読書記録「人新世の「資本論」」斎藤孝平著
集英社新書
2021
最近やたらと耳にするSDGs。
Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)の略。国連が目標として掲げているが、著者はそもそも"持続可能な開発”という前提に疑問を投げかける。
経済成長のための”開発”をこの先も同様に続けるつもりなのかと。
そして、このような目標を掲げて、地球温暖化対策をやってる気になっていていいのだろうかと。グリーン・ウォッシュに取り込まれ、真の危機から目を逸らされているだけなのではないだろうかと。
タイトルの「人新世」(Anthropocene)はノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンが地質学的にみて地球が新たな時代に突入したとして名づけたもの。
資本主義の本質を考えれば、脱成長論では不十分だと著者はいう。
技術進歩によって対策が出来るというのはちょっと希望を持ちたくなるが、やはり危うい。
相手は自然のことだからその技術がどんな思わぬ影響をもたらすのかもわからない。そんなに自然を管理するなんて可能だろうか。そして我々はそれを望んでいるのだろうか。
グローバル・サウスに負担を押し付け発展しつづけてきた資本主義。
そして資本主義においては希少性が人工的に作り出される。
希少性とSDGsでいえば、SDGsという名目のもと、必要以上に高価格な商品も見かけるような気がする。
本の中で指摘されているように共産主義は生産力を上げる生産力至上主義のイメージを持っていたので、晩年のマルクスが生産性を超えた人々の生き方を考えていたことは驚きだった。
著者が提案しているのが脱成長コミュニズム。
北欧のような国家主導のものではなく、国民が意思決定をしていく、開かれた国家といった感じだろうか。
こちらは性差別の話で文脈はちょっと違うけれど、映画「ビリーブ 未来への大逆転」での台詞を思い出した。
国そのものを変えようというのではない。変えようと思っていなくても人々の意識は時代とともに変わっていく。少なくとも国はそれを邪魔するようなことがあってはならない。
人々の意識の変化と行動が大きく世の中を変えていくこともわかるのだが、それで果たして間に合うのか。
脱成長コミュニズムの萌芽として挙げられているのも、結局は草の根の運動である。
でも、その市民への信頼はどこから来るのか。指導者が信頼できないことがあるのとどう違うのか。間違った方向にいくことはないのか。
資本主義の限界のところには説得力があっただけに、脱成長コミュニズムで示された姿はあまりにも理想の市民による理想の世界でありすぎるように感じた。
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