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わたくしという現象:アントニオ・ダマシオの「意識と自己」(その1)

意識や思考は重箱構造

意識や思考というのは、ミルフィーユみたいに、何重にも重なった構造になっている。

自分で自分の状態に気づいていなかったことに気づく、ってことは誰にでもわりとよくあるのではないかと思う。

イライラしたり急に不安になったとき、その原因を正確に特定できないのはふつうだし、自分が何かの強い感情に圧倒されているのにぜんぜん気づかずに生活していることだって珍しくない。

自分の感情や、それが身体に及ぼしている状態を細部まで完全に把握している人間はたぶんいない。

感情だけではなく、「思考」だって完全に把握なんかできていない。

自分がぼんやりと「考えて」いることを言語化する作業には、けっこうなエネルギーが必要だ。

わたしは英語を日本語にする仕事をしているので、言葉の意味について毎日のようにうだうだ考え込むのだけど、英語で書かれたある考えを日本語に置き換えるときには、その考えを英語でも日本語でもない薄暗い領域にいったん引き取って、そこで日本語に合った形に整えてから明るい場所に出力する、という作業をやっている。

薄暗い領域に言語のかたちをとる前の段階の思考があって、言語はその上にのっかっているものだということを、二つの言語の間を行き来する作業のなかではわりと日常的に実感する。

日常的な行動の大部分も、とくに意識しないでやっていることが多い。歩いたり車を運転したりりんごの皮をむいたりといった作業は、最初はすごく難しくて全神経を集中しなくてはならなかったはずだけど、慣れてしまうと「身体が覚えて」いるのであらためて注意を向ける必要はない。

「意識」に対して「前意識」と「無意識」があり、人間の行動は「無意識」の領域でなにやらかなりの部分が決定されているという「局所論」を19世紀にフロイトが提唱して以来、人間には無意識という領域があってそこで何かが起きているんだということは常識になったけれど、じゃあそもそも意識や無意識って一体何なのよ、どういうしくみになっているのよ、という話になると、それから100年たった今でも結論が出ていないのだ。

脳神経科学者のアントニオ・ダマシオ教授が書いた『意識と自己』(講談社、Kindle版、2018年、田中三彦訳。原書は『The Feeling of What Happens』1999年出版)は、その無意識/意識のメカニズムについて、脳科学の知見にもとづく、とっても納得の、わくわくするような仮説を紹介してくれている。

ダマシオ教授はそもそも、脳に障害を負った患者に正常人とはちがう意識状態が観察されることを手がかりに、長年かけてこの理論をみがいていった。

とくに欠神発作という症状を持つ患者の観察から「意識とはなんぞや」と深く考えるようになったそうだ。

「意識を失う」というと、ふつうは深い睡眠や麻酔にかかったときのような状態をさす。まわりで何が起きているか一切感じられず、思考もなく、話しかけても反応しない。意識のスイッチがオフになっている状態。

でも、てんかんの一種である「欠神発作」の患者は、とつぜん数秒から数十秒、「覚醒しているのに意識のない状態」に入るのだという。その間、手に持ったカップからコーヒーを飲んだり、まわりのものにさわったり、歩き回ることもあるが、話しかけても反応はないし、意識が戻るとその間の記憶はまったくない。

昏睡状態なのに目覚めている。まわりに注意を向けて行動することはできるが、それを意識していない。「そこにいるともいえるし、いないともいえる」奇妙な状態。

「注意」と「意識」が分離する状態があり得るということは、「注意」の機能と、自覚的・主体的に行動する「意識」のプロセスはそもそも別システムだってことだ。

この患者を観察したあと、ダマシオ教授は、意識が生まれるのに必要なのは「自己の感覚」じゃないかと考えるようになった。そして自己の感覚というのは「認識の感情」だという結論に達するのだ。

認識が感情?!って、びっくりしませんか?

(つづく)

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