聖書を使って英語でCLIL授業をやったら結構ハマったという実践報告
CLILとは、Content and Language Integrated Learningの略です。「内容言語統合型学習」と訳されます。すごーく簡単にいうと、英語で他教科の内容をアクティブ・ラーニング形式で扱うスタイルの教授法です。
「CLILって大変そうだね」とよく言われます。たしかに実際準備はたいへんかもしれません(笑)しかし、僕にとってCLILは色々な魅力をもった指導法です。今回はその魅力を共有できればと思い、つたない実践例ではありますが自分の授業実践を共有させていただきたいと思います。
私が今勤めている学校は、キリスト教主義にもとづく教育をしている学校です。そのバックグラウンドをいかした授業がしたいなと思い、キリスト教の聖書を英語で扱うという授業を中3向けにやりました。僕自身はクリスチャンではないのですが、幸いなことに聖書科の先生が「やってみたい!」と協力してくださったので、実現しました。協力的な同僚にめぐまれ、ありがたいなぁと思う日々です。
どんな流れで授業をしたか
(1)英語で書かれた聖書の指定された部分を自分で読んでみる
(2)指定された問いについて、その聖句を参考に考えてみる
(3)クラスメイトや先生と英語で意見を交換する
(4)聖書科の先生の説教を英語で聞いてみる
(5)説教をきいて感じたことを英語で伝え合う
こんな感じでやりました。以下生徒や聖書科の先生の感想を織り交ぜながら、もうすこし詳しくみていこうと思います。
「英語の聖書のほうがカンタンじゃん」
まずは「授業の流れ(1)」の聖書の内容理解のことについて話します。↑の見出しは、英語で書かれた聖句を読んでみて、簡単なComprehension checkの問題をとき終えたあとに生徒がぽつりと漏らしてくれた言葉です。しかも「わたしは英語がニガテだ」と日頃から言ってる生徒が、です。これはちょっとうれしかったですね。何故こんなことが起こったのかを紹介させてください。
授業では「迷いでた羊のたとえ話」を扱いました。以下たとえ話の内容が動画になっている映像です。2分ほどのものなので、よろしければ見てみて下さい。
「迷いでた羊のたとえ話」は、群れからはぐれてしまった1匹の羊の話です。100匹の羊の主人はその1匹が迷いでたことに気づくと、ほかの99匹の羊をおいてその1匹を探しに出ます。羊が見つかると主人は大喜びで、近所の人に「一緒に祝ってくれ!」と言う始末です。
生徒が持っている日本語の聖書にはこう書いてあります。「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」
前半はいいとして、最後の4行は大人でもけっこう難しいですよね。なんとなく言いたいことはわかるかもしれませんが。これを見ると、けっこう日頃から難しい言葉で書かれた聖書を通して学習しているんだな、とあらためて思います。
ここで彼らが読んだ英語で書かれた聖句をご覧ください。
"Think about a man who has 100 sheep. He may lose one of them. What does he do then? He leaves all his other sheep in the fields. Then he goes. He looks for the sheep that he has lost. He looks until he finds it. When he finds the sheep, he is very happy. He lifts it up and he puts it across his shoulders. Then he carries it back home. He speaks to all his friends and to the people that live near him. He says, “I have found the sheep that I lost. So come to my house and we can all be happy together.” When one person stops doing wrong things, it is like that. It makes those that live with God in heaven very happy. They will be happier about that one person, than about 99 people who already obey God."
※引用:https://www.easyenglish.bible/bible/easy/luke/15/
どうでしょうか。ぼくは英語のバージョンのほうがわかりやすいと感じました、とくに最後のほう(笑)どうやら生徒も同じようなことを感じてくれたようで、見出しの感想につながるわけです。
ここで言いたいのは、実は「聖書は英語で読んだほうがわかりやすい」ということではありません。実は英語でも日本語でも、聖書って色々なタイプがあるんです。大人向けに厳密な訳で書かれたものもあれば、子供向けに平易なことばで書かれたものもあります。つまり、生徒が「英語の聖書のほうがわかりやすい」と感じた理由は、以下の2点だと考えられます。
(1)生徒たちが日頃使っている日本語でかかれた聖書は、難しい日本語で書かれている
(2)生徒たちが私の授業で読んだ英語の聖句は、わかりやすい英語で書かれている
この2点が要因となり、結果として「難しい日本語」<「わかりやすい英語」だと彼らは感じたようです。この経験をすこし乱暴に一般化すれば、「日本語では収集しづらいと思う情報でも、英語を使えば収集しやすくなる」ということになるかもしれません。そんなことに気づくためにも、平易なことばで書かれた聖句を読んでみるって貴重な体験なんじゃないかなと思っています。
「英語で話すほうが恥ずかしくない」
つぎに「授業のながれ(2)と(3)」について書きたいと思います。↑は授業後のアンケートで生徒が書いてくれたコメントです。「ふつう英語話すほうが恥ずかしくない!?」って思いますが、少なくともこの子はそう思わなかったようです。何故そのようなことになったのか、見ていきたいと思います。
「迷いでた羊のたとえ話」を読んだあと、生徒たちにこんな問いを提示して考えを深めてもらいました。よければみなさんも考えてみて下さい。
① あなたが「迷いでた羊」なら、見つけてもらったときどう思うか?
② あなたが「残された99匹の羊」ならどう思うか?
③ 誰かに許してもらったときのことを思い出して、話して下さい
①はhappyとかですかね。②はangryとか、worryとかかな。②でネガティブな意見をもつ人の理由は「群れを勝手に離れた羊のために、なぜわたしたちが放置されなきゃいけないのだ」とかですかね。至極まっとうな意見に聞こえます。「自分勝手なやつのために、なぜ私達のような善良な人々が損を被らなきゃいけないのか」という主張。いまの日本社会でこういう価値観を持っている人けっこう多いと思います。私もこういう考え方でいっちゃこと、多々あります。
しかし③に向き合ってみると、どうでしょうか。「一度も誰からも許してもらったことがないという人なんて、実はいないってことがわかります。それは裏を返せば、「誰もが一度は過ちをおかしている」ということに気づくということです。聖書のたとえを使えば、「誰もが一度は迷いでた羊になったことがある」ということになるわけですね。①②ときてからの③に向き合うと、そんなことに気づくわけです。
でも③についてクラスメイトに話をするってちょっと恥ずかしくないですか?(笑)たとえば私が職場の同僚に③の話をするとなったら少し気恥ずかしいかもしれません。だって自分が失敗して許してもらったときのことですよね。自分の弱みをさらけ出すわけですから、少し勇気がいります。
でもCLILは③を英語でやります。英語が苦手な生徒ほど、英語の表現を一生懸命考えながら自分の経験について話すことになると思います。この「英語の表現を一生懸命考える」ことが、「ちょっと気恥ずかしい内容について語ること」のハードルを下げることになるのかもしれないな、と↑の見出しのコメントを見てあとから思いました。(この点はちゃんとアンケートなどをとって検証したわけじゃないので、仮説として私が思っていることです)
「めっっっちゃ聞いてました」
これは私の授業にやってきて、英語で説教をしてくれた聖書科の先生が言ってくれたコメントです。どうやら彼は「日本語より英語の説教のほうが、生徒はよく聞いてくれた」と感じているようです。「授業の流れ(4)と(5)」について触れながら、何故こうなったのかを考えてみたいと思います。
「まぁでもこの点は単純でしょ、『日本語よりも英語のほうが一生懸命聞こうとしないと聞き取れないから』だよね。」と思う方もいるかもしれません。「いやそれ英語のリスニングがんばってるだけだから、聖書の内容とは関係ないじゃん」「本質的な着眼点ではないでしょ」と思われても自然なことかなと思います。
ただ「一生懸命聞こうとしないとわからないような内容を、なぜ生徒は聞き取りたいと思ったか」という点についてはよく考えてみる必要があります。色々なファクターがあると思います。ふだん日本語しか喋らない聖書の先生が頑張って英語で話してるから、一生懸命聞いてあげようとか。いつも日本語だけど英語って新鮮だから聞いてみよう、とか。
上記のような要因もあるかもしれませんが、僕は「授業の流れ(3)で聖書の内容と自らの生活を関連付けたから」という要素が大きいのではないかとおもいます。問いについて答えていくなかで、「この聖句はどうやら自分と関係がありそうだぞ」と思ったから、一生懸命聞いてくれたのではないでしょうか(私の希望的観測かもしれませんが...笑)。
このように生徒が「学んでいる内容が自らの生活の文脈と関係があると感じられること」はとても大切だとCLILでは考えます。なぜならCLILはアクティブラーニング形式の授業なので、生徒が「この課題は自分に関係のあることだから、取り組んでみたい!」と思えるかどうかは授業の質を大きく左右するからです。なのでCLILではこのような要素を「学びのauthenticity(本物らしさ)」と呼び、重要視しているのです。
聖書は生き方について考えるためのとても良い素材(こんな言い方してはいけませんが)なので、聖書を題材に使って適切な問いを立てれば、かならず誰にとってもauthenticな学びの機会になるのでは、と見出しの先生のコメントを聞いて思いました。
ただ「適切な問いをたてる」がめちゃくちゃ難しくて、これは本当に聖書科の先生の助けなしでは絶対にムリでした。聖書を正しく理解し、その上で本質にせまる問いをたてることは、ノンクリスチャンの僕にはムリです。英語の先生が他教科の先生と協働するって、とても大切だなぁとあらためて思います(彼らの仕事を増やすことになってしまいますが...笑)。
以上です!なにかの参考になりますと幸いです:)
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