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そう見せたい自分と、本当の自分と、他人から見える自分

私は昔から「そう見せたい自分」が強すぎる気がする。人と比べられないから相対的にどうなのかは知らないけれど。

小さい頃、学校に行けない日が多々あった。
なんで行けないのか自分でもよくわからなかった。頑張れば行ける気もするし、めちゃくちゃ嫌なことがあるわけでもなかった。
実際、休んだらまずい日や楽しみなことがある日は休まない。「このへんで休んでもいいか」と自分でちゃんと調整していた。

それでも大人はきっちりした理由を求める。
先生には「お友達と何かあった?」と聞かれるし、親と先生は電話でよく話しているし、親は「不登校の子の接し方」みたいな本を買ってきた。

なんだか、そうやって重い理由があるように振る舞わないといけない気がしていた。
無理に絞り出した「○○ちゃんが挨拶をしてくれなかった」みたいな理由を言うと、担任の先生に「それはわざとじゃないかもしれないよ」とか言われた。
それはそれですごく傷ついた。
背景を慮る気もないくせに、無理やり子どもから理由をもぎ取ろうとしないでほしい。

行けない理由はたぶん、ちゃんとあった。
でもそれは形にならなかったし、もっと言うなら「世間を納得させる形」にはならなかった。

形にならないもの、稚拙な言葉のものを「軽いもの」と考える風潮が嫌だ。
「そんな理由で?」と軽く思われるのが嫌で、みんなに「あなたはしんどいよ」と認められたかった。ちゃんと心配してほしかった。

重く振る舞うことにだんだん演技が混じってきて、嘘か本当かわからなくなった。
母に連れて行かれたカウンセリングでは、優しいお姉さんが私と一緒に遊びながら、学校の話を引き出したがっているのに気づいていた。
時々友達が嫌だという話をすると、身を乗り出して聞いてくれた。
私は相手の望むものを感じ取ると嫌悪感がある一方で、過剰にそれに合わせにいってしまうところがある。

そのカウンセリングルームでは、私はとても幼く振る舞っていた。
当時小学3年生くらいだったけれど、カウンセラーさんが「5歳くらいの振舞いです」と母に告げていたことを、母と父の会話を盗み聞いて知った。
そりゃ、私がそう見せようと振る舞ってるんだからそうだわ、何も分かってないじゃん、プロのくせにと感じた。

高校生のときに行った精神科で、発達検査をしたときもそうだった。
しんどそうな顔で、何もわかってない感じに振る舞った。母ばかりが喋っていた。
足を組んだ偉そうな精神科のおじいちゃんが、私の結果を見て「なんとなくそんな感じがした」と言った。
そりゃ、そう見せてるからねと思った。
友達の前だったらここの数億倍ハキハキ喋る。
でも、友達の前で見せている明るくて怠惰な自分が、本当の自分だとも思えなかった。

よくわからない、テンプレートな「計画が立てられない」「空気が読めない」とかの発達特性に関するアドバイスをもらって、母は発達障害の本を買い漁った。
私じゃない何かへの対策を立てられているようだった。別にそんなところに私の困りはない。

たしかに今思うと私は発達特性は強めだとは思う。
でも、私の特性は私だけのもので、私が何に困っていて辛いのか、泣きたいのか、それは私の話をよく聞いてくれないとわからない。だって自分でもわかっていないのに。
それは「そう見せたい私」の中にはない。

ここまで客観的な乖離があることは、大人になってなくなった。
それでも私の、なんとなく演技をしてしまう癖は変わらない。

気持ちがしんどいときよく、うつ傾向チェックリストみたいなものをしていた。

チェックリストの中で、私は私に演技をしだす。
世間を納得させる形にしたい私に、本当は頑張れば何でもできる私や、泣いたあとケロッとして漫画を読んでいる私が責め立てる。

だからこそ誰の何のアドバイスも受け入れられない。
私は本当は平気なんだ、もっとできるのにサボってるんだと心の奥で思っている私が、泣きながらこれは異常なんじゃないかと思いたがっている私を責める。
こんなアドバイスや対策、受け入れても無駄だ、だって私は本当はできるから、と言い出す。

それでも私が苦しいことは事実だった。
私はきっと、普通に学校に行っていても心配されたかったのだ。私は普通に過ごすだけでも頑張っていた、苦しかった。それを誰かにわかってほしかったのだと思う。

カウンセラーや病院の人は、治ったらさよならだ。異常だからこそ心配してもらえる。それが悲しかった。
それと同じで、普通に学校に行ったら母は心配してくれない。今思えば、私は異常でいることで母の関心を繋ごうとしていた。
普通にしている、しんどくない私には価値がないと思っていたのかもしれない。心配してもらう以外に、愛情を得る手段が思いつかなかった。

「異常」になると、リスクとして「治すべき対象」にされる。でも私が得たいのはそれじゃなかった。ただ誰かの関心だった。
だからずっと満たされなかったのかもしれない。これは多分、私だけじゃない。

本当は普通に生きているだけで頑張っているねって認めてもらいたい。みんなそうなんじゃないかな。
存在に価値があると心の底から感じたい。

そう見せたいと演技してしまう自分もきっと自分なんだな、と今では思える。
そう捉えてくれる人が近くにいたらいい。

本当の自分と、そう見せたい自分と、他人から見えている自分がマーブル模様のように混ざってゆらゆらしている、そんな感じ。

今日は仕事を休んだ。
仕事を休んだ日は学校を休んだ日とよく似ている、そう思う日曜の夕方。

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