日記というのは無計画に書いてもいいらしい。今気づいた。無計画に書き始めるとただでさえ抑えているつもりの厭世観や愚痴が吐露しまくるのは目に見えているからやめた方がいいのかもしれないが、案外そういうものを求めている奇人もいるものかもしれない。仮にここに「けっこう」なことが書かれていてもそこは許して欲しい。社会が与えたストレスのしわ寄せだ。社会全体の責任だから。それはもう。 前に何度か書いた日記と同じような内容になるかもしれないけど、自分の中では新しい形の日記だから、
言葉は自と他を隔てる境界線を跨ぐことの出来る数少ない道具だ。その境界線は遠くから見れば糸より細い。がしかし近づけば無限の霧がかった大河のようでもある。あるいは森かもしれない。なんにせよそこは言葉という橋もなしに渡るにはあまりに過酷な国境なのだ。 一般に、人は外界を知ると自分の小ささを体感する。例えば、宇宙を夢想し自分という存在あるいは自分の悩みの矮小さに希望を見たりする。またその一方で反作用的に、ある人は自分の無力と浅薄に絶望感を覚えたりする。形にしないモノローグではあんな
しばらく心が向かず日記など書く気にもならない日が続いていたが、今日は総じて見るとちょうどいい温度というかネタにしやすそうな一日だったので久しぶりに日記を書いていきたい所存。 少々かぶいて日記と言ってはみても所詮は普通の高校生。朝から放課までは特に何もおかしな所のない、面白味のない誰もが体験したであろう事ばかりだから省く。高校に入って新しい関係を築き損ねた少し虚しい学生のことなど誰も興味を持たないだろうし。 帰りのホームルームのチャイムが鳴った直後、私は急いで昇降口を出て駅
飽きっぽい自分について書こうと思ったけど、飽きたのでやめました
いつも私の趣味嗜好は周りの人間に「逆張り」と言われることが多い。それについての弁解もしつつ、逆張りサイドとして逆張りの心理と暫定的な自分の見解を示しておきたいので今この記事を書いている。 そもそも。逆張りとは何なのか。言葉の意味は響きでわかっていても、そのフレーズを耳にするようになったのはつい最近のことである。ネットで調べてみるとだいたい三年前ぐらいから使われるようになった言葉らしい。 ちょっとした認識のゆれはあれど、「世間の一般論とは違う意見を言いたがる人」という意
今大きい小説を書きたくてアイデアを書き溜めているところで、なかなか絵を描いたり読書の感想を残したりがなおざりになってしまっているから、ちょっと身辺整理も兼ねた日記をば。 進級 一ヶ月前と比べてクラスの状況も少し変化してきた。4月にクラスができてから一学期の中間テストを終えて6月に差し掛かるまでの2ヶ月の間に、僕達学生はクラスの中での立ち位置を確立させる。休み時間の過ごし方を見ていれば誰が誰に興味を持っていて、誰と仲がいいのかなんてことは簡単にわかる。明るいやつはたいて
話のネタを見つけたときに、Twitterにあげるかそれともnoteに書くかというのは悩ましい問題だ。いつもそういうときは「noteどころか、Twitterで言うようなことでもないな」と思ってどこにも出さずに自然消滅してしまうというのがよくあること。手元のキャンパスノートに自由にメモしておくのが一番いい気がしてるけど、中二病のノートみたいになるしなぁ… スマホぐらい気軽に書きこめて、ノートのような自由さのあるメモがあるといいんだけど。アプリなりなんなり探せばあるけど使ってみて
今日、クラスメイトであるダンス部の男と成り行きで一緒に帰ることになった。帰りの電車で会話した分には、私が一般的なダンス部の人に抱いている悪いイメージとは裏腹の、誠実で爽やかな人柄を感じることができた。…乗り換えの駅での一件までは。 私が通う学校の多くの生徒は、乗り換えの駅としてこの駅を使う。今日は午前中だけの授業だったので駅についたのもまだ12時台だったが、昼間でもかなりの利用者がいると感じるぐらいには大きい駅だ。事件は駅構内の下りのエスカレーターで起こった。 クラスメイ
客体を持つことによって魅力を失う物、というのがある。 自分の中では完璧で愛しかったものが、口や手を通して外気に晒した途端、錆びるようにその輝きをなくしてしまうというのはよくあることだ。 例を言えば自信満々でツイッターにアップしたイラストが全く反応をもらえなかった、というケース。自らの作ったものを気軽に第三者に見せられる現代において、この種の例は枚挙に暇がない。絵を書く人や文章を書く人といった、いわゆる創作をした事がある人なら必ず経験したことがあるだろう。学校で書いた感想文が
・最近、時間が過ぎていくことにやり場のない気持ちを抱くことが多い。 ・昼間の学業を終えて家で過ごしている時間。 定期試験が終わってから次の試験が始まるまでの束の間。 カラオケボックスで過ごす楽しい時。 ・終わりが来るとわかっている時間というのはどうしてこんなにもやるせないのか。人生だってそうだ。どんなに楽しもうがどんなに苦しもうが終わりが決まっている。 ・この永遠の緊張と緩和を繰り返す人生の構造を見ると私はダウンロードバーみたいだな、と思う。項目ごとに細かく区切ったバー