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牛すじ煮込みでセラピーを

料理が好きな人って、「調理をすること」と「できたものを食べること・食べてもらうこと」どちらに重きを置く人が多いのだろう。

私の場合、自炊のモチベーションは9割がた「好きなものを安くたくさん食べたい」なので、よほど心に余裕がない限り、調理過程自体を楽しめることはあまりない。自炊と同じコストで専属のシェフが家に常駐してくれるならぜひお願いしたいものである。

でもそんななかでも作ること自体を楽しめる料理というのはいくつかあって、そのうちのひとつが牛すじの煮込み。
肌寒くなってくると煮込み料理全般が恋しくなるけれども、そのなかでもすじ肉が手に入ると大変うきうきしてしまう。

そもそもすじ肉やホルモン、魚のあらなんかの「上等で調理しやすい部位を取り去った後に残るものども」が好きなのだ。あれらには射幸心をくすぐる魔力がある。
臭みがあったり硬かったりで、普通の調理ではとても食べられない安い部位。そこにちょっと下処理を施すことで、びっくりするほどおいしくなってしまうという過程が堪らない。大鍋をかき回す魔女のような笑みを浮かべながら、せっせとお世話をさせていただく。

中でもすじ肉は処理が簡単なのがよい。鱗を取ったり皮を除いたり塩をして置いたりといった繊細な作業がいらず、ひたすら煮込むだけなのだ。用途にもよるけれど、なんなら切り分けもせず、パックに入っていた形のままで調理して支障ない。
さらに言えば、成果がわかりやすい。フォークも刺さらないような硬い硬い腱の部分が、箸で切れるほど柔らかく煮上がったときのうれしいこと。労力は小さいのに、なにやら偉業を成し遂げたような達成感を得られる。なんて素晴らしい食材だろう。

そんなわけで、少し前の休日には、牛すじを500グラムほど使ってトマト煮を作った。
ぽかぽか晴れた午後、家でいちばん大きな鍋に、牛すじをどさっ。冷水をじゃばー。そのまま火にかけて、鍋がぐらぐら湧いてきたら一度茹でこぼす。流水ですじ肉についた灰汁を洗い流し、もう一度きれいな水をたっぷり張った鍋に入れて火にかける。あれば長ネギの青い部分、しょうがの切れ端も入れて。

うちには圧力鍋がないので、柔らかく茹でるには時間がかかる。ときどき灰汁を取ったり、水分が減りすぎていないか確認したりする以外は、ほったらかしのおよそ2時間。本でも読んで待っていると、だんだん良い匂いがしてくる。
おお、なんてていねいな暮らし。なんにも難しいことはしていないのに、なぜか料理上手の気分になれてお得だ。

そろそろいいかな、というタイミングでトマトソースの準備を始める。
いでよ、ル・クルーゼ。去年の誕生日祝いでもらった、グレージュのかわいこちゃんである。ふだん肉じゃがやら揚げ物やらの庶民的なおかずばかり作らされて若干不遇を囲っているそなたに、たまにはおしゃれ煮込み料理を味わわせてしんぜよう。

トマトソースといっても、適当に切った玉ねぎ半玉ほどをオリーブオイルとにんにくで炒めたところに、ホールのトマト缶をまるごと突っ込むだけだ。せっかくなので牛すじを茹でている鍋から煮汁を失敬、お玉で一杯、二杯、三杯はちょっと多いかな、半分くらいでいいか。
玉ねぎのほかにセロリや人参、ローリエやオレガノなんかがあれば素敵な味になるのだけれど、うちにはそんなものはなかった。仕方がないので調味料に頑張ってもらうことにする。お塩のほかに、コンソメ、お醤油、ウスターソース……はなかったのでお好み焼きソース、それにはちみつ。コクが出そうなものを色々ちょっとずつ入れて、味を見る。

こんな適当さでもなんとなくそれらしい味になるのだから、トマト缶は偉い。ことこと煮込んでトマトが形を失い、酸味が丸くなってきたら、いよいよ牛すじを投入する。出汁がたっぷり出た残りのスープは、あとでカレーにしてあげるからね。

さて、ここからがさらに愉しい。柔らかくはなりつつもあくまで単なる「茹でた肉」という風体の灰色がかったすじ肉が、トマトソースにまみれて煮込まれていくうち、だんだん飴色の艶を帯びてくったりしてくる。
もったりしたソースが焦げ付かないか心配で、鋳物の重たい鍋蓋をときどきそっと持ち上げる。そのたびに、すじ肉から出た脂と濃厚なソースとが入り混じり溶け合いすべてが混然一体となっていく様が観察できて、うふふふふ、とつい笑いが漏れてしまう。なんておいしそうなカオス!

そうして出来上がった煮込みはもう、えもいわれぬ味。とろとろのお肉、もちもちのゼラチン質にあらゆる旨味がつまったトマトソースがからんで、ワイン泥棒の極みだ。

たっぷり作っているので何日かかけて食べていくわけだけれど、煮返すたびにすじ肉が少しずつ形を失って、最終的にはわけのわからないおいしいペーストになる。
その状態にたどり着いたら最後のお楽しみ。耐熱皿にごはん(余裕があれば、バターライス)と煮込みを敷き詰め、チーズをたっぷりかけてオーブントースターで10分焼けば、牛すじドリアの出来上がりだ。赤茶色の混沌と化した煮込みの深い味と、乳製品のコクがたまらない。

硬い硬いすじ肉がほろほろとほどけて溶けてお腹に収まるまでの過程には、単なるおいしいものを食べる喜び以上の、カタルシスのようなものを感じる。ふだんの生活で降り積もった浮き世の憂さまで、湯気にまぎれて消えていくような。

料理というよりはむしろセラピーめいた効果を期待して、スーパーですじ肉を目にするとつい手に取ってしまう秋である。


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