狭い橋、広い橋
言葉は自と他を隔てる境界線を跨ぐことの出来る数少ない道具だ。その境界線は遠くから見れば糸より細い。がしかし近づけば無限の霧がかった大河のようでもある。あるいは森かもしれない。なんにせよそこは言葉という橋もなしに渡るにはあまりに過酷な国境なのだ。
一般に、人は外界を知ると自分の小ささを体感する。例えば、宇宙を夢想し自分という存在あるいは自分の悩みの矮小さに希望を見たりする。またその一方で反作用的に、ある人は自分の無力と浅薄に絶望感を覚えたりする。形にしないモノローグではあんなにも輝いて見えたものも、言葉にして外に出せば急に煤けて見えたりもする。
だから、畢竟自分の価値に気づくのは他者しか居ないのだ。自分で自分に満足して誇りを持っている人も、初めから自分に価値を見いだしたわけではあるまい。自分に価値を見出した他者の身振りを見て自分は貴重である、唯一であると思った人だろう。人は本来生まれてから死ぬまで自分で自分を肯定出来ない生き物だ。
森鴎外の著した「ヰタ・セクスアリス」の主人公は、人生も文章も全て自己弁護であると言っていた。この言葉には著者自身の真意が表れていると私は感じ取った。それになぞらえて私の意見を言えば、文章(広く言えば言葉)は自己弁護のための間接的な試みであり、直接的な自己弁護では無い。自己弁護も言葉を使って他者を介在させなければ成立すらしない。
皆誰かに自分を認めて欲しがるのは、自分が自分を認めるためにその過程が必要だからである。言わば自信のファクトチェックだろうか。主観は仮説で、それを裏付ける証拠になるのか客観である。
それだけに自と他を結ぶ言葉を扱う能力の重要性が増す。それは単純に文章力や語彙力を上げれば良いということではなく、時に言葉としての完成度をかなぐり捨ててでも他者に合わせる必要性が出てくるということだ。
流行りの月並みな語り口で自己を語れば、単純に自己を語るよりも他者の指示を得て自分が認められやすい。実際、流行りの言葉を使う事で若者の間の結束力が高まるという話を聞いたことがあるのではないだろうか。
逆に、文章や言語としての完成度や新しい価値に拘泥する人間は自己を肯定することに難儀する。「尖っている」と受け入れられれば理想的だが、燻っているうちは拗らせエゴイストもいいところだ。
結局自分の高尚な理念も理想も他人に伝わらなければ自分を形づくれはしない。伝わりやすくするために心に在らざる事を言う必要性も出てくるというものだ。ああ無念。
自と他の不明瞭な境界線をくっきりと定かにすることが自我同一性の獲得だと言うのならば、自分を他に合わせる人と自分を貫く人、果たしてどちらが自我同一性を獲得しているといえるのか。その答えは簡単には出せないが、なんにせよ自と他の曖昧な境界を越すことが出来るのは言葉にほかならないのだから、正しく悩むためにも言葉に今一度目を向けて見るべきだろう。自分を語るのも、他者を語るのもどちらも同じ言葉だ。
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