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炊き立ての白いご飯にぜんぶ持っていかれる「川っぺりムコリッタ」

「なにこれ、炊き立ての白いご飯がめちゃくちゃうまそうじゃん…」

 川っぺりムコリッタを読んだぼくの感想はこれ。他にも大事なことがたくさん書いてあったと思うんだけど、その全てがかすむほどに炊き立ての白いご飯の話だった。いや、ほんと話としてもめちゃくちゃよかったんです。けど、とにかく「白いご飯」に関する描写力がすごかった。この本はきっとご飯メーカーのステマに違いないと疑ってしまったほどだ。まぁそんなわけないんだけど。

Kindleで読みました

 物語は、主人公の山田が母親に捨てられる描写から始まる。なにしろ、最初の一文が「お前とはもうこれで終わりだよ」ですから。まぁ穏やかではないです。さらにそのとき母親が高校生の山田に渡したのが「くすんだ金色の財布から出てきた一万円札が二枚」というわけだから、なんともアングラで不穏な始まり方ですよ。正直に言うと「これ選書ミスったかな」と少し後悔しました。捨てるにしても、捨て方が悪すぎるだろうと。まぁ捨て方に良いも悪いもないのだろうけど…

 いずれにせよ山田の境遇には同情するものがあるし、どんな理由があるにせよ、母親はひどいなって思う。

 けど、読み終わってみるととにかく「ご飯うまそう」だし、「やっぱ日本人はご飯だわ」などと、全然関係ない感想が出てくる。どう考えても「ご飯うまそう」が心に残ってる。炊き立ての白いご飯に全部持っていかれてしまったわけですよ。

***

 主人公の山田はご飯を炊くのがうまい。ご飯を上手に炊く才能がある。とにかくご飯を炊くのがうまい。念のためもう一度言っておくが、山田はご飯を炊くのがうまい。
 でもそれは物語としてはあくまでサブ的な要素でしかなく、山田は前科持ちだし、川べりに住んで川が氾濫したタイミングで死にたいとか思ってるし、ハイツムコリッタに住む住人たちもどこか壊れてる感じがする。しまいには役所から捨てられた父親の遺骨を引き取ってくれと連絡がくる始末で、父親は自殺だったのか?と役所の人に聞くシーンなんかは息が止まりそうなくらいに張り詰めた空気が伝わってくる。

 最初に僕が感じたように、アングラでどこか救いようがない話。でも、山田はご飯を炊くのがうまい。こっちなんですよね、残ってるのは。
 「食べる」という行為は、どんな人間でも例外なく生きていく上で必要で、その一点においては平等だなって思わされる。お金持ちだろうと、人生を投げた前科者だろうと、等しくやってくる「食べる」という時間。それが愛おしく感じる。

 でも、平等といいつつ現実には格差はある。物語の中でもすき焼きを食べるシーンが出てくるんだけど、そのすき焼きは丘の上のお金持ちがペット用に高級な墓石を買ってくれたお金で買ったらしい。金額は200万円以上とか言うから格差マックスだ。
 けど、ぼくがここで言いたい平等というのはそういうことではないんですよ。このすき焼きのシーンも現実を突きつけられつつも、なぜか笑ってしまう。笑えて、不思議とちょっと羨ましいなって思ってしまう。「お前は食べるのに困った経験がないからそう思えるんだよ」と言われるとそうかもしれない。けど、みんなで食べるご飯は人から見たらちょっと惨めで見下されそうな状況でも、どこか楽しそうで羨ましく、生きるってこれだなって思ってしまう。そう考えると「ご飯が上手にたける才能」はちょっと羨ましいかもしれない。

 でもこの羨ましい才能は山田が子供の頃、母親に育児放棄されていて朝ごはんも食べれず、昼ごはんの給食を何度もおかわりしなければ命に関わるという状況からうまれたものだったという。

夜ご飯は、たいてい自分で炊いたご飯だけ。たまに母が買ってきた総菜が冷蔵庫に入っていて、それは特別な御馳走だった。だから、ご飯だけはいつでも美味しく炊かないといけなかった。たまに、米さえも切れることがあった。そんな時は水だけ飲んで、ただただ次の日の給食まで我慢するのだった。

「川っぺりムコリッタ」より

 友人の島田は山田が炊くご飯をうまそうに食べ、「ご飯を炊く才能があるよね」と何度も言うが、これは才能というより生死にかかわる状況で身に付けざるをえなかったものなのだ。僕はこの一文を読んだ時、けっこうな衝撃を受けた。ご飯はいつだって当たり前に出てきてて、それ故に感謝の気持ちが薄まってたのかもしれない。生きるためにご飯を食べてるのに、生きるためにご飯を用意してる感覚が薄かった。

 物語を俯瞰的に見ていると、山田のこの「ご飯を炊く才能」はかなり役立っているように見える。それを起点に(意識はしてないが)人間関係ができていき、いつの間にか失いたくない大事なものができている。前科の話を島田に「いちばん初めにご飯を食べた時に言っておけばよかった」と後悔するシーンは、わかるなぁと思いつつ、たぶん何度繰り返してもそのタイミングでは言えないんだよねって思う。そういうことってある。
 大事なことは後から遅れてやってくる感じがする。振り返ってはじめて「ああ、あれがターニングポイントだったんだな」っていう後悔は身に覚えが痛いほどある。

 山田は自分に前科があることが島田にバレたとき、島田との友情を失いたくないと考えてしまう。当初は川っぺりに住んで、自然に死にたい。もう誰とも関わりたくないと思ってたにも関わらず、だ。島田から無理やり押しかけてきた関係ではあるものの、一緒にご飯を食べることで大事なものが見えてきたんだろう。
 そう考えると、奇しくも母親の育児放棄から生まれた特技が山田を救っているようで、なんとも不思議というか因果だなって思う。ここでひとつ思うことがある。登場人物の1人、南さんの話だ。

 南さんは夫を病気で亡くした未亡人で、ハイツムコリッタの管理人。ここだけ読むとめぞん一刻なんだけど、そこはグッと我慢して置いておいて、川っぺりムコリッタの感想を続けるとする。南さんが「夫の骨を食べたの」って山田に告げるシーンがある。夫の背中には大きなイボがあったらしい。

「私はね、全然そんなもの気にしてなかったの。でもね、なぜかあの人はそれを気にしていて、ある時、私に黙ってそのイボを病院で取ってしまったの。その後すぐに癌になってしまって……。あれよね。無意味に存在しているものなんて、なんにもないのよ。あのイボはきっと、あの人の毒素を吐き出すための通り道だったのに。取らないでって、言っておけばよかったな……」 

「川っぺりムコリッタ」より

 ここの「無意味に存在しているものなんて、なにもないのよ」という言葉がとても響いた。そうなんよなーほんとそう。無意味に存在しているものなんてない。頭の中で繰り返し思う。

 この物語、どう読んでも山田の母親は酷いし、捨てられた人生に同情してしまう。本人もきっと恨んだろう。けど、無意味に存在しているものなんてないというなら、母親の存在も意味のあるものだったんだろう。

 山田の「ご飯を炊く才能」は母親の育児放棄から生まれた。因果なことだが、そのおかげで山田は大切なものを手に入れてる。こんな風に、コンプレックスやトラウマも、きっと存在することで意味があることもあるんだろう。で、南さんは「言っておけばよかったな…」と後悔している。ここも非常に心に残っていて、コンプレックスやトラウマも「大丈夫だよ」とか「好きだよ」って言ってあげることが大事なんだなって思った。「無駄なものはなにもない」って思えるのは、まわりにいる人たちのパワーなのかもしれない。

 それでいくと、島田が常々言ってた「山ちゃんはご飯炊く才能があるね」という言葉はすごい。それがあったからはじめて、山田は嫌いでコンプレックスだった自分の過去を丸ごと肯定できたのだと思うんですよね。だからこの本から「白いご飯うまそう」という感想が出てくることはなんら不思議ではないのだ。やっぱり川上っぺりムコリッタはご飯の本だった!

さぁ、今日は白いご飯の上にイカの塩辛…はないので、納豆を乗っけて食べよう。今日も変わらずご飯が食べれることに感謝して。いただきます。

 P.S
夜ご飯は餃子でした。うまかった。

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