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地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング

行ってまいりました東京。たぶん2年以上ぶり。

よく訪れていた美術館とか、飲食店とか、すごく懐かしい気持ちになるだろうなあと思っていたのだけれど、それよりもむしろ駅の構内やなんでもないただの道で「あ~~~」となることが多くて、人間の記憶って不思議。
新橋駅のJR→浅草線の乗り換えの、やたらぐねぐねする感じとか。ぐねぐねしてたどり着いた浅草線改札前にある「神戸屋」の佇まいとか。大門駅近くのマクドナルドと、その隣の居酒屋の呼び込みとか。地下鉄大江戸線に乗るときの、エスカレーターを何本も何本も乗り継いで、地下深くに飲み込まれていく感覚とか。隅田川の川っぺりから見上げる浅草の喧騒だとか。
(当時の生活圏がばれますね)

ともあれ限られた自由時間で、ひとつだけ展示を見てきたのだった。

同時期に水木しげる展アリス展も来ていて、美術館はすごい混雑。おまけに私が訪れた日の六本木ヒルズはジャニーズアイドルのイベントが開催されている上になぜかドラえもんのオブジェが大量発生していて、ありとあらゆる属性の人間(と、ドラえもん)がひしめいていた。大阪ではここまでの混沌は見られないな、とちょっと感慨深く思う。

本当はアリスとのはしごも考えていたのだけれど、時間があまりなかったため関西への巡回予定がない「地球のまわる音を聴く」を優先した。館内に入ってみるとアリスの方は入場待ちの列がすごかったので、そういう意味でもこちらを選んでよかったかもしれない。

1.アートと一緒に呼吸する

最初の展示室には、いきなり展覧会のメインビジュアルに使われている作品があった。ヴォルフガング・ライプの「ヘーゼルナッツの花粉」。

作家自身の手で磨かれた、とされる大理石の土台に、黄色いヘーゼルナッツの花粉が四角く敷き詰められている。1年で取れる花粉の量は小瓶半分程度というから、途方もない時間をかけて集められたものなのだろう。
ライティングの加減で、その黄色はグレーの空間から浮き上がって、いっそ神々しく見える。絵の具のべったりした感じとは明らかにちがう、細かくけぶるような陰影。
なんだか甘いにおいがする気がして、こっそりマスクの鼻当て部分を手でゆるめると、ヘーゼルナッツの芳しさに甘さを加えたような香りがした。そぉっと、人知れず、深く息を吸い込む。

奥の方には蜜蝋でできた部屋のインスタレーションもあった。
展示室の中に白い壁で仕切られたごく小さな空間があって、その内側に蜜蝋でできたブロックが敷き詰められている。薄茶色で、石鹸みたいな質感の、鈍い艶をもつブロックだ。中は薄暗く、琥珀色の空気が充満していて、異国の寺院のような雰囲気。
蜂蜜みたいな香りがするかしら、と思ったけれど、もう少し濃くてスパイシーな、丁度シナモンのような匂いがした。蜜蜂の命の匂いだ、と思った。

そしてその隣には、「ミルクストーン」。
大理石の上に、表面張力ぎりぎりを保って牛乳が注がれている。

遠目に見るとただの白い石のよう

キャプションに書かれた注意書きが、少しでも作品に干渉すると牛乳がこぼれてしまう、という緊張感を高める。それなのに作品の周りには柵も何もなく、後ろに回り込めるようにさえなっており(なんという鑑賞者への信頼!)、熟睡している赤ん坊に近づくような心もちで、石と牛乳の周りを歩いた。息を詰めて、忍び足で。
静かに湛えられた牛乳はちっとも液体のようではなくて、磨かれたように凪いだ表面が鉱石のように見える。よくよく見ると微かに盛り上がった縁が、ときおり照明を映してきらりと光るのがきれいだった。

ライプの作品を見ていると、いつもより自分の「呼吸」に意識が向く。花粉や蜜蝋の匂いを深く吸い込んだり、牛乳の表面を揺らさないよう、静かに息を吐いたり。
自然の中に咲いている花や蜜蜂の巣とは程遠い形状の作品なのに、身体がそれらを目の前にしたときと同じような反応を示すのが不思議だ。無機質な直線で構成されている佇まいなのに、目の前にするとなぜだかリラックスし、親しみを覚えてしまう。

そういえば後半にも、呼吸をテーマにしたという作品があった。
モンティエン・ブンマーの「自然の呼吸:アロカヤサラ」は、錆びた金属で構成されたアーチのようなものの中に様々な種類のハーブが備え付けられている。中に入ると漢方薬のような強い香りがして、ふと上を向くとそこにはテラコッタ製の「肺」のオブジェ。周りに人がいないことを確認して、少しだけマスクをずらした。眩暈のようなものを覚えながら、深く息を吸って、吐く。

最近はマスクで鼻と口を覆うことがほとんどで、「なんとなく息苦しい」「外気の匂いを感じない」ことがデフォルトになってしまっているのだなあと、改めて感じた。
深い呼吸を促すアートたち。個々の作品はコロナ禍が始まる前に作られたものなのだけれど、この時代により一層意味を増す存在かもしれない。

2.催眠術はエンタメか?

一番長居してしまった展示室が、小泉明郎「グッド・マシーン バッド・マシーン」。暗い部屋の中でロボットアーム(衣服がひっかけられている)がシューシューと音を立てながら動き、周りの壁には催眠に掛けられた被験者たちの様子が投影されている。彼らは催眠術師に言われるがまま、様々な感情をあらわにしながら同じ言葉を繰り返しており、その声が部屋中に反響する。

――ここは 美術館です/良い人間でありなさい/想像してはいけません/逃げなさい/この美術館は 夢を見ています/人間の振りをしています/よみがえりなさい/私は機械ではありません――

泣き出し、うつろな表情を浮かべ、怒気を露わにし、笑いを抑えきれず――不穏なフレーズと、脈絡なくそこに乗せられた感情のアンバランスさに背筋が寒くなりながらも、じっとその声に聴き入ってしまう。
室内のキャプションには、作品の説明と一緒に「催眠は本人の同意なしにはかけることができない」というようなことが書かれていた。被験者たちが催眠術師に言われるまま感情を乱していく様子は、はたから見ると恐ろしく、不条理に見えるけれども、実は彼らが望んでそうなっている、とも言えるのだ。ホラー映画を見たいと思う人の心理に似ているようにも思える。思えば読書や映画鑑賞なども、感情を恣意的に動かすための行為だとも言える。その意味で私たちが普段当たり前に享受しているエンターテインメントは、この「催眠術」と根っこを同じくするものなのかもしれない。催眠状態から目覚め、すっきりしたように笑う被験者の顔を見ながらふとそんな思いがよぎり、なんだか自分の暗部を覗き込んだような心もちになった。

3.ごく個人的な営みとしてのアート

部屋から部屋へと作品を見て回るうちにそう思えてならなくなったのが、現代におけるアートとは今まで私が思っていたよりもごく個人的な営みなのかもしれない、ということだ。

この展示に集められている作品は、分類するといずれも現代アートに属するものだと思う。これまでもいろいろなところで「現代アート」を見てきたのだけれど、そのときの私はなんというか、一生懸命「作者からのメッセージ」を読み取ろうとしていた。芸術家には世界に何か伝えたいことがあって、それを表現するために作品を作っている、という思い込みがあったのだ。

だって、どのキャプションにも「この作品は××を通して○○を表している」というようなことが書かれているし。作者の紹介文にも、「作品を通して△△というメッセージを発している」という表現があったりするし。

もちろんそういった側面も芸術にはあるのだろうし、確固たるメッセージを持って作品を作り続けるアーティストもいるだろう。
けれど今回触れた作品については、「自己表現の結果」というより「日々の営みの副産物」というようなニュアンスを感じることが多かったのだ。

それが顕著だったのが、ロベール・クートラスの「僕の夜(リザーブ・カルト)」である。
困窮の中、丁度タロットカードくらいの大きさのボール紙でできたカルトに、作者は夜ごと絵を描き続けたという。展示室には、彼が「散逸させずに保管してほしい」と遺言を残した469枚(!)のカルトが、指定の順番で並べられている。
アダムとイヴ、聖母子、死神、吊られる男、処刑台、幾何学的な模様、一輪の薔薇――陰鬱な色合いで繰り返し書かれるそれらのモチーフを順番に見ていると、夜中に机に向かい、背を丸めて筆を走らせる画家の姿が目に浮かんでくる。仕事としてではなく、「描かずにはいられないから描く」姿が。

ギド・ファン・デア・ウェルヴェの作品にも同じような印象を受けた。
北極点に24時間立ち続けたり(そして地球の自転と逆側に回り続けたり)、家の周りをひたすら走り続けたり、浴槽に出たり入ったりを繰り返す(マリアナ海溝と同じ深さに達するまで!)。
題名には、「暇つぶし」や「逃避」といった単語が目立つ。突飛な行動は、彼にとっては目の前に重たくどっしりと横たわる退屈さを攻略するための、あるいは挫折による鬱屈から逃避するための手段なのだ。それらを記録した映像に、おかしみと同時に逼迫した衝動を感じるのは、私自身が「退屈」や「憂鬱」の恐ろしさを知っているからかもしれない。

堀尾貞治の「色塗りシリーズ」もまさに、「自分のためのアート」。
古道具に絵の具を塗りつけただけ、といえばだけの作品だけれど、壁いっぱいにそれらが並ぶと呪術的な雰囲気を醸し出す。作者の人生をそのまま覗き見ているような。

スコッティ!

4.内省、祈り、宇宙的なるもの

どちらかというと静かで地味な色合いの作品が多い展覧会だったのだけれど、最後の部屋の展示はとても華やかだった。
蔡佳葳の「子宮とダイヤモンド」および「5人の空のダンサー」。

手前:子宮とダイヤモンド 奥:5人の空のダンサー

大きな鏡の上にダイヤモンドを乗せたシャーレが並べられており、中心には手吹きガラスで作られたオブジェ。
「子宮とダイヤモンド」は天井の照明を写してきらきらと輝いている。中央のオブジェは子宮=胎蔵界を、周囲に置かれたダイヤモンド=金剛石は金剛界を表し、全体で両界曼荼羅を表現しているとのこと。じっと見つめていると、鏡の向こうへ吸い込まれるような気がしてくる。

奥に飾られた「5人の空のダンサー」も仏教的な思想のもと作られた作品で、孔雀石や岩辰砂といった鉱石から作られた顔料で描かれた抽象的な図案は、荼枳尼ダキニの舞う様子を表しているらしい。近づくと砂壁のような質感で、表面がちらちらと光っているのがわかる。図案の中には細かく梵字が書き込まれていて、絵画というよりは写経をするようにこの作品は描かれたのかもしれない、と思いいたる。

改めてこの二つを一緒に眺めると、両界曼荼羅の中に映りこむ荼枳尼、という構図になっていることに気づいた。荼枳尼は確か大日如来の眷属だから、至極理にかなった配置だなあ、と思いながら、いつまでも眺める。
眺めていると、川上弘美の「惜夜記」という短編の中に、「永遠の象」を見物するために歩いていたら両界曼荼羅をひたすら眺めるはめになってしまった、というくだりがあったのを思い出した。小説の方の両界曼荼羅は小さな象が絡まり合ってできたものだったけれど、目の前にある両界曼荼羅は二酸化ケイ素と炭素が絡まり合ってできている。いろんな両界曼荼羅があるものだなあ、と思いながら、かの小説の主人公になったつもりで、さらに眺めた。

今回展示されていた作品は、見ているうちに自然とその制作風景に思いを馳せてしまうようなものが多い。
自分の中を覗き込んだ結果生まれたような、内省的な作品が多かったからだと思う。前項でも書いた、ごく個人的な営みとしてのアート。

岩絵の具を塗った上から、丹念に梵字を書き込んでいく様子。
良く磨いた大理石の上に、慎重に慎重に牛乳を注いでいく様子。
静かな夜に机に向かって、小さな札に絵を描く様子。
自室にビデオカメラを設置し、その前で何度もベッドに倒れこむ様子。
小さな動作を延々と繰り返す様は、何かに祈りを捧げる様子にも似ている。

ウェルビーイング善く在ること、という展覧会のテーマについて、正直訪れるまではピンと来ていなかった。実際に作品を見て回った後の今は、なにかヒントのようなものを手に入れた気がしている。

色々な制限を受けながら生活していかなければならない今の状況下では、知らず知らずのうちに様々なものが少しずつ失われる上、そのことに慣れてしまいやすいのだと思う(ちょうど、マスクをしたときの息苦しさに慣れてしまうように)。

感性を磨き、あるいは研ぎ澄ませて、祈るように自分のための営みを行う。
そういったことの大切さと、そのお手本を見せてもらったような気分になる展覧会だった。

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