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映画『パワー・オブ・ザ・ドッグ』 の考察と“有害な男らしさ”について考えたこと

1.「パワー・オブ・ザ・ドッグ」 の意味


 “ ー剣と犬の力から私の魂を解放したまえ― ”

 作中でピーターが口にする聖書の一遍。タイトルでもあるこの「犬の力」とは、男らしさを強いる力だと解釈した。そうすると、この聖書からの引用が意味するのは男らしさの圧力からの解放である。

 ここで問題になるのが、ベネディクト・カンバーバッチが本作のインタビューでも触れていたトキシックマスキュリニティ(有害な男らしさ)についてだ。

トキシックマスキュリニティ(以下「有害な男らしさ」)とは、直訳の通り、害のある男らしさの規範を指す。フィルの言動の多くがこれに基づくものだといえるだろう。

 この有害な男らしさを助長してきたのが、ホモソーシャルで共有される価値観である。
(*「ホモ」は「同じ」という意味であり、ホモソーシャルという語も広くは同性同士の結びつきを指すが、ここでは男性同士の場合に限定して使用する。)

 その代表が「ミソジニー(女性蔑視)」と「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」である。
「私は女性を性の対象とし、男性を性の対象としない」という意思表明を通して、同性間の友情を証明し連帯を図ろうとするのだ。

 そして、こうしたホモソーシャルの構造が男らしさの規範と結びつき、その加害性を強めていることが指摘されている。

 フィルの行動原理も、まさにホモソーシャルの価値観を強く反映したものである。

フィルは自分自身から女らしさを排除するだけでなく、女性的な振る舞いをする男性も蔑んでいる。造花を作り給仕を手伝うピーターを揶揄ったり、宿屋でピアノを弾く男性を怒鳴りつけて追い出したりしているのがそうだ。

 これもホモソーシャルへの過度な迎合によるものではないだろうか。同性愛を想起させる男性の女性的な振る舞いを否定することでホモフォビア(同性愛嫌悪)であることを示し、男らしさの権威と自分自身を守ろうとしているように思われた。

2.フィルの秘密と去勢のメタファー


 フィルは同性愛者であることを隠し続け、唯一の理解者であったブロンコを偲び続けている。

 彼は仲間のカウボーイ達が娼婦と遊ぶのをつまらなさそうに眺め、隣室から情事の音が聞こえると、部屋を抜け出しブロンコの鞍を静かに磨く。そして、裸で水浴びをするカウボーイ達に目をやりながらも仲間には加わらず、秘密の場所へと向かう。ここにフィルの性に対する高潔さや無垢への執着が表れていると感じた。

 こういった性的指向や価値観は、男らしさの規範からは大きく反れるものである。フィルの極端なまでの女らしさの排除と男らしさの強調は、これらをカモフラージュするための手段だということが分かる。

 男らしさを武器にした加害者に見えるフィルは、同時に男らしさによって抑圧される被害者でもあるのだ。

 このことを暗示しているのが牛を去勢するシーンである。去勢の目的は、動物や人間の精力を奪い、コントロール下に置くことだ。

 フィルは躊躇うことなく素手で何頭もの牛を去勢する。これは男らしさを体現する行為である一方で、去勢される牛は社会的に性的欲求を抑圧された=去勢されたフィルを鏡写しにしている。

 また、フィルはピーターが作った造花を燃やしローズのピアノの演奏をなじることで、プライドと自尊心を傷つけて彼らを精神的に去勢しようとしていた。

 フィルは、男らしさによって他者を去勢し、自らも男らしさによって去勢されるのだ。

3.「犬の影」という共通項


 フィルは秘密の姿を目撃されたことをきっかけにピーターとの距離を縮めようとする。ジェーン・カンピオン監督は、裸でピーターを怒鳴り、聖地で感情をさらけ出した行為がフィルの感情を変化させたと語っている。

 そして、山肌に見える犬形の影が二人の感性を交差させる。フィルとブロンコだけに見えていた犬の影を、ピーターは牧場に来た時からそう見えていたと言うのだ。

 このことは、二人を脅かしている「犬の力」=男らしさの規範という共通項の存在を意味しているのだろう。

 ピーターとフィルは、共に男らしさという「犬の力」に抑圧されているにも関わらず、物語の中盤まで対極の存在として描かれる。二人の関係は「男らしさ」を軸としたヒエラルキーにおける強者と弱者、加害者と被害者のように見える。

 しかし、前述したようにフィルもまた男らしさに虐げられる人間の一人である。男らしさという鎧を着たフィルが男らしさの被害者でもあることは、その問題の見えにくさと複雑さを物語っている。 

4.フィルはなぜ贈り物にロープを選んだのか


 ピーターにブロンコと自分の関係を重ねたフィルは、ピーターを教育し、母親であるローズから解放しようとする。

 ここで気になるのがフィルの両親の存在である。

 知事に「インテリ夫婦」と呼ばれるフィルの両親は、その振る舞いからも分かる通り、社会的地位の高いいわゆるエリートである。また、フィルとジョージが母親のことを「お袋様(lady)と呼んでいることや、年頃になると母親が東部の令嬢を連れてきたという話からは、フィルの母親の厳格な人柄が伺える。

 フィルの執拗な男らしさの誇示には、親(特に母親)からの期待や兄としての立場も影響しているのだろう。おそらく、フィルを母親の呪縛から解放したのもブロンコである。

 フィルはピーターに「母親の言いなりになるな」と度々忠告する。そして、ピーターを一人前にするために乗馬を教え、自ら編んだロープを授けようとする。そして、ロープの完成を前にしてピーターに「お前に障害物は何もない」と告げている。

 カウボーイにとって、ロープは牛を追い立てて目的地へ導くための道具である。フィルがピーターへの贈り物として縄を選んだのも、人生の「主導権を握れ」というメッセージではないか。

5.ピーターという人物の謎


 本作で最も謎に包まれているのがピーターである。作中でピーターの考えがはっきりと示される場面はほとんどない。

 本作は、ピーターが父の死を振り返り「母を守るのは自分しかいない」と語る場面から始まる。 

 また、男を強くするのは苦境と忍耐だと語るフィルに対し、ピーターは自分の父親は障害物は取り除けと言ったと答える。

 ピーターは一見すると気弱で母親思いな青年である。しかし、彼はローズのためにウサギを捕ってきたと思いきや殺して解剖したり、ローズにバドミントンに誘われても嫌がったりと、決してローズ中心に物事を判断しているわけではない。 

ローズにウサギを家で殺さないよう注意された時も「母親の言いなりになるとでも?」と挑発している。フィルと仲良くしていることを追求された時も、櫛を鳴らしておりストレスを感じているようだった。

 彼はローズを守るという使命感を抱きながらも強い自我や反抗心もあり、どこかでバランスを取ろうとしているように見えた。

 しかし、ピーターを「冷たい、強すぎる」と評した父親の言葉をフィルが嘲笑って間に受けなかったように、ピーターの芯の強さや残酷さはその「女らしい」佇まいによってほとんど見えないものにされている。

 結果、フィルはピーターの手にかかり、命を落としてしまう。皮肉なことに、男らしさの象徴であった素手での作業が仇となって死に至るのだった。この点については、手袋で身を護ろうとしたローズやピーターの生き方(というより生存戦略というべきかもしれない)との対比も感じとれる。

6.「男らしさ」の害について本作から考えたこと


 本作を通して「有害な男らしさ」の問題点は、社会全体に浸透している(男性は)「強くあるべき」、「弱音を吐いてはいけない」というような加害性を正当化し我慢強さを求める男らしさの価値設定そのものが、男らしさの否定を封じ込めていることだと考えた。

 男性が男らしさを否定したりその被害を訴えることは、男らしさの価値観とは両立しえないものであり、引き換えに男らしさを手放すような覚悟が求められるのではないかと思う。フィルのような人間にとっては、男らしさによって手に入れた威厳や地位を失いかねないハイリスクな行為である。

 そのため、男らしさの規範が盤石な社会においては、男らしさの呪縛から脱却する道はほとんど閉ざされているといえるだろう。本作の舞台は約100年前のアメリカであるが、現在でもその閉塞的な構造は維持され続けていると感じる。

 例えば、「弱いところを見せてはいけない」、「泣いてはいけない」といった感情を抑圧する男らしさの規範が男性の自殺率の高さに繋がっていることが指摘されている。

 また、性被害に遭った男性がその被害を訴えることの難しさの理由にも、しばしば男性性の喪失に対する恐れがあげられる。

 有害な男らしさを助長してきたホモソーシャルの価値観についても、現在も広い階層の男性コミュニティで共有されているといえるだろう。

 例えば、日本でもSNSや匿名掲示板の一部で女性を性器の名称で呼ぶスラングが使われているし、ゲイ向けのポルノビデオが共通言語的に「ネタ」にされている。いずれも男性同士でのコミュニケーションで顕著に見られるものである。これもホモソーシャルにおける連帯の手段の一つではないだろうか。

 こうした毒を持つ男らしさがいかに人間を抑圧するかを描き、問題提起をしたのが本作である。男らしさやホモソーシャルの問題点は主にフェミニズムの文脈から批判されてきたが、本作では男性の視点からそれを描いている。

 そして、その恐ろしさは物語の結末に表れている。フィルとピーターは和解せず、フィルは救われないまま死んでしまう。

 死後、泥を落とされ髭を剃られたフィルの素顔はまるで別人のようであった。死ぬことで初めてありのままの姿がさらけ出されるというあまりにも悲しい結末である。

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