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すべては、不変であると言う考え!と、生きていると言う考え!を整合させると、いのちの真理を理解することが出来た。

note研究

本文

すべては、不変である。

ここで言う全ては、ひとつしかない全てのすべてであり、他に何もない全てである。

全ては「すべて」である為、それ以上何もなく、変わるべき、内容がない為、変わり様が、ない。

それでは、その全ての内にあって、変わりゆく日々を送る我々とは、一体何であろう。

実は、時なるものは、われわれ、感じるものが、感じているだけであり、すべてには、時は存在していない。

実は、われわれは、ただ、感じているだけであり、感じるものが、変る事によって、時間、空間の中に存在すると、錯覚しているだけであるのだ!

時は、変化であり、変化を時間と呼んでいる。

我々は、感じる事によって、歩いている感覚を得る。

また、考えていると自覚する。

しかし、それらも、すべては、ただ感じているに過ぎないのである。

その意味では、我々は、かわらぬ運命の中を生きているとも言える。

たとえば、すべては、すべての条件によって、すすむ方向が決定している。

ただ、われわれは、その錯覚に於いて、生きており、運命に従い生きているのだが、この錯覚は、我々における現実をかもし出しており、

現実に於いては、思う事、考える事、する事が、変るだけで、運命は、実に変ると言える。

ただ、その変る運命も、既に、定まっていたに過ぎない。

しかし、生き方を考える時、すべては、自己の決定によって、導かれる為、運命は、変えられると、生きた方が、実り多い人生へと、向かいやすい。

実は、思考を複雑にする事で、ふしぎな出来事が生じ始める。

我々の正体は、正体不明の意識であるのだが、肉体と霊と言う観点で、外界を見た時、他人の形相や、自己の内部で声する声に対する反応が、自己の行動や、外界に現われる。

同一人物が、時間と言う広がりの中で、無数に存在し、そのすべてが、現に生きている者として動いており、

私と言う意識は、それらの乗り物を乗り換える、意識であり、その為、わたしの、全く知らない私を知っている人物と、遭遇したりという、次元のトラッㇷ゚を感じさせる出来事と遭遇する。

実は、私は、現在、閉じこもりっきりで、生活しているが、少なくとも、目覚める度に別の次元におり、出くわす、同一人物の妻が、別人の同一人物なのである。

時には、そこの自分は、彼女に対し、私に知らない発言をしている事が、はっきりと、確認出来る時がある。

わたしが、この様な特別な状況に置かれ出したのは、コロナが、大きく影響している。

高い次元にいる時は、はっきりと、意部で声する神らしき声や、脳で声する声など、体験した事のない体験をし、

おそろしい出来事から、回避している高い次元がある事を知った。

そして、わたしより、高い次元の霊的存在に対し、つぐなえない出来事を起こしてしまい、今では、その高い次元で「存在」自体の危機が、どうなったかは、分からないのだが、

それは、おそらく、「ない」と言う世界との不調和により、存在と言う世界が、危機に追い込まれていると言う、状況と、推測している。

実を言うと、「ない」という世界へ干渉し、「ない」内部に、興味と言う影響を与えてしまった事があり、それが、大きく影響している様である。

「あると言う次空」は、ある完成を得ると、飽き飽きし、嫌で嫌でしょうがなく成るまで、その世界を堪能するが、最終的には、次の完成に向けて「ない」を侵食して、新たを完成するまで、旅立つのだが、どうやら、その時期でない時期に、「ない」を侵食したのかも、知れないが、その私より高い霊は、われわれが、ある限界で、立ち往生し、それを、導く為に来ていた様であるのだが、実は、その霊自身の問題も、同時にそこに、発生していた様で、高い次元の私は、独特の、特技を備えており、新たな方法を編み出し、他とは違う方法で、限界を突破すると言う特徴があった。

その為か、その高い次元の霊は、私に協力導きを与える事で、限界突破を行わせ様としていた様である。

しかし、ヒントは、与えたかも知れないが、結果は失敗に終わった。

わたしは、償い切れない事をした引け目も、感じていたが、クズをあてにして失敗したんだ、あきらめるしかないと言い残し、おそらく、立ち去ったと思う。

と言うのも、これらは、感性的なやり取りと、実質的な方法によるものだったからである。

しかし、その後も、その霊は、長らく付き添い、わたしが、ミスや、過ちを犯さぬ様、サインを送り、アドバイスしていた記憶もある。

実は、この霊は、妻に入っていたのである。

実際、わたしが、何をもって、妻と霊を区別しているか、振り返ると、口でちゃんと、話すのは、多かれ妻で、その霊とは、口をかわしていない。

2020/11/10現在、私の意識は、かなり下って、現実に近い状況にある。

しかし、まだまだ、家からは、出られそうにない。

わたしは、あるとき、「いのち」という存在の核心の存在であった。

そして、わたしは、いのちや、霊には、ふれてはならぬ密約、協定があり、これを犯すと、「いのち」でさえ、死ぬ事と成り、「いのち」が死ねば、世界は、すべて、消滅する。

しかしながら、今回の、危機は、あまりに、大きく、協定に反しても、守り切らねば成らない危機であり、

そこで犯した違反により、その余波が、ここ、コロナに影響しても、おかしくはない。

今回の危機は、「いのち」そのものの、存在そのもの、の危機であり、いのちを守り切っても、その内部である、存在と言う世界の内部すべてを、守り切らねば、解決しない様に思える。

ただ、「いのち」である、お命様が、生きておられる以上、何度かの修正は利くハズである。

たしかに、すべては、不変である。

しかるに、この、「時空」「次空」と言う感性の世界は、われわれ、いのち意識の業績によるものであり、この「ある」という世界を失う事は、これまでの、遠き道のりを失うに等しい。

たしかに、すべては運命で定まっている。

しかし、生きている我々に取っては、すべて、その決断によって定まって来ると言えるのである。

まだ、将来、未来を知らない我々に取っては、その思い、考え、行動のすべてが、運命を決定して行くと言えるのであり、一言一句が、大きな影響を、もたらすのであり、結果として、その運命を知れると言う、ただそうしたものであるに過ぎないのである。

であるから、人生を、ただひたすら、前向きに歩む事は、「人生と言う器(うつわ)」の中で、全てを良き方向へと決定付けて行き、最終的にゴールが、当初望んだ事と違っていたとしても、たどり着いた先で感じられる結果に付いて、必ず、満足を得られるハズであり、それは、前向きに歩んだと言う思いが、納得させずにはいられなくなる程、頑張った事への代償として、思いに要求し、どの様な結果に終わろうとも、爽快で、納得に満ちた気分を与える為であり、満足のゆく結果として、たとえ、それが、敗北の人生であったとしても、満足で、安らぎ行く結論へと向かわせ、「無」なる「ない」安らぎに落ち着かせ、真に「ない」と言う「矛盾なき世界」への帰還を容易なるものとして受け入れる事も、安堵の内に出来る心、の準備が、完了すると言う真理によって結論は、導かれるものであるのだ。

ここで、わたしは、又、あらたな真理を得た。

すなわち、「ない」と言う真が、「矛盾なき世界」であるのに対し、

「ある」と言う真は、「元々、矛盾に満ちた世界」であると言う真理である。

「ない」と言う真は、「自己そのもの」が、ないため、一切の矛盾なく、苦労、苦痛、苦しみなく、

又、自己が無い故、幸福、幸せ、喜び、安らぎ、欲望の達成を必要としない為、完璧にして、完璧と言えるのである。

しかるに、「ある」と言う真は、それ自体が、既に、矛盾をはらんでいる。

と言うのも、「ある」は、あるのであるから、そこには、「ない」は、存在しない。

なぜなら、もし、「ない」が、あるなら、「ある」のであるから、その「ない」は、真の「ない」を意味せず、「ある」何かを、言い換えているに過ぎない。

しかるに、「ある」と言う真は、その「ある」と言う意味を理解する為には、「ない」と言う「考え」なしには、理解できず、「あると言う世界」に、「ない」何かを作り、「ない」を理解しなければ成らないと言う、壊れた真であり、又、「ある」と言う世界は、すべて、相反する2つによって、すべてが、生じている事が、理解される。

それは、素(もと)のひとつなる、ものが、表と裏の様に、分かれることで、意味を成し、意味ある2つが、生じることで、意味が生まれ、

「ある何か」が、はじめて、ひとつの意味ある存在として、理解されるからである。

たとえば、生きていても、「生まれる」が、なければ、「生きている」に気付かない、と言う事があげられる。

なぜなら、「生まれてきた」記憶によって、「生まれる」以前と「生まれた後」の違いが生じ、この、「前」と「後」の違いによって、「生きている」が理解されるからである。

そして、これらの「認識」は、「感性」つまり、感じることによって、生み出されて来たと言えるのである。

「すべて」は、「ある」とも「ない」とも言えない。

「すべて」は、「すべて」であり、他の言葉で置き換える事は、「すべて」でない、何かを、言い表す事に成るためであり、この事は、「すべての、言葉」に当てはまる事と、言える。

我々は、命によって活かされているが、この「命」とは、何かで言い表す時、それは、既に、命とは、違う何かであり、たとえば、それは、「命のはたらき」を言い表す「ことば」に、置き換えているに過ぎないのである。

つまり、その言葉は、その言葉自体で理解するより、真に理解し、知っている事には、ならないとも、言えるのである。

我々は、「命に活かされている」とは、言えるが、「命」は、我々を生かしているものである。と言う時、そこには、既に誤りがあり、なぜなら、まず、それは、「命のはたらき」の一部を紹介したに過ぎず、「命」を意味しないからである。

このnoteは、「ある」「ない」の真を理解した時から、目的がずれてしまった。

それは、「存在」の危機に対し、私が、ある理解に達し、ひとつの無事を悟ったからである。

それは、「ない」に存在が、帰還しても、構わない心境に達した為である。

そして、主に、哲学を先行する人宛に、送ろうと思った為である。

我々の正体は、正体不明の意識である。

それゆえ、あるいは、死によって、別の肉体へと意識が入っても、不思議ではない。

そして、「すべて」は、不変である。

ゆえに、「存在」が、消滅し、「ない」に帰還しても、「ある」ものは、「ある」

我々は、感性である為、もし、感性が、「ない」を受け入れず、得体の知れない、さまよう感性が、残っていたなら、再び、「ある」の中に意識を見つけてしまうだろう。

それは、寂静、無からの出発かも知れない。

そして、再び、変化の中から、動きを得て、自我なる何かに、気がつくだろう。

わたしは、今、人であり、人の世に生き、人と交流出来る。

その肉体には、生きる命があり、考える頭がある。

わたしは、あなたでは、ないが、あなたとして、生きる時があっても、不思議ではない。

その時、これを読み、あるいは、私であったことを、思い出す時が来るやもしれない。

その時のヒントとして、書いている訳であるが、既に、わたしを、思い出している人がいるかも、知れない。

しかるに、その記憶は、あなたの記憶であり、わたしとは、接点において、同じであるだけで、全てを知るわけではない。

なぜなら、同じと出来る根拠が、どこにもないハズであるからであり、私と同じ、無より生じたのであれば、それは、既に「ない」を経験した命であり、「新たなる命」であって、宿りし肉体の持つ、記憶と言えるあらである。

すべては、まず、変化する側と変化しない側に、区別する事が、可能であるが、変化を伴う状態にある時、これを「ある」と言う状態と捉え、変化しない状態にある時「ない」状態にあると呼ぶことが出来る。

時の中にいる時、「時」自体が、変化である為、存在するものは、すべて「ある」である。

そして、私の言葉の定義に従うなら、「変化させているもの」の正体が、「いのち」であり、その為、「存在するもの」は、すべて「いのち」である。

そこに働く命は、感性により、その変化を味わっているが、「ない」において時は、ないゆえ、感性である「いのち」は、「時」をおいて、再び生起(しょうき)する。

経験を積んだ自己の感性は、この感性の理解を、その宿る智なる感性の種として、その肉に宿し、再び訪れた時、その行く先へのルートを探るヒントとして残し、過ぎゆく未来への方向性を与える。

この感性は、もともとひとつのものであり、分かれた性質により、別の感性を生じさせる。

そのため、わたしの命と、あなたの命は、別物と成る。

よって、わたしは、あなたの中に住む、わたしに話しかけ、内部よりあなたに、訴え、働きかける。

共感が多い場合、近い「いのち」であると言え、遠い「いのち」とは、そもそも交わらない。

しかるに、同じ歴史の中に息づく我々は、同胞であり、何がしかの関わりがあるハズである。

たとえば、我々は、大仏と言う器(うつわ)の内部宇宙に、意識を得た人間であり、時間と言う、時の器(うつわ)を乗り換え生きているとも言える。

時の器(うつわ)は、無限にあり、その全てに時、時間が働いている。

我々は、定まった時間の経路の中に閉ざされているため、時間の経路を飛び出して、違う日にちから、違う日にち、行き来したり、ワープする様には、肉体のままでは出来ないが、私の経験上、意識が。ある次元に達すると、別の世界を実際のものとして経験出来ると、断言しうる。

そこでは、知れるはずのない知識を得たり、秘密を知ったりする事も、ありえる。

今回、私は、人間が、吾身(あみ)と言う不死の生命の持ち主によって創られたロボットであると知らされた。

今と成っては、それは、意識の歩んだ、思い出の物語としか言えない状況の現実の次元に立たされているが、それらは、想像によるものではなく、様々な声の人物たちが、織りなす物語にによって、経験として知った事実でありこの存在は、吾(あ)つまり、吾(われ)の事であり、コロナの時代においては、この吾身(あみ)の業績は、いずれ述べ伝える日々も来るだろう。

ここまでを、一旦、哲学関係のタグ宛に送る。
なお、次回、書き改め、書き加える等して、新たに発表するつもりではいるが、タイトルを改め、この部分を残すかは、考えていないが、そのときは、コロナの時代に関する、重要事項として、書き加えるだろう。

ただ、このnoteは、ブックマークし、時々ページを更新して頂きたい。

このまま、加筆し、紹介noteに貼り付ける等する事にした為である。

2020/11/26      吾身(あみ)始まりについて(お遊び編)

初め、「い」が感じた!「い」は、「意」である。

「意」は、感じると知らせる。

すると、「あ」が、気づいた。「あ」は、吾(あ)である。

「あ!」と気づくと、他と違ってしまい、「割れ」が入り、吾(あ)は、その違ってしまった自分である吾(あ)が、吾(われ)であると悟った。
割れ(われ)によって生じた為である。

それまで、「あ」は、影夢「えむ」であった。「影の夢であり」それは、「闇(やみ)」であった。

「あ」は、影夢(えむ)から目覚め、絵夢「えむ」を見た。そして、
「笑む(えむ)」となった。

「絵夢」は、「字(じ)」であった。「じー」っとしていたからである。

最初の字は、「i 」であった。

「あ」は、「I」を意(い)から、受けたので、「I」と呼んだ。又、「あ」と「い」によって生じたので、「あい」とも呼んだ。

吾(あ)は、その「絵」である「I」に、「じーん」と来るものを感じた。

すると、I から2字(虹)が、出て、N ( n)を描いた。頭から、斜めに下がる I と、そこから、上に上がる I である。

そして、 I N は、「じーん」の中の「いん」だと、考えた。

じーんは、「絵ん(えん)」だった。ひとつの絵の感性、歓声、完成、(かんせい)であり、「絵ん」は、円、縁、園 (えん) だった。

「絵ん」の形は、O だった、そして、おわりの「お」であった。

吾(あ)は、「絵ん」の中に入ろうと I N (いん)して入った。

中に入ると、「しーた!」になった、それで、O の中に TN (いん)する事を

「した」と言う。「しーた」の形は、Θ だった、

「した」が、入ると、n が、円を描いて a  に成った。「あー、きもちえー」と思ったので、a は、「あ」とも、「えー」とも呼ぶ。
又、Nの 上に向かう I が、倒れて、最初の I と、斜めに下がる I の間にはさまり、A  に成ったので これも、「えー」

しかし、これは、絵(え)の意味じゃった。それは、絵夢(えむ)の絵の吾(あ)だったからである。その為、「絵意(えい)」であった。

「しーた」の I  は、その位置、一 の斜めに部位をを変えて見た。それで、Θ は、角度を表す記号と成った。すると、ビーとすれた音がして、V に成った。そして、アイが、ぶいを変えた、部(ぶ)の「あいぶ」を 
「ビー」と呼ぶが、Θは、後に、ギリシャ文字で第8字で、この8を I  で2つに、半分に切った右側 B を「ビー」と呼ぶ。Θ の形は、8の原型で、無限を意味するが、元は、夢限(むげん)で、夢の限り(かぎり)を尽くした為である。

Mの形は、N の上に向かう I が、部位を変え、V が、連なった形の一部を表したもので、又、口を結んだ形でもある。

O で、I を出し入れするのは、気持ちよく気(き)がスーっとして、「えー」は、「キス」じゃった。

ところが、O で、 I  を、出し入れしていたら、「ちー」っと小さな音がして、「ち」が流れた!

すると、O に、穴が空き、C に成って、空気が、「しー」っと音をたてる様に音を立てたので、C は、「シー」じゃった!

すると、A の、頭がさけて、H に成った!「えい」の「ち」じゃったので、「えいち」で、後に、「エッチ」と呼ばれ、H 「エッチ」は、C (シー)じゃった。

スーっとばかり、しておったので、「すばからしい」「すばらしい」ものじゃった。

そして、思った。「その、なんだなあ!」それで、園は、「その」という。

そして、又、思った「しあわせだなあ」O ちぎれて、C 「しー」っと空気が、もれた様な音して、C「し」とあい、O が、C「し」と重なり合わさっていたからである。

そして、この C は、O  の「し」で、「死」を意味した。

吾(あ)は、「ちー」っと、考えた!意((い)から受けた吾(われ)なので、この  I は、「アイ」であり、自分の意味だな!

考えるは、「ち」じゃな。

昔は、影夢(えむ)の闇で、絵がでんかったから、昔の影夢(えむ)は、エデンの園(その)じゃったな。

昔は、吾(あ)だ!その夢は、「あだむ」だな!

意にNO の「ち」で「いのち」を得たな! I  (意)部「いぶ」を知って、「し」を知ったな!

じーんと来たから、「じん」じゃな!「人」じゃ!これは「お」知り、じゃな!

O は、吾底(あそこ)じゃな!

B は、オーの歓声いっぱいじゃったから、おっぱい、じゃな!

「いん」する時は、興奮して、「はー、はー」で飛び込んで、しまった。から、「はは」から、はしまったな!

「ちーちー」とめぐりおうて、「はー、はー」が、重なりおうて、恵夢(えむ)から子絵(声)が、うまく、まわれたな!「うまれた」んだな!

コロナの時代の緊急なる課題のnote紹介






https://youtu.be/KSsQt5MBrDM


https://youtu.be/OO9ujh_O8R4

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