、静かに話し始めた。
「十四歳でした」
淡々とした口調。
「学徒動員で、工場に向かう途中...」
まちが、そっとお茶を差し出す。
診療所の古い扇風機が、ゆっくりと首を振る。
「家族は見つかりませんでした」
森本は続ける。
「それから、あちこち...正直ね、差別もありました。上手くいきませんでした、就職も、結婚も」
「西成に来たのは?」
まちが、そっと尋ねる。
「十年前です」
森本は、診療所の窓の外を見る。
「ここなら、誰も過去を聞かない。ただの日雇い労働者として、働かせてもらえる」
その時、診療所の外でギターの音が聞こえた。
又吉が、路上で新しい曲の練習をしている。
「又吉さんのギター、いいよねぇ」
森本は、窓の外の音色に耳を傾けながら言った。
「あの人の歌声には、この街の空気が染みついてる」
「音楽には、力があるんです」
森本は静かに続けた。
「戦後、ラジオから流れる歌に、どれだけ励まされたか。希望も、未来も、なにもかも失って...でも、音楽だけは、心の中で灯りを絶やさなかった」
ゲバラは、診療所の隅に置いてあったギターを見つめる。
ペケペケに修理してもらって以来、時々練習はしていた。医師試験の準備で中断はしていたが。
「私も...」
ゲバラは静かに立ち上がった。
「何か、伝えられることがあるはずだ」
*
「先生、これなんかどうです?」
古着屋の青年が、スマートフォンを差し出す。
画面には "Rage Against The Machine" の文字。
「実はこの人たち、先生に似てる人のTシャツ着てるんですよ」
青年は興奮気味に説明する。
「ほら、あのチェ・ゲバラっていう革命家の。先生、ちょっと面影あるというか...」
ゲバラは、激しい演奏動画を見つめる。
「これは...少し、難しそうだな」
「革命的なバンドですよ!体制への抵抗を歌って...」
青年は熱っぽく語る。
「まずは」
ゲバラは苦笑する。
「基本からだ」
*
夕暮れの三角公園。
診療所を終えたばかりのゲバラが、ギターを抱えて立っている。
「おう!」
又吉が声をかける。
「先生も、ついに表現者の仲間入りか!」
市場帰りの人々が、少しずつ集まってくる。
「先生、ギターなんか弾けたんか!」
「何を歌うんや?」
タバコ屋の親父が、シガリロを一本差し出す。
「えらい緊張してるみたいやで」
ゲバラの手が、少し震えている。
それでも、伝えなければならないことがある。
まちは、診療所の入り口で見守っている。
田中も、心配そうに娘の横に立つ。
「Imagine there's no heaven...」
決して上手とは言えない演奏。
少し震える声。
それでも、確かな想いが込められていた。
又吉は、からかうような笑みを浮かべながら、でも、どこか嬉しそうに聴き入っていた。
「うまいとは言えんけど」
彼は小さく呟く。
「なんか、心に染みるな」
市場の人々が、自然と輪になって座り始める。
誰かがビールを回し始めた。
夕陽が沈みゆく西成の空に、平和への祈りが響いていた。
かつての革命家は、今、ストリートシンガーとして、新しい戦いの歌を口ずさんでいた。
(9話・終)
※この物語はフィクションですが、1959年のゲバラの広島訪問は、史実に基づいています。