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『「サル化」する人間社会』(山極寿一)【言葉と家族とゴリラ】

以下のサイトで書評を公開しています。

https://www.j-lectures.org/ideas/sarukasuruningensyakai/

言葉とコミュニケーション


書評において、言葉は音楽的コミュニケーションが発展したかたちであると紹介した。発展についてより詳しくいえば、食料確保のために行動範囲が広がった、あるいは付き合う範囲が広くなったがために情報伝達の効率化として誕生したのではないかとしている。ここで特に「付き合う範囲」について注目したい。ゴリラの集団は10~15頭であり、これは言葉を介さずとも密なコミュニケーションが取れる集団規模とされているが(共鳴集団)、これが徐々に増えて100人~150人以上になると互いの顔と名前が一致する限界に達し意思疎通のために言葉が必要とされる。
個人的な話をすれば、日常生活で15人規模に収まるのは家族、ゼミ、一緒に出掛ける際の友人などである。対して、100人以上の規模と関わることは、(具体的な数は不明だが不特定多数という意味において)ほとんど無数にある。ネットが広まった現代では、例えば今だって私はnote記事を通じて無数の人とある意味で繋がっている。(noteの場合は一方的なので他のSNSなど双方向的なものを想像した方がいいかもしれないが。)
では、同じ言葉を介したコミュニケーションであっても、私が日々面と向かってそれら小さな集団と行うものと、こうして広大な範囲に向けて行うものは同じだろうか。いや、そもそも家族や友人ほど密でフェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションが取れるのであれば、原始的かつ理念的に言葉は不要なのだ。複雑で大規模に情報をやりとりするのに言葉以上に便利なものはないし今後も長く使われるだろうが、昔からあるのはこの生身の身体でありそれこそが重要なのだ。筆者も最後に端的にまとめているので紹介したい。

 〈私たちは言葉を使い、あるいはインターネット技術を使い、情報交換をしているような気になっていますが、もっとも重要な情報は対面した相手の目を通して得られるはずです。人間は相手の言っていることだけではなく、その態度、顔、表情や目の動きから相手の性格をつかみ、評価をします。言葉だけではわかり合えないのが人間です。どんなに技術が進歩しようと、私たちは太古より身につけたフェイス・トゥ・フェイスのコミュニケーションを捨て去ることはないでしょう。〉

山極寿一『「サル化」する人間社会』第七章「サル化」する人間社会

これは私がこの本を選んだ理由とも関係するのだが、依然から「身体性」、「言葉の限界」というワードが頭の中でモヤモヤと浮いていた。言葉は生まれ持った自分の手足のように不可分に結びついているものだという思いは拭えない。ただ、その感覚も本書を通じて徐々に無くなってきている気がする。原始から受け継がれた身体は、細部で変化はあるにせよ、その根幹の部分では変わらない。現代において、物理的な「身体」の重要性はある種忘れ去られないがしろにされているが、人と人が関わるのには依然としてその価値は残っている。


「家族」


そして、その「人と人」の関わりについてキーワードとなってくるのが実は「家族」なのだ。人類はゴリラとの共通祖先から分化した時、ゴリラと共通する性の特徴を残して分かれていったと著者は考えている。すなわち、ゴリラ的な群れ同士が次第に溶け出し合い、家族と家族が協力し合うコミュニティが作られ、それが次第に発展していったとしている。ちなみに、チンパンジー社会の性の在り方は進化の流れから見て人間よりも進んでおり、もはやオスとメスのペアは消滅し家族は必要なくなり地緑的な集団だけがある。
チンパンジー社会は極端というか、人間社会には慣れ親しみがない乱交乱婚社会ではあるが、血縁関係に捉われないという意味ではある種の示唆もある。もともと人類には(DNA鑑定など特殊な技術を使わなければ)、血縁関係を確認する術はないため、コミュニティ全体が新しい「家族」としての役割を果たしても不思議じゃないのだ。


伝統的な意味での家族はこれからも当然残るだろうが血縁関係は今ほど重視されなくなるかもしれない。そうなった時に小さなコミュニティすなわち「家族」が立ち現れてくる。ネット越しで言葉のみに頼ったコミュニケーションではなく、身体性を感じられる範囲で関わることは、人間社会が向かうべき一つの方向性ではないか。

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