流れがわかる日本史⑦

今回はいよいよ摂関政治、藤原氏の全盛期です。摂関政治は一般的に前期と後期に分かれます。前期は藤原氏による摂関政治の確立期であり、この段階では藤原氏の政治は盤石ではありませんでした。しかし後期には藤原氏による摂関政治は確立され、安定します。そのため、今度は藤原氏内部で対立が生じてしまうという結果を招いてしまいます。そんな藤原氏による摂関政治の確立期である前期と、内部対立を生じてしまう後期をみてみたいと思います。

まず前期のポイントは藤原氏がいかに権力を握ったかですが、ポイントは外戚政策と他氏排斥です。外戚政策とは、一言で言うと天皇の母方の親戚になるということです。つまり、天皇に娘を差し出し、その娘が皇子を産んで、それが天皇になれば、天皇の母方の親戚となれるのです。なぜ、それが必要だったかというと、当時の家族は生まれた子供は母方の実家で育てるというのは一般的だったので、母方の家で育った子供は母方の親戚の影響力を非常に強く受けることになります。いわゆるサザエさんのタラちゃんです。タラちゃんはサザエさんの子供ですが、おじさんのカツオやおじいちゃんの波平に逆らったことはありません。また、もう一つ他氏排斥ですが、これは同じように外戚関係を構築して権力を握ろうとする他氏族は当然います。なので、藤原氏はそういった他氏族を罠にはめて追い落とすということを頻繁に行いました。結果、藤原氏は着実に権力の階段を登っていきます。冬嗣の子供である良房は臣下で初めて、摂政となり、その子供基経は、臣下で初めて関白となりました。対抗馬として、伴善男や菅原道真などが登場しましたが、ことごとく左遷させられています。伴善男に関しては、私の人物史をご覧ください。本当は真面目で実直な人間だったのだと思います。

さて、この間、承和の変、応天門の変、阿衡の紛議、昌泰の変とありました。全て藤原氏による他氏排斥事件です。そして、藤原実頼の時代に、安和の変というのが起きて、醍醐天皇の皇子、源高明が失脚し、藤原氏に対抗できる氏族がいなくなると、藤原氏による摂関常置の時代が続いていきます。

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そして、ここから後期に入っていきます。藤原氏内部では「氏の長者」といって、藤原氏を引っ張っていくリーダーを巡って内部で対立が起きていきます。例えば藤原兼家と兼通の兄弟喧嘩は壮絶だったと様々な物語集にも残っています。また、次に有名なのが、藤原道長と甥の藤原伊周との対立です。どちらも当時の一条天皇に娘や妹を差し出し、皇子が産まれれば、その子が天皇となり権力を握れるという状況でした。当時のモテる女性は、顔だけではなく教養も必要でした。そのため、両者に当時随一の家庭教師がつきます。道長の娘彰子には紫式部がつき、伊周の妹定子に対しては枕草子の作者である清少納言がつきました。

そして一条天皇の皇子を産んだのは彰子でした。その父藤原道長はその後、3代の天皇の外祖父(天皇の祖父)となり、藤原氏の氏の長者として絶大な権力を握っていきます。娘の威子が皇后となると、藤原道長は皇后、皇太后、太皇太后、の三皇を道長の娘が占めるという前代未聞の状況となり、この時に道長が有名な歌を詠んでいます。それが、

「この世をば 我がよとぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」です。簡単に言うと、あの満月がまったく欠けてないように、自分も満ち足りている完璧である。という歌です。

これは道長の屋敷でみなで宴会をしているときに、おもむろに、当時左大臣の藤原実資に道長が言いました。

「ちょっと即興の歌を詠みたい、即興だから完成度は低いと思うが、聞いてくれ」と言って歌いました。

これに対して、実資は、感想を求められます。彼は、「いい歌ですね」とは言えません。なぜなら、あまりにひどい歌だからです。周りの人々からあいつは媚びている、機嫌取りをしていると思われます。しかし、「ひどい歌ですね、吐き気がします」とも言えません。当時の道長の権力は絶大です。

彼はこの曲面をどう切り抜けたか、

「しみじみとしますね、私では批評しきれません。みなで歌えばこの歌の真髄が感じられると思います!」と言って、全員を縁側に誘い、満月を眺めながら全員で吟じたのです。

せーーの、「この世をば……」

その後、シーンとなります。道長は皆が吟じてくれて満足します。酒がより周り、頬が赤くなります。

そして、他の面々は顔を伏せながら、しみじみ酷い歌だと感じました。

そして藤原実資は、道長全盛期にありながら右大臣を全うしました。このエピソードも彼の日記、「小右記」に記載されています。小野の右大臣の日記という意味です。中間管理職としてはそういった機転も必要ということですね。

そして、道長の時代からその後、頼通の時代となります。頼通の建てた平等院鳳凰堂はあまりに有名ですが、しかし、頼通の娘が皇子を産まなかったことから、外戚関係が崩れ、摂関政治はあっけなく終わってしまいます。

そして、平安時代末期は、院政という政治スタイルが形成されていきます。それに関しては次の回にお話ししていきたいと思います。本日は、最後までご視聴ありがとうございました。

歴史を学ぶ意義を考えると、未来への道しるべになるからだと言えると思います。日本人は豊かな自然と厳しい自然の狭間で日本人の日本人らしさたる心情を獲得してきました。その日本人がどのような歴史を歩んで今があるのかを知ることは、自分たちが何者なのかを知ることにも繋がると思います。