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面白いモノを作りたいのに、手が動かない時に読む本『ライティングの哲学』

なにかを書こうとして、白紙のファイルに向かって孤独にフリーズしているならこの本のページを繰ってほしい。ぼくらも同じように、それぞれのかけなさを抱えながら悩み、苦しみ、もがいている一人の執筆者なのだから。(pp3)

一億総クリエイター時代である。

WWWによってあらゆるコンテンツの送受信が世界単位で可能になり、大衆消費社会の出現によってあらゆる産業が第三次産業にスライド、その果てに”オモシロ”至上主義になった昨今。
八百屋のキャベツも、金物屋の包丁も、ウォーホールが書いたスーパーマーケットの山積のトマト缶も。あらゆる商品はその実体を失い、記号化され、差異の体系に集約された。気の利いたキャッチコピーと、ユニークなパッケージで、”オモシロ”さで気を引かねば、どんなに味のいいキャベツでも廃棄処分されてしまう。

ちょっと前に流行ったバズワード「多様性」の出現がこの流れに拍車をかける。「みんなちがってみんないい」と言うハートフルな標語は、「個性無き者に死を」という過激なテーゼに読み替えられる。没個性な者に生きる価値など認められないのだ。
多様性が社会の網目からこぼれ落ちた自由に目を向けた真に公共的なテーマであったのは今は昔。結局、希少性が価値を生み出すと言う市場経済の基本法則に絡め取られ、公共性ガン無視の、金の生る木が乱立することになった。
とどのつまり、「多様性」は儲かるのだ。

我々は”オモシロ”いものを生み出すことを強いられている。
Tweetはバズらなければならない。企画書は会議室を沸き立たせねばならない。読書感想文は、親を先生を教育委員会を唸らせねばならない。
初めはみんな純粋だった。
オモシロいモノが作りたい、楽しいくモノを作りたい。あわよくば、みんなに共感して欲しい。胸いっぱいの創作欲とひとつまみの承認欲求。それだけで十分だった。
今や我々はオモシロいものを「作りたい」から「作らねば」へとモチベーションがが横滑りしているなら。
しかし、なぜだ。
”オモシロ”いものを書こうとすればするほど、筆が動かない。
白紙の紙の前に微動だにすることもできず、ペンを握りながら、朝日を迎える。

「さぁ、この真っ白な紙に、君の作家性をぶつけてごらん」みたいなこと言われてる気がしてきて、何も書けなくなってしまうんですよね。(pp54)

本書は4人の文筆家による座談会、各々の執筆論、その後の座談会という三分構成。4人の共通点は、アカデミックな文章の書き手である点と、「WorkFlowy」というツールを使っている点。
WorkFlowyは要は箇条書きアプリ。適当に文章を書いてEnterを押すとリストが追加、Tabを押すと一段下がったリストが追加される。4人は原稿をまずWorkFlowyで作ってから、最後にWordに移す。
最初っからWordに書いちゃえばいいんじゃないかと思う。しかしこの4人のもう一つの共通点はWordが大っ嫌いな点である。

「とにかく僕はWordから離れたい人間で。あれは発狂するんですよ!」(pp36)

書けなさを克服するにはー4人が到達した答えは「書かないで書く」。
書くのではなく、脳味噌から流れ出る言葉の乱流に身を任せる(フリーライティング)。その波を華麗に乗りこなすことを早々に諦める。もはや排泄のように言葉を書き殴る。流れるような筆致で、ウィットに富んだ言葉を並べ立てる上流作家の姿はそこにはない。糞便にまみれて地を這い回る野生の作家の姿がそこにある。
「うー」「あー」「書けねー」「なーーーんもでてこねーーーーーーー」。
言葉にならない言葉をWorkFlowyに打ち込む。
とにかく書く。白い画面を言葉で埋め尽くす。体裁は気にしない。フォント、ポイント、段落分け。全部後回し。Wordに原稿を移すまで、細かいことは全部無視。
とにかく書く。ひたすら書く。そして、"正しく"書くことを諦める。
「書く」という行為を解体する。「書かないで書く」
そこから出てきた言葉にならない言葉をかき集め、白紙の画面に並べていく。

「もしかしたらそれは化物のようなものかもしれません」(pp120)

しかし、それでいい。目の前に現れた禍々しい化物こそが、本当の自分の姿。理想や計画を全て投げ捨てた、正真正銘の創造物。それがこの化物なのである。

白紙の画面を前にして、苦行の末に、内なる化物を呼び起こす様はもはやシャーマンの黒魔術。
非科学的で、非ハウツー的、コスパも悪けりゃ、分かりづらい。
しかし、この窮屈な世界で、自由にものを書くには、化物の一体や二体呼び起こさなきゃならんのかもしれない。
現代のニーズに逆行する異色の執筆論。



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