見出し画像

そうとしてしか生きられない私たち

自分の嫌なところによく似た人と縁があることが多い。
迷惑をかけられても、どこか「自分と似てるな」と思うと切り捨てられない。

自分なら同じ行動はしない。それでも自分の中にもある地続きの部分に、見ていると苦しくなってしまう。

でもそれはそれで、自分と重ね合わせて縁を感じたりして、それなりにそういう人間関係に深みを感じて楽しんでいた。

でも数日前の体験を通して、きっとそれはそう思いたいだけなのかもしれない、自分が救われたいだけなのかもしれない、などと考え込んでしまった。

数日前の苦しい体験について、ずっとモヤモヤ考え続けている。整理のために少しずつ書きすすめてみる。

その人は私によく似ていた。
数年前に出会ったときから思っている。正直見ていてしんどくて嫌だけれど、何となく関係は続いていて、先日私に会いに来た。

藁をもつかむように私を求める姿に、かつての私を見ているようで苦しくて、なんとも言えない同族嫌悪のような感覚があった。

私はその人が生きづらいのを知っている。正直すがられていると思う。
でも、その人はそうではないと言った。私に対する気持ちは絶対に愛情で、私を何とかしてあげたいのだと。

それは誤魔化しだと思った。
なんなら自己理解が浅いとすら思ってしまった。傲慢にも。

私は (というか多分みんな直感的に) 言っている内容より行動のほうを信じる。
その人の気持ちは私に対する愛情などではなく、ただ救いを求めている手段にしているだけと思った。

それが悪いわけじゃない、どうしようもないけれど、悲しいことに私はそういうのに敏感だ。

私は人を消費するような扱いをする自分にも厳しいし、そういうことをする人にも厳しいことは自覚している。

それでも、自分はそうではない、と頑なに信じている人に対して、本当はそうなのだと諭すこと、暴こうとすることは何とも傲慢に思えた。

自分の思う自分と、人から見えている自分。

自分に見えている自分は、意外と真実ではないとかいう言説は時々聞くけれど、一周回って私は、結局自分から見えている自分だけが自分だと思っている。

正しい自分や真実なんてどこにもないから、探す必要なんてないし、客観視なんてできなくていい。
結局自分から見えている自分だけを見て信じて死んでいくんだなという感覚がある。

だから、その人がそうでないと言うならそうでないのだ。

でもどう見ても苦しそうなその人に、どうしても苦しくなってしまうし、暴こう、認めさせようとしてしまう自分がいる。

でもそれは私の癖で、もはや祈りみたいなものだ。
自分の理解可能な枠の中に相手を押し込めたい、同じしんどさだと信じて私自身が救われたいという気持ちなのではないかと思ってしまった。

ここまで私は考え抜いて世界と他人をきちんと認識しようとしているのに、自分の信じたいものだけを信じてそれをサボるんじゃないという、妬みにも似た感覚なのかもしれない。
書いていてびっくりするほどの、妬み。

その人の感覚をそのままに受け止めてあげられないのは、私の未熟さだと思う。

それでもなお、苦しいことを認めようとしないからこそ、私よりも数倍苦しそう(に見える)その人を「よく生きてきたね、しんどかったね」と抱きしめてあげたい気持ちになった。

なんでこんなふうにしか生きられないんだろうね、痛いね、苦しいねと。

ただそれは余計に残酷だし、何より苦しいことを認めない人に対して「あなたは苦しかった」と決めつけることは暴力的なような気がしたからやめておいた。

彼を見ていると、かつての自分が蘇る。
多分この人は、私に同じ痛みを感じていてほしいんだろうなと思いながら、どうしても同じ痛みは感じられない。
どうしようもないやるせなさしか感じられない自分に、人生は残酷だなぁと感じていた。

何としてでも私を思い通りにしたいその人に、私だって思い通りにならないことを乗り越えてきたんだとこれまた妬みに近い怒りが湧く。

人生は思い通りにいかない。
それを学ぶことが大人になるということだという言説は強い。
思い通りにならない場面でどう振る舞うか、子どもにスキルを身につけてもらうということを日常的にやっている立場に私はいる。

それでも、私はあんまりその考え方が好きじゃない。

思い通りにならないと苦しい気持ちは人それぞれで、それで死ぬ思いをする人だっている。
もうそれは特性や生育環境、なんなら多分前世とかから来るもので、それをわがままだと言ってしまうにはあまりにきつすぎる。
どうにもならないなら死にたいと暴れ回りたい気持ちは痛いほど理解できる。

それにも関わらず私は、これは誰もが通る道だと、そのどうしようもなさを認めて押し付けた。

思い通りにならないことを我慢するべきだという世の中に抗いたかったつもりが、やっぱり自分の辛い経験は妬みのような感情を生む。

それをどうにも打開できなかったのは私の未熟さなんだと思う。
一線を引くことしかできなかった。でもそれで精一杯の優しさだとも思う、私にあれ以上のことはできなかった。

私は人を消費しない自分になりたい。楽になりたいし、人を大切にしたい。
そう言うと「それはもう、小学生くらいまでしか矯正できないよ」と吐き捨てるように言われた。
それがずっとささくれになっている。多分すごく傷ついたのだと思う。
果たしてそれは本当なんだろうか。

私は個人の生育環境の話をしたいんじゃない。多分誰の中にも多かれ少なかれあるこの残酷さ、気持ちについて、人と話をして何とか生きていく方法を見つけていきたい。

「どこから間違ってたんだろうね」と言うその人に「何も間違ってないと思いますよ」と毒にも薬にもならない正論を吐いた。
多分、そのときはそうとしか生きられないから、何回戻っても私たちはこの場所にいる。

その人に、もう二度と会うことはないかもしれないなと思った。
いや、50年後くらいに、お互い楽になって会えたらいいな。
どちらも間違っていたし精一杯だったんだろうなと本当に思えていたらいいなと思う。

私がたくさんかけてきた迷惑に対して懺悔する代わりに、その人を許したい。
そうとしか生きられない私たちに、光が差しますようにともう祈るしかない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?