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國分功一郎『近代政治哲学』(ちくま新書)を読んで

 こんにちは。柚子瀬です。

 先日、國分功一郎さんの『近代政治哲学』(ちくま新書)を読み終えたので、その感想を書いていこうと思います。今年はX(ツイッター)に簡単な感想──伝えられる情報量が限られているのでもはや読書報告といえるかもしれない──を投稿するだけでなくて、なるたけnoteにきちんとした感想を投稿していけたらいいなと考えています。

 まず、なぜ本書を読もうと思ったかというと、第一に國分さんの作品だからというのが大きいですね。内容の如何にかかわらず、これまで読んだ國分さんの作品──『スピノザの方法』『中動態の世界』『暇と退屈の倫理学』『ドゥルーズの哲学原理』ほか──がすべておもしろかったことから、國分さんの作品というだけで信頼できます。あとは最近のめり込んでいる『銀河英雄伝説』の影響も無視できません。『銀英伝』を通して、政治をめぐる事象に関してこれまで以上に強く関心を持たざるをえなくなりました。

 以下、内容について触れていきます。

 「はじめに」で早速重大なことが書かれています。

 本書のタイトルである「近代政治哲学」という表現は、それを構成している三つの単語のどれもが詳細な検討と定義を必要とするものである。「近代」とはいつ始まったのか? あるいはいつのことなのか? それは終わったのか、それとも続いているのか? 歴史学の分野でも、思想・哲学の分野でも、こうした問いは極めて重要な問いであったし、あり続けている。
 本書にとっては、とりわけ、残り二つの単語が大きな問題を提起する。「政治」とは何か? 「哲学」とは何か? あまりにも大きな問いである。しかもこの二語が並んで現れることによって、問題はさらに鋭いものとならざるを得ない。「政治哲学」と書かれているけれども、それはいったい何なのか? いや、そもそもそうした分野は成立しうるのか?

7-8頁

 「近代」「政治」「哲学」のどれもが詳細な検討と定義を必要とするという指摘は無視できません。なぜなら、言葉の意味や概念を確定させないことには取り扱う対象について語ることはできないからです。これはどの学問にも共通することだと思いますが、しばしば私たちは言葉の意味や概念が不明確なまま対象について語ってしまうものです。かくいう私もそうです。國分さんはここで、「近代政治哲学」というタイトルがカバーしようとするものをはっきりさせておこうとしています。

「近代」とはここで、十六世紀以降、それまでとは全く異なる新しい国家体制が模索され、また実際にそれが打ち立てられていった時代を指している。「政治」はしたがって、そのような意味での国家に関わる諸々の事象を指し、「政治哲学」あるいは「哲学」は、それら事象を論じた書物の内容を指す。

9頁

 このようにして、本書で語られる対象がはっきりと示されています。

 続く第1章から順にジャン・ボダン、ホッブズ、スピノザ、ジョン・ロック、ジャン=ジャック・ルソー、ヒューム、カントの政治哲学について論じられていきます。それぞれの具体的内容をここで語ることにさして意味はないですし、そもそもこれは読んだ感想なので、気になった点をいくつか述べることにします。

 まず、ジョン・ボダンと封建国家が取り上げられている第1章。封建国家においては、契約による人的結合しかないことから、今日を生きる私たちにとっては常識的な「領土」という概念がなかったこと。領土という概念が欠落していることから、国内社会と国際社会という区別が成り立たないこと。また、「国民主権」などに使われている「主権」という概念について。この概念がそもそもはボダンが絶対主義を擁護することから生み出されたというのは興味深かったですね。「国民主権」などのという清廉な響きをもつ「主権」という言葉の由来が、対外的には戦争をする権利として、対内的には被支配者を支配するための立法権として生み出されたというのには考えさせられるところがありました。私たちが普段その意味を疑わずに使用している言葉や概念がいったいどのような要請から生まれ、どのような変遷をたどり、そして今日どのような使われ方をしているのか──。当たり前のことなどなにひとつないことを突きつけられます。

 次に「國分功一郎の哲学研究室」でも取り上げられて気になっていたホッブズ『リヴァイアサン』について書かれた第2章。ホッブズといえば「万人の万人に対する闘争」、すなわち自然状態は戦争状態であるという標語がひとり歩きしている印象が個人的に否めないでいましたが、それが具体的にはどのような論理関係をたどっているのか、またどのような前提を有しているのかをみてたいへん興味深いことをいっているなと。そもそも「自然状態」とはなにか。

 自然状態とは何か? これはいかなる決まりも、いかなる権威もない状態、人間が素のままで自然の中に放り込まれている、そういう状態のことである。

42頁

 ホッブズはこの自然状態においては、人間は平等であるといいます。ここにいう平等とはどのようなものか。

これは、「人間には平等な権利がある」とか「人間は差別なく等しく扱われねばならない」といった意味で言われているのではない。そうではなくて、「人間など、どれもたいして変わらない」ということだ。

43頁

 腕力が他の人に比べてあるというのは数人集まれば克服できる類のものであり、「どんぐりの背比べ」にすぎず、このような事態を指して平等といっています。そして能力の平等は「希望の平等」を生み出すとされます。

希望の平等とは、「あいつはいいものを持っている。あいつがあれを持っているのならば、俺だってあれを持っていていいはずだ」という感覚のことである。

43-44頁

 間の論理関係は端折りますが、希望の平等が戦争状態を生むとするのがホッブズの主張です。人が争うのは差異があるからではなくて、むしろ平等だからとするホッブズの主張はなるほどと考えさせられます。たしかに能力の不平等から導き出されるのはあきらめなのかもしれないなあ、と。「國分功一郎の哲学研究室」で紹介されたのをみたときもそうだったのですが、『リヴァイアサン』をぜひ読んでみたいと思いました。

 また、ジョン・ロックを扱った第4章で、ロックの姿勢を批判する國分さんの記述には思わず笑ってしまいました。けっこう辛辣に映ったのと同時に、私自身もハッとさせられました。

 哲学は概念を用いて根拠を問う。新しい哲学が生まれるのは、それまでものごとを基礎付けていると見なされてきた根拠が改めて問い直される時である。ホッブズとスピノザに我々が確認したのはまさしくこれであった。
 対し、根拠が問われずに述べられたことは、どれだけ理論的に見えようとも、哲学にはならない。それは著者の単なる主張である。誰にもものごとを主張する権利はある。だが、主張は必ずしも哲学ではない。ロックの自然状態論とは、まさしくそのような意味での主張である。

106頁

 主張と哲学は違うんだということですね。日常生活や他者との交流において哲学をやる必要はだいたいにおいてないでしょうが、自分自身との対話においては哲学を求められる機会が少なくないでしょう。思い返してみると、私もしばしば哲学ではなく単なる主張をしていました。ここで述べられていることは心に銘記したいです。

 最後に、カントについて述べられた第7章。カントだけでないですが、私たちが「民主主義」という言葉を遣うときに想定する政治体制は、カントにおいては貴族制だということが書かれています。カントは政治体制をふたつの基準で分類します。すなわち、支配の形態(誰が国家の最高権力を所持しているか)と統治方式(国家権力がどのように行使されているか)のふたつです。

(a)支配の形態については、ただ三つの形態だけが可能である。すなわち、最高権力をもつのが一人か、数人か、全員か。これは当然、君主制、貴族制、そして民主政に対応する。おなじみの形態である。
(b)統治方式には二つしかない。執行権(行政権)を立法権から区別する共和的な方式と、両者を区別せずに国家が自ら与えた法を専断的に執行する専制的な方式。

218頁

 カントの区別に従うと、私たちは貴族制を民主制や民主主義と呼んでいるということになるのです。「民主主義とはなにか?」というのは痛烈な問いです。私たち、いや、少なくとも私は、民主主義という言葉が意味するところやその内実について踏み込んで考えたことがありませんでした。言葉の意味も知らないで、その制度の価値を大切にすることはけっして叶わないでしょう。私たちが今採っている議会制民主主義という制度をかりに価値あるものだとして守りたいと考えるのであれば、その言葉を大切にしないわけにはいきません。そして、言葉を大切にするということは、その言葉がいったいなにを意味するのかという問いを不断に考えるということでしょう。

 と、ここまで感想めいたものを書いてきました。正直ものすごく疲れましたし、納得いくものを書けたとは思っていません。もっと書きたいことはあったのだけど、体力的制約から今回はこれくらいにしておきます。まあ、だいいち、一度に一気に書こうとするのがよくないんですね、きっと。とりあえず今回はこうしてやろうと思っていたことを形だけでも実践できたことだけでよしとします。これから実践を重ねていくうえで、少しずつ自分が納得できるものにしていけたらなあ、と。


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